2021年2月12日

【訃報】フラメンコギターの名手 パコ・デ・ルシアさん死去

2014年2月26日 21時10分 NHKニュース

フラメンコギターの名手として世界的に知られるスペインのパコ・デ・ルシアさんが25日、滞在先のメキシコで死亡しました。
66歳でした。

パコ・デ・ルシアさんは兄とともにフラメンコギターを始め、10代のころからプロのギタリストとして活躍しました。
スペイン南部の伝統的なジプシー音楽にジャズやブルース、ロックの要素を取り入れ、フラメンコ音楽の幅を大きく広げました。
またジャズ・フュージョンギタリストのアル・ディ・メオラさんやジャズ・ピアニストのチック・コリアさんなど異なるジャンルの著名なミュージシャンとの共演も行いました。
パコ・デ・ルシアさんは25日、滞在先のメキシコで突然体調を崩し、66歳で死亡しました。
スペインの生まれ故郷では、町長が「文化の世界とアンダルシア地方にとって埋めようのない損失だ」とその功績をたたえるとともに、3日間、町全体で喪に服すことを決めました。
フラメンコ音楽に大きな変革をもたらし、世界にその魅力を広めた名手の訃報にスペインでは悲しみが広がっています。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140226/k10015563861000.html





“Friday Night In San Francisco”
地中海の舞踏/広い河
Mediterranean Sundance(Al Di Meola)/Rio Ancho(Paco De Lucia)
http://www.youtube.com/watch?v=nlaCZ106b5w

ほんまもんのカミワザが生んだ魂を揺さぶる音が奔出する瞬間がそこにある…




Paco de Lucía Concierto Aranjuez - Adagio
http://www.youtube.com/watch?v=e9RS4biqyAc

スペインが生んだ世界的作曲家ホアキン・ロドリーゴの名曲「アランフェス協奏曲」。泣き節満載…


paco de lucia aranjuez

paco de lucia



パコ・デ・ルシア に関するツイート



「paco de lucia」(ぐぐる先生)



(2014年2月26日)(追記3/2)


185 件のコメント:

  1. Mediterranean Sundance Friday Night in San Francisco
    http://www.youtube.com/watch?v=nlaCZ106b5w
    http://www.youtube.com/results?search_query=paco%20de%20lucia%20friday%20night%20in%20san%20francisco
     

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  2. パコ・デ・ルシア氏が死去…フラメンコ・ギター
    2014年2月26日22時7分 読売新聞

     スペイン南部アルヘシラス市が26日明らかにしたところによると、フラメンコ・ギター奏者のパコ・デ・ルシア氏がメキシコで死去した。66歳だった。

     スペイン出身。1960年代から、名歌手カマロン・デ・ラ・イスラとの共同アルバムを次々と発表。フラメンコのギター演奏を民族音楽から芸術の域に高めた。チック・コリアらジャズ系のミュージシャンとも共演し、アル・ディ・メオラ、ジョン・マクラフリンらと組んだ「スーパー・ギター・トリオ」の活動でも人気も集めた。(パリ)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20140226-118-OYT1T01032
     

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  3. Paco de Lucia Trio 1997- SPAIN
    http://www.youtube.com/watch?v=_e0hdzzucbo

    Paco de Lucia,John McLaughlin y Al di Meola interpretando el tema SPAIN, 1997, nunca antes interpretado por los tres guitarristas juntos.

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  4. Camaron de la isla con Paco de Lucia.
    http://www.youtube.com/watch?v=ukolCF_LBfY

    http://www.youtube.com/results?search_query=paco%20de%20lucia%20camaron%20dela%20isla
     
    「カマロン・デ・ラ・イスラ」
    https://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%AB%E3%83%9E%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9
     

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  5. Paco de Lucia | Buleria por Solea | Antonia
    http://www.youtube.com/watch?v=zEhA5tu0ee0
    http://www.youtube.com/results?search_query=paco%20de%20lucia%20antonia

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  6. Paco de Lucia - Pula 01.07.2006.avi
    http://www.youtube.com/watch?v=Nv34G5b-ty8

    Arte Flamenco de Paco de Lucia. Concert in Pula, Croatia, 2006
    Add-on recording Constantin Sharoudin, St.Peterbourg, Russia

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  7. これも追加でおながいします。

    プルシェンコ 2004 RN "タンゴ・フラメンコ"
    曲名:パコ・デ・ルシア 「タンゴ・フラメンコ」

    http://www.youtube.com/watch?v=vZAvIPUtWpo

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  8. Alexis Weissenberg - Rachmaninoff Piano Concerto No.2,
    I Moderato
    http://www.youtube.com/watch?v=mtCGHZ6pAA8
    II Adagio Sostenuto
    http://www.youtube.com/watch?v=KmRGa144wEw
    III Allegro scherzando
    http://www.youtube.com/watch?v=3tvFupeaeyY

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  9. アレクシス・ワイセンベルク - Wikipedia
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF

    >アレクシス・ジギスムント・ワイセンベルク(ブルガリア語: Алексис Вайсенберг, 1929年7月26日 - 2012年1月8日)は、ブルガリアのソフィア出身のピアニスト。現代の音楽界で巨匠と称される音楽家のひとりである。

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  10. 「アレクシス・ワイセンベルク」
    https://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF
     

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  11. >クラウディオ・アバド(またはアッバード、Claudio Abbado[1], 1933年6月26日 - 2014年1月20日[2])は、イタリア、ミラノ出身の指揮者である。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%90%E3%83%89

    クラウディオ アバド
    https://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AA+%E3%82%A2%E3%83%90%E3%83%89

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  12. “Friday Night In San Francisco”
    地中海の舞踏/広い河 - Mediterranean Sundance(Al Di Meola)/Rio Ancho(Paco De Lucia)
    http://www.youtube.com/watch?v=nlaCZ106b5w

    フライデイ・ナイト・イン・サンフランシスコ〜スーパー・ギター・トリオ・ライヴ!(Friday Night In San Francisco)
    http://www.youtube.com/results?search_query=friday%20night%20in%20san%20francisco
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%80%9C%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AE%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B4!
    https://www.google.co.jp/search?q=paco+de+lucia+friday+night+in+san+francisco
     

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  13. 音盤ではおなじみのものなのだが、よくぞ「“Friday Night In San Francisco” 地中海の舞踏/広い河」のライブ動画があったものだと、いまの時代に感謝…

    ほんまもんのカミワザの瞬間がそこにある…
     

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  14. 「paco de lucia」動画検索ランキング1位はやはり…
    https://www.google.co.jp/search?q=paco+de+lucia
    http://www.youtube.com/results?search_query=paco%20de%20lucia

    Paco de Lucia - Entre dos aguas (1976) full video
    http://www.youtube.com/watch?v=2oyhlad64-s

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  15. Paco de Lucia - Rio Ancho 1996 Directo
    http://www.youtube.com/watch?v=MTGMhwlY0Ls
    http://www.youtube.com/results?search_query=paco%20de%20lucia%20rio%20ancho
     

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  16. ユーチューブ「paco de lucia」アップロード最新順
    http://www.youtube.com/results?search_query=paco+de+lucia&search_sort=video_date_uploaded
     

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  17. Wynton Marsalis y Paco de Lucía: 'Deep Blue'
    http://www.youtube.com/watch?v=gbfs_rp5WIk

    「paco de lucia wynton marsalis」
    http://www.youtube.com/results?search_query=paco%20de%20lucia%20wynton%20marsalis&sm=1

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  18. Paco De Lucia Zyryab
    http://www.youtube.com/watch?v=ITGuLBTNGeI
    http://www.youtube.com/results?search_query=paco%20de%20lucia%20zyryab

    https://www.google.co.jp/search?q=paco+de+lucia+zyryab
     

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  19. 山本邦山さん 死去…76歳 尺八の人間国宝
    2014年2月10日15時2分 読売新聞

     尺八の人間国宝で、ジャズやクラシック音楽との共演など幅広い音楽活動で邦楽界に大きな影響を与えた二世山本邦山(やまもと・ほうざん=本名・泰正=やすまさ)さんが10日朝、亡くなった。76歳だった。告別式は未定。

     滋賀県出身で、父は初世山本邦山さん。幼少期から尺八の稽古に励み、1946年に中西蝶山ちょうざんさんに師事、58年に二世邦山を襲名した。尺八の独奏や合奏、箏や三絃との演奏で邦楽器の魅力を広めたほか、他の音楽分野とも積極的に交流。ジャズでは原信夫さん、山下洋輔さんらと共演し、クラシックでもNHK交響楽団などのステージにたびたび出演した。新曲の創作にも力を注ぎ、尺八演奏の可能性を広げた活動が、海外でも高く評価された。

     尺八都山流邦山会を主宰して指導・普及活動を行い、藤原道山さんら多くの弟子を育てた。東京芸大教授も務め、2005年に同大名誉教授。02年に人間国宝の認定を受け、04年に紫綬褒章、09年に旭日小綬章を受章。著書に「尺八演奏論」などがある。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20140210-118-OYTPT00782

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  20. 追悼 山本邦山さん 現代を表現した尺八…小島美子
    2014年2月24日15時1分 読売新聞

     人間国宝の尺八奏者だった山本邦山が10日、76歳で急逝した。日本音楽史研究が専門で、邦山の人柄を知る小島美子とみこ・国立歴史民俗博物館名誉教授(84)が、追悼文を寄せた。

       ◇

     尺八演奏家、山本邦山さんが急逝された。それは1月末にも共に仕事をした私にとっては過酷な知らせであった。これからの邦楽の将来を考える上でもっとも大切な頼りになる人が突然姿を消したのである。

     彼は若い時から古典を深い理解と巧みな技術で演奏し、都山とざん流の流祖・中尾都山が聴いて涙したと言われる。邦楽を現代の音楽として展開する必要性を考え、横山勝也、青木鈴慕との尺八三本会の活動をはじめ、多くの現代曲を演奏、自らも作曲した。ニューポート・ジャズ・フェスティバルでの演奏など、国内外のジャズの演奏家とも共演した。

     ただ指孔ゆびあなが五つだけの単純な構造の尺八が、現代を表現する多彩な楽器であることを彼は証明したのである。彼は軽々しく口にすることはなかったが、日本の伝統音楽の向かうべき方向についてのはっきりした音楽観を持っており、弟子たちをはじめ邦楽の広い分野の人々に影響を与えた。

     1999年に東京芸大教授になると、驚くほど真剣に勤め、2002年に人間国宝になると、更に教育と普及の責任を感じていたらしい。しかし、彼はいつも決して高ぶらず、多くの気配りも謙虚さもさりげなく、自らの弱みも隠すことなく、気さくな自然体で多くの人から愛された。彼の人々に対する深い愛情は、東日本大震災で被災された方々にも注がれていた。最近も被災地を目にした時の話を、のどをつまらせ涙と共に切々と訴えられたのである。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20140223-118-OYTPT00996
     

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  21. 「山本邦山 原信夫 1967年」
    https://www.google.co.jp/search?q=%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E9%82%A6%E5%B1%B1+%E5%8E%9F%E4%BF%A1%E5%A4%AB+1967%E5%B9%B4
     

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  22. 鈴慕にも勝也にもできない、邦山じゃなかったらできなかった偉業…

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  23. 2014-02-28 07:03:17
    R.I.P. 山本邦山&パコ・デ・ルシア
    http://ameblo.jp/kobaz3/entry-11782696888.html
     
    https://www.google.co.jp/search?q=%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E9%82%A6%E5%B1%B1+take+five
     

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  24. El embrujo de la guitarra española
    https://www.youtube.com/watch?v=7MZ_K7EmDEw

    Paco de lucia TOKYO 1986
    https://www.youtube.com/watch?v=a9sEdh_Ce8Y

    ギターテクも筋力の衰えに左右されるなあ…

    本当の全盛期っていくらもない。
     
    フィッシャーディースカウのドイツリートもまた同じ…
     

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  25. Paco De Lucia- Zyryab, parte I
    https://www.youtube.com/watch?v=myG5mZxwNOg
    Paco De Lucia- Zyryab, parte II
    https://www.youtube.com/watch?v=8X4IBM9ElY4

    https://www.youtube.com/results?search_query=paco%20de%20lucia%20zyryab
     

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  26. Paco de Lucía y Chick Corea
    https://www.youtube.com/watch?v=E52cxToA2O4
     
    「chick corea spain」
    https://www.youtube.com/results?search_query=chick%20corea%20spain

    Spain
    https://www.youtube.com/watch?v=huIcAdTbMbM
     

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  27. Spain - Al Di Meola, John McLaughlin, Paco De Lucia
    https://www.youtube.com/watch?v=FlAyEN07JjI

    Chick Corea Akoustic Band - Spain
    https://www.youtube.com/watch?v=wD92FS1Y7c4

    Chick Corea and Return to Forever - Spain
    https://www.youtube.com/watch?v=a_OEJ0wqt2g

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  28. Paco de Lucia | Buleria por Solea | Antonia
    https://www.youtube.com/watch?v=zEhA5tu0ee0

    「paco de lucía Bulerias」
    https://www.youtube.com/results?search_query=paco%20de%20luc%C3%ADa%20Bulerias
     

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  29. Paco de lucia - flamenco Carlos Saura
    https://www.youtube.com/watch?v=Mf_bE5WMmd4

    「paco de lucía carmen」
    https://www.youtube.com/results?search_query=paco%20de%20luc%C3%ADa%20carmen
     

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  30. Carmen (Carlos Saura, 1983)
    https://www.youtube.com/watch?v=_ycARD863E4
    https://www.youtube.com/watch?v=siz4Cjp6nmk
     

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  31. 「carmen 1983」
    https://www.youtube.com/results?search_query=carmen%201983
     

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  32. Carlos Saura - Carmen (1983)
    https://www.youtube.com/watch?v=qabQZBeCjgs
     

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  33. >Yahoo!JAPAN「団まりな 訃報」 で検索

    で、ここに来る人多数…
     

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  34. 「団まりな」はこちら…
    http://koibito2.blogspot.jp/2013/12/blog-post_12.html

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  35. 「佐野実」のニュース
    http://www.2nn.jp/word/%E4%BD%90%E9%87%8E%E5%AE%9F

    ★東アジアニュース速報+ 14/04/14 19:32 371res 3.1res/h □
    【食文化】「ラーメンの鬼」の死に日本中が追悼ムード
    ★芸能・スポーツ速報+ 14/04/14 02:05 259res 1.9res/h □
    【訃報】「ラーメンの鬼」佐野実さん死去 63歳★4 画像あり
    ★ニュース速報+ 14/04/13 16:16 332res 3.4res/h □
    【社会】「ラーメンの鬼」佐野実さん死去、常連客らが追悼の一杯
    ★芸能・スポーツ速報+ 14/04/12 04:13 1001res 32res/h □
    【訃報】「ラーメンの鬼」佐野実さん死去 63歳★3 画像あり
    ★ニュース速報+ 14/04/11 22:48 1001res 34res/h □
    【訃報】病室ですすった最後のラーメン 亡くなった佐野実さん★2
    ★芸能・スポーツ速報+ 14/04/11 20:13 1001res 187res/h □
    【訃報】「ラーメンの鬼」佐野実さん死去 63歳★2 画像あり
    ★ニュース速報+ 14/04/11 20:05 1001res 361res/h □
    【訃報】病室ですすった最後のラーメン 亡くなった佐野実さん
    ★ニュース速報+ 14/04/11 17:08 1001res 340res/h □
    【訃報】人気ラーメン店『支那そばや』創業者で「ラーメンの鬼」の異名 佐野実(63歳)さん死去
    ★痛いニュース+ 14/04/11 16:56 181res 0.9res/h □
    【訃報】「ラーメンの鬼」佐野実さん、死去 63歳
    ★芸能・スポーツ速報+ 14/04/11 16:52 1001res 569res/h □
    【訃報】「ラーメンの鬼」佐野実さん死去

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  36. 指揮者のロリン・マゼール氏死去
    7月14日 8時25分

    世界的な指揮者で、アメリカで最も古い歴史を持つオーケストラ「ニューヨーク・フィルハーモニック」の音楽監督などを務めたロリン・マゼール氏が、13日、亡くなりました。
    84歳でした。

    アメリカ人のロリン・マゼール氏は、1930年にパリで生まれ、5歳からバイオリン、7歳から指揮を学び、8歳のときに指揮者としてデビューしました。
    若くしてアメリカの主要なオーケストラを指揮したあと、世界を代表するオペラハウス、オーストリアのウィーン国立歌劇場の総監督や、アメリカで最も古い歴史を持つオーケストラ「ニューヨーク・フィルハーモニック」の音楽監督を務めました。
    また、2008年には「ニューヨーク・フィルハーモニック」を率い、北朝鮮の首都ピョンヤンでの公演も行い、世界中の注目を集めました。
    マゼール氏は、後進の育成にも努め、今月、世界中の若手音楽家が札幌に集まる国際音楽祭でも首席指揮者を務める予定でしたが、健康上の理由で参加を見合わせていました。
    マゼール氏は肺炎による合併症で、13日、アメリカ南部バージニア州の自宅で亡くなったということです。
    84歳でした。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140714/k10015985781000.html

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    1. ベルリン・フィル、後任決まらず 首席指揮者

       【ベルリン共同】世界最高峰のオーケストラの一つ、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は11日、首席指揮者兼芸術監督サイモン・ラトル氏の後任を決めるための投票を行ったが、結論が出なかったと発表した。

       英国人で世界的指揮者でもあるラトル氏は2017年にロンドン交響楽団の音楽監督に就任、18年にはベルリン・フィルを退任することが決まっている。

       120人を超える団員が集まり、11時間以上にわたり議論を重ねたが、合意に至らなかった。今後1年かけて選出を目指すという。

      2015/05/12 10:31 【共同通信】
      http://www.47news.jp/CN/201505/CN2015051201001170.html

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    2. カラヤンなきあと、アバドではなく、マゼールやバレンボイムだったらば…

      ほかに、レヴァイン、ムーティ…

      CD時代になって、OSM(モントリオール交響楽団)はシャルル・デュトワで大成功を収めたのだが…

      削除
    3. ベルリン・フィルの次期首席指揮者決まらず、1年以内に再協議

      【ベルリンAFP=時事】世界的な名門オーケストラ、ドイツのベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は11日、首席指揮者の選出を目指し11時間以上にわたって協議したが結論は出なかったと発表した。「今後1年以内」に再度協議する方針だという。(写真はベルリンにある同楽団のコンサートホール)
       同オーケストラの役員の一人、ペーター・リーゲルバウアー氏は記者会見で、数回の投票を繰り返したにもかかわらず「残念ながら選出には至らなかった」と述べ、「(選出の)プロセスは継続していかざるを得ず、1年以内には決まるはずだ」という見通しを示した。
       現在首席指揮者を務める英国出身のサイモン・ラトル氏は、2018年に退任することが決まっている。同日午前10時(日本時間同日午後5時)ごろ、ベルリンの南西地区にある教会に楽団員124人が集まり、無記名投票を開始した。
       団員らは守秘の誓いを立て、投票の場への携帯電話や録音装置の持ち込みも禁止された。その厳密さはしばしばローマ・カトリック教会の法王選出会議「コンクラーベ」に例えられる。
       ラトル氏の後任として名前が挙がっているのは、地元ベルリン出身で現在はドレスデン国立歌劇場管弦楽団のクリスティアン・ティーレマン氏(56)、ラトビア出身で米ボストン交響楽団と英バーミンガム市交響楽団を掛け持つアンドリス・ネルソンス氏(37)、ベネズエラ出身で米ロサンゼルス・フィルハーモニックの指揮者、グスターボ・ドゥダメル氏(34)ら。
       1882年創立のベルリン・フィルは、世界最高のオーケストラと称されることも多い。首席指揮者は、他のオーケストラでは役員会や理事会、時には政治家によって選ばれるのが一般的で、このように投票で選出されるのは珍しい。【翻訳編集AFPBBNews】
      〔AFP=時事〕(2015/05/12-14:33)
      http://www.jiji.com/jc/a?g=afp_all&k=20150512032712a

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    4. ベルリン・フィル、次期首席指揮者決定を先送り 意見割れる
      2015/5/12 12:21

       【ベルリン=赤川省吾】世界最高峰のオーケストラであるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は11日、次期首席指揮者の決定を先送りしたと発表した。現任のサイモン・ラトル氏が2018年で退任するため、その後任を選ぶ会合を16年ぶりに開いた。だがオケ団員の意見が割れ、「結論が出なかった」(同オケの広報担当者)という。

       ベルリン・フィルは楽団を率いる首席指揮者をオケ団員の投票で決める。同日午後、ベルリン市郊外で123人が出席して開かれた会議は日没まで続いたものの、意見がまとまらなかった。オケの代表者は独メディアに「1年以内に会合をやり直す」と語った。

       下馬評には何人かの名前が挙がったものの、どの指揮者も一長一短で決め手を欠いた。

       例えばドイツ系のスター指揮者、クリスティアン・ティーレマン氏はシュトラウスなどドイツ音楽の解釈では定評がある。だが得意曲(レパートリー)が少なく、組織運営では独断専行ばかりが目立つ。最近では移民排斥を掲げる旧東独の政治団体に理解を示し、波紋を広げた。

       対抗馬だったラトビア出身の若手指揮者、アンドリス・ネルソンス氏は対照的に温和な人柄。現代音楽まで振れる音楽性の幅の広さもある。だが解釈に深みが足りないと批評されることが多い。

       ベルリン・フィルの首席指揮者はオケの音色や演奏水準に大きな影響を与えるだけでなく、クラシック音楽界の方向性を決定づける重要ポスト。それだけに世界の若手指揮者の成長を見極めつつ、だれにバトンを渡すのかゆっくり検討する。
      http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG12H15_S5A510C1CR0000/

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    5. 2015.4.29 01:00
      ベルリン・フィル訪日へ 来年5月に東京公演

       世界最高峰のオーケストラの一つ、ドイツのベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は28日、2016年5月に東京公演を行うと発表した。日本公演は13年以来となる。

       今年8月から来年6月に、パリやニューヨーク、台北など17都市を訪れ公演する予定。日本公演は来年5月11~15日の5日間で、東京都港区のサントリーホールで行われる。同楽団のサイモン・ラトル音楽監督が指揮し、ベートーベンの曲を演奏する。

       同楽団は1957年、音楽監督を務めていたカラヤン氏が率いて初めて日本公演を実施し、その後も訪日を重ねている。11年には東日本大震災の被災者支援のため、ベルリンでチャリティー公演も行った。(共同)
      http://www.sankei.com/world/news/150429/wor1504290009-n1.html

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  37. ぱっと思いつくアルバムはないけれど、やはり「ニューイヤーコンサート」…
    https://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%AD%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%BC%E3%83%BC%E3%83%AB+%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%88

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  38. エアギター世界選手権 19歳日本人女性が優勝
    8月30日 12時18分

    ロックの音楽にあわせて実際にギターを演奏しているかのように見せる「エアギター」の世界選手権がフィンランドで開かれ、19歳の日本人女性が優勝しました。

    29日、フィンランドで開かれた世界選手権には、日本のほか、アメリカやオランダなど9つの国と地域から予選を勝ち抜いた16人が出場しました。
    競技は、自由曲と課題曲にあわせたパフォーマンスを、審査員が独創性やリズム感、ステージでの存在感など6つの要素で採点するもので、参加者は、鳴り響くロックの音楽に合わせて実際にギターを弾いているかのように激しく体を揺らし、集まった数千人の観客を熱狂させました。
    日本を代表して出場した名倉七海さん(19)は、アメリカの代表と同点の1位となり、優勝決定戦に臨みました。
    決定戦で名倉さんは、長い髪を振り乱して縦横無尽にステージを駆け回る躍動感あふれるパフォーマンスを披露し、見事、僅差で優勝しました。
    世界選手権で日本人が優勝するのは、7年ぶりのことで、名倉さんには、本物のエレキギターが賞品として贈られました。
    名倉さんは、「エアギター」を披露するアイドルグループに所属していたこともあり、「大好きなエアギターの世界選手権に出場でき、さらに優勝までできて、うれしいです」と話していました。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140830/k10014212181000.html

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  39. Paco de Lucía y Chick Corea
    https://www.youtube.com/watch?v=E52cxToA2O4
    https://www.youtube.com/results?search_query=chick+corea+spain

    PACO DE LUCIA - CHICK
    https://www.youtube.com/watch?v=E8bC-BsaU5Q
    Paco de Lucia - Chiquito
    https://www.youtube.com/watch?v=psGqk6XS5eU
    https://www.youtube.com/results?search_query=paco+de+luc%C3%ADa+Chiquito

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  40. 【訃報/ジャズ】サックス奏者のオーネット・コールマン死去…85歳 ジョン・コルトレーンらとフリージャズを築く
    http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1434041105/

    「オーネット・コールマン」
    https://www.google.co.jp/search?tbm=nws&q=%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3

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    1. フリージャズのオーネット・コールマン氏死去
      2015年06月12日 01時04分

      【ニューヨーク=水野哲也】米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)によると、米国のジャズ・サックスの巨匠、オーネット・コールマン氏が11日、ニューヨークで死去した。85歳だった。

       テキサス州フォートワース生まれ。従来のジャズの構成を外れ、即興中心に組み立てる斬新な形式「フリージャズ」の先駆者と呼ばれ、1959年に発表したアルバム「ジャズ来るべきもの」は、ジャズ史上最大の問題作と言われた。

       70年代以降は、民族音楽やロックの要素の導入、オーケストラとの共演など、野心的な試みを続けた。

       2001年に「高松宮殿下記念世界文化賞」を受賞。06年には読売新聞主催で来日公演を行った。
      http://www.yomiuri.co.jp/culture/20150612-OYT1T50004.html

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  41. 天野尚さん「集大成」写真展
    2015年08月27日

    ◆弥彦で来月5日から 亡くなる2日前まで準備

     今月4日に肺炎で亡くなった新潟市出身の自然写真家・天野尚さん(享年61歳)の写真展「創造の原点」が9月5日から、弥彦村の弥彦の丘美術館などで始まる。天野さんはこの写真展を自身の「集大成」と位置づけ、亡くなる2日前まで準備を進めていたという。(石橋正洋)

     天野さんはアフリカやブラジルなどを旅して大自然をカメラに収め、国内外の水族館などで、「ネイチャーアクアリウム」という自然に近い水槽の演出にも力を入れていた。

     写真展は、弥彦神社(弥彦村)の遷座100年を記念した企画として同村が天野さんに依頼。天野さんは同村に近い旧巻町出身。競輪選手として同村の競輪場で活躍するなど村との関係が深く、快諾した。写真展のタイトルは天野さんが考えたものだ。

     天野さんの「これまでの作品を網羅した内容にしたい」との意向で、南米・アマゾンの自然から日本の神社仏閣まで、幅広いジャンルの計約180点が並ぶ予定になっている。

     この写真展のため、天野さんは2014年12月、弥彦神社を撮影した。「神社の清冽せいれつなイメージを表現するには雪がいい」と、初雪の早朝に雪化粧の拝殿を写した。

     同美術館の五十嵐敬吾館長(86)は、「神社が一番荘厳に神々しく見える瞬間を撮ってもらった」と感謝する。

     数年前に胃がんの手術を受けた天野さんが親しいスタッフに「発表できる最後の作品になるだろう」と打ち明けていた写真も初公開される。鹿児島県の病院で療養中に撮影した鹿児島市内の街並みのモノクロ写真だ。

     撮影した写真の中から雨の飲み屋街や路面電車、魚市場など54枚を選び出す作業は、亡くなる直前の8月2日まで続いたという。

     天野さんが社長を務めたアクアデザインアマノのメディア事業部長・阿部正敏さん(45)は、「普通は体調が悪ければ人に任せるものだが、やると決めたら絶対に妥協しない。全ての創作活動に通じる姿勢だった」と振り返る。

     天野さんは生前、打ち合わせでは「弥彦山を見ながら育ち、弥彦神社にもよく訪れたので思い入れがある。大勢の人に見てもらいたい」と話していたという。

     写真展は10月12日まで。午前9時半(初日は午前10時半)~午後4時半。入場料700円。中学生以下無料。開催前の問い合わせは、弥彦総合文化会館(0256・94・4311)へ。
    http://www.yomiuri.co.jp/local/niigata/news/20150826-OYTNT50388.html

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    1. 蜷川実花さん作品中でクラゲ浮遊…すみだ水族館
      2015年9月9日7時46分

       東京スカイツリー(東京都墨田区)の足元にある「すみだ水族館」で9日から、写真家で映画監督の蜷川実花さんの作品の中をクラゲが浮遊しているように演出した「クラゲ万華鏡トンネル」が始まる。

       トンネルの壁と天井には、5000枚の鏡が敷き詰められている。トンネル内のクラゲ水槽には、夜景や雑踏などを撮影した蜷川さんの写真と動画が映し出され、海の中を漂っているような感覚が味わえるという。

       報道陣に公開された8日は、蜷川さんと親交のあるモデルの土屋アンナさんもゲストとして登場。「大きな感動が得られ、ストレスの解消にもなる」とPRした。12月27日まで。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20150909-118-OYT1T50011

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  42. 【訃報】ピエール・ブーレーズ氏
    http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1452082623/

    ピエール・ブーレーズ - Wikipedia
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%BA

    「ピエール ブーレーズ」
    https://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB+%E3%83%96%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%BA

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    1. 仏作曲家 ブーレーズさん死去 - 2016/1/6
      http://news.yahoo.co.jp/pickup/6186680

      仏作曲家のピエール・ブーレーズ氏死去=90歳、現代音楽の巨匠
      時事通信 1月6日(水)21時15分配信

       【パリ時事】現代音楽の巨匠の一人とされ、指揮者としても著名なフランスの作曲家、ピエール・ブーレーズ氏が5日、自宅のあるドイツ南西部バーデンバーデンで死去した。
       90歳だった。親族が6日、仏メディアに明らかにした。死因は公表されていないが、晩年は病気で外出を控えていたという。
       1925年に仏中部モンブリゾンで生まれる。パリ国立高等音楽院で学び、40年代半ばごろから本格的に作曲を開始。55年に代表作の一つである「マルトー・サン・メートル」を発表し、現代音楽家として確固たる地位を築いた。
       50年代後半からは指揮者としても活躍し、米クリーブランド管弦楽団や英BBC交響楽団など各国の楽団を指揮した。仏国内では電子音楽の研究施設を創設し、教育活動にも取り組むなど後進の育成に尽力。仏エリゼ宮(大統領府)は声明を出し、「フランスの音楽を全世界にとどろかせた」とその功績をたたえた。
       生前はたびたび訪日し、多くの著作が日本語に翻訳された。高松宮殿下記念世界文化賞(89年)、京都賞(2009年)も受賞している。 
      http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160106-00000169-jij-eurp

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    2. ピエール・ブーレーズ氏死去
      仏の指揮者・作曲家

      2016年1月6日 23時31分 共同通信

       【パリ共同】フランスのメディアによると、フランスの指揮者で作曲家としても知られるピエール・ブーレーズ氏が5日、ドイツ南西部バーデンバーデンで死去した。90歳。死因は不明だが、病気のため療養中だった。

       1925年、フランス・ロワール県生まれ。パリ国立音楽院で作曲家メシアンらに師事し、50年代から現代音楽を代表する指揮者、作曲家、音楽理論家として知られた。作曲では「ル・マルトー・サン・メートル」、「レポン」などの作品を残した。

       ニューヨーク・フィルハーモニック、BBC交響楽団、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団など世界の多くの有名楽団で指揮者などを務めた。
      http://this.kiji.is/57463410111086595

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    3. 仏作曲家・指揮者ブーレーズさん死去…90歳
      2016年1月6日23時1分

       【パリ=本間圭一】仏紙ル・モンドなどによると、世界的に知られるフランスの作曲家で指揮者のピエール・ブーレーズさんが5日、ドイツのバーデンバーデンで死去した。

       90歳だった。

       フランス生まれ。パリ音楽院でメシアンに学び、作曲を始めた。厳格な音楽理論と緻密な作曲技法に基づく斬新な作風で、ノーノやシュトックハウゼンらとともに20世紀後半の音楽界に決定的な影響を与えた。

       現代音楽の指揮者が少ないため、1950年代から、自ら指揮者として活動を始め、71年には、ニューヨーク・フィルの音楽監督に就任した。70年代半ばには、パリに創設されたIRCAM(フランス国立音響音楽研究所)の所長に就任するとともに、コレージュ・ド・フランス教授となった。ベルリン・フィルやウィーン・フィルなど、一流オーケストラへの客演を続けていた。

       日本でもファンが多く、95年には70歳を記念して、自ら企画した「ピエール・ブーレーズ・フェスティバル」が東京で開かれ、自作曲などを指揮した。2015年にはフランソワ・グザヴィエ・ロトさんが指揮する読売日本交響楽団が代表曲「ノタシオン」を披露している。

       1989年に高松宮殿下記念世界文化賞。2009年に京都賞。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20160106-118-OYT1T50133

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    4. 現代音楽を代表する作曲家 ブーレーズ氏死去
      1月7日 7時41分

      現代音楽を代表するフランスの作曲家で世界的な指揮者としても知られるピエール・ブーレーズ氏が5日、ドイツで死去しました。90歳でした。

      ブーレーズ氏は、パリ国立音楽院で作曲を学び、第2次世界大戦後の1950年代から現代音楽を代表する作曲家として活躍しました。その後は指揮者としても頭角を現し、「ニューヨーク・フィルハーモニック」や「BBC交響楽団」、それに「シカゴ交響楽団」など世界の著名な楽団で指揮者や音楽監督を務めました。
      また、コンピューターを用いた作曲を取り入れたことでも知られ、その功績などが評価されて、1989年に世界の優れた芸術家に贈られる「高松宮殿下記念世界文化賞」、2009年に科学や芸術の発展に貢献した人に贈られる「京都賞」に選ばれています。
      フランス大統領府は声明で、「彼はフランス音楽を世界中に輝かせてくれた。作曲家や指揮者として常に時代を考えていた」とブーレーズ氏の功績をたたえています。
      ブーレーズ氏は、長年を過ごしたドイツ南西部の保養地で5日、90歳で死去しました。
      http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160107/k10010363721000.html

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  43. ロック歌手、デビッド・ボウイさん死去…BBC
    2016年01月11日 16時53分

     【ロンドン=角谷志保美】英BBC放送などによると、英ロック歌手デビッド・ボウイさんが10日、死去した。69歳だった。

     ボウイさんの公式フェイスブックなどには10日付けで、「デビッド・ボウイは本日、18か月のがんとの勇敢な戦いを経て、家族に囲まれて静かに息を引き取った」との文章が掲載された。

     ボウイさんは誕生日の8日に、最新アルバムを発表したばかりだった。
    http://www.yomiuri.co.jp/culture/20160111-OYT1T50046.html

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    1. 英ロックシンガー デビッド・ボウイさん死去
      1月11日 17時54分

      「20世紀で最も影響力のあるアーティスト」にも選ばれ、数々の名曲を生み出したイギリスのロックシンガー、デビッド・ボウイさんが10日、がんのため亡くなりました。69歳でした。

      デビッド・ボウイさんの公式ツイッターやフェイスブックは「デビッド・ボウイは、18か月間、がんと果敢に闘ったあと、10日、家族にみとられながら、安らかに息を引き取った」と発表しました。
      ボウイさんは1947年、ロンドン南部のブリクストンで生まれました。13歳のときに、サクソフォンを習い始めたことをきっかけに、さまざまなバンドに所属して音楽活動を始めます。70年代には、奇抜な衣装やメイク、それに派手なパフォーマンスが話題となりました。1983年には「レッツ・ダンス」が全世界で700万枚を超える大ヒットとなり、ロックシンガーとしての地位を不動のものにし、2000年にイギリスの音楽雑誌が行ったアンケートでは「20世紀で最も影響力のあるアーティスト」にも選ばれました。
      また、大島渚監督の映画「戦場のメリークリスマス」にイギリス軍の少佐役として坂本龍一さんやビートたけしさんなどとも共演するなど俳優としても活躍しました。
      ボウイさんは、今月8日の誕生日にも新作のアルバムを発表するなど音楽活動を続けていましたが、10日、がんにより69歳で亡くなりました。
      http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160111/k10010367851000.html

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    2. 矢野顕子、ボウイさんを追悼「かっこいいってこういうこと、の永久欠番ですね」
      2016年1月11日21時58分

       シンガー・ソングライターの矢野顕子(60)が、10日(日本時間11日)にがんのため亡くなった英ロック歌手、デビッド・ボウイさん(享年69)をツイッターでしのんだ。

       11日に更新したツイッターで矢野は、「ボウイさんへ。かっこいいってこういうこと、の永久欠番ですね。私が個人的に触れ合ったことは数回しかありませんが、一番心に残っているのは,幼かった娘をとても可愛がってくれ、六本木の街を肩車して歩くご機嫌な姿です」とボウイさんへの思いをつぶやき、追悼した。

       矢野の夫だったミュージシャンの坂本龍一(63)は、1983年の映画「戦場のメリークリスマス」でボウイさんと共演している。矢野と坂本の間には80年に長女・美雨(現ミュージシャン)が誕生。その美雨は昨年、女児を出産した。矢野はツイッターを「その娘にも娘が。」と締めくくり、ボウイさんに報告している。

       母のツイートを受け坂本美雨も11日にツイッターを更新。「肩車とかはざんねんながら覚えてないけど、すっごく綺麗な男の人のことはボヤッと記憶にある」とし、「もういないなんて、デヴィッドの生きてない世界だなんて、まだ現実味がぜんぜんないな。。」とボウイさんの死をしのんだ。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20160111-064-OHT1T50138

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    3. 坂本龍一「信じられない」…デビッド・ボウイさんの訃報に
      2016年1月12日6時0分

       華美な服装やメークで一世を風靡(ふうび)し、「20世紀で最も影響力のあるアーティスト」にも選ばれた英国の世界的ロック歌手、デビッド・ボウイさんが10日、死去した。

       ボウイさんの訃報は世界に広がり、影響を受けたアーティストらがツイッターやフェイスブックに哀悼の意を寄せた。

       米ゴールデングローブ賞授賞式のため滞在していたロサンゼルスで悲報を聞いた坂本龍一(63)は「…can’t believe.」(信じられない)と一言。シンガー・ソングライターの矢野顕子(60)は「ボウイさんへ。かっこいいってこういうこと、の永久欠番ですね」とつづった。ロックミュージシャンの清春(47)は、12年前のボウイさんの来日公演で前座を務め「握手してもらった手の感触も笑顔も忘れないです」と振り返った。

       米人気歌手のマドンナ(57)は「打ちのめされている。この偉大なアーティストは、私の人生を変えた」とツイッターに投稿。「魂は永遠に生き続ける」と記した。米パンクロック歌手イギー・ポップは「彼との友情は人生の光だった」と別れを惜しんだ。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20160112-064-OHT1T50029

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    4. さようならD・ボウイ…山本寛斎
      2016年1月12日3時0分

      ◇繊細で極端 無二のスター

       現在、世界を巡回中の企画展「デビッド・ボウイ・イズ」が2017年に日本で開催される予定で、僕の衣装が何点も採用されている。彼が来日したら、いろいろなことをやろうと思って準備していた。

       彼は音楽だけではなく、ファッションという武器も持っていて、見る人に訴える。男と女という性差を壊した人で、時代を先取りしていた。奇抜な衣装で知られる歌手のレディー・ガガが「お父さんのよう」と尊敬していた。

       1971年にロンドンでファッションショーを開催した時に、ボウイが僕の服を買ってくれた。「ステージ衣装を作ってほしい」という依頼があって、ニューヨークで会った。

       二人とも変わり者で、歌舞伎などの日本の文化と西洋の価値観がぶつかったがゆえに、不思議なことが起きた。出会わなかったらお互いに伸びていないし、僕と仕事をしていた時のボウイが一番さえていたんじゃないか。

       そういえば付き合っていた当時、何語で会話していたか思い出せない。もちろん英語だったのだろうが、理詰めでどうこういう世界じゃないから。変わったコミュニケーションをしていたように、人からは見えたと思う。

       お互いにある一線を超えて踏み込まなかったが、私生活ではおとなしく、繊細で、神経質な人だった。舞台に上がるとギアが入るのだろう。

       誰かに似ているというアーティストではなく、世界で一つの道を進んだ。世界に出るためには変わり者じゃないといけない。それも極端じゃないとスターになれない、という姿勢に影響を受けた。

       がんで痩せていく姿を見たわけではないから、あの世に行った気がしない。

       (デザイナー、談)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20160111-118-OYTPT50299

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    5. 謎に包まれる死=最期の地も非公表-デビッド・ボウイさん

       【ロンドンAFP=時事】10日に69歳で他界した英ロック歌手デビッド・ボウイさんについて、最期の様子は12日になっても公表されず、謎に包まれている。
       ボウイさんの死去は11日朝、公式ツイッターで明らかにされた。しかし、「18カ月のがん闘病の末、亡くなった」と記されているだけで、死の状況や場所は公にされていない。一部の英メディアは、長期住んでいたニューヨークで死去したと伝えたが、ニューヨーク・ポスト紙は「ロンドンの自宅で死去」と報じた。
       健康を害していた事実を知っていたのも親しい知人だけ。親交が深かった作曲家ブライアン・イーノさんでさえ、死去の知らせに「非常に驚いた」と語った。
       そんな中、妻イマンさんは死去前日の9日、ツイッターに「瞬間の真の価値は、それが思い出になるまで決して分からないこともある」と書き込んでいた。また、昨年12月7日からニューヨークで上演されているボウイさんのミュージカル「ラザルス」を担当した演出家イボ・バンホーベ氏はオランダ公共放送に、ボウイさんは肝臓がんを患っていたと語った。
       ボウイさんは8日、最新アルバム「★」(ブラックスター)を発売したばかり。バンホーベ氏は、ボウイさんは「★」と「ラザルス」を手遅れになる前に完成させようと必死だったと振り返った。(2016/01/13-07:04)
      http://www.jiji.com/jc/c?g=int&k=2016011300090

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  44. EW&F モーリス・ホワイトさん死去
    2月5日 11時58分

    「セプテンバー」などの世界的なヒット曲で知られるアメリカのバンド「アース・ウインド・アンド・ファイアー」のリーダーのモーリス・ホワイトさんが3日、亡くなりました。74歳でした。

    これは、バンドがフェイスブックやツイッターの公式アカウントで明らかにしました。モーリス・ホワイトさんは、アメリカ南部、テネシー州メンフィス生まれ。1969年にバンドを結成し、その後、バンド名を「アース・ウインド・アンド・ファイアー」と改名して、アメリカ西海岸、ロサンゼルスを拠点に活動を行いました。
    アース・ウインド・アンド・ファイアーは親しみやすいメロディーとホワイトさんらのツインボーカル、それに華やかで重厚なホーンセクションが特徴で「セプテンバー」や「ブギー・ワンダーランド」など数々のヒット曲を世に送り出しました。
    世界でのレコード、CDの売り上げは9000万枚に上り、アメリカ音楽界最高の栄誉とされるグラミー賞を6回受賞し、2000年には「ロックの殿堂」入りを果たしています。繰り返し来日公演を行うなど日本でも人気が高く、「クラブ」ではなく「ディスコ」が全盛だった70年代から80年代のダンスミュージックを象徴するバンドとして日本でも広く知られ、影響を受けたミュージシャンも少なくありません。
    ホワイトさんはパーキンソン病を患っていたということで、3日夜、ロサンゼルスの自宅で74歳で亡くなりました。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160205/k10010398321000.html

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    1. EW&Fリーダー、モーリス・ホワイトさん死去
      2016年2月5日11時23分

       【ニューヨーク=水野哲也】「セプテンバー」などの世界的ヒット曲で知られる米国のバンド「アース・ウインド&ファイアー」のリーダーのモーリス・ホワイトさんが、ロサンゼルスの自宅で死去した。74歳だった。

       AP通信などが4日報じた。

       テネシー州メンフィス生まれ。「アース・ウインド&ファイアー」を結成し、1970年代初めにレコードデビュー。自身のソウルフルな歌声と、後に加わったフィリップ・ベイリーさんの美しいファルセット(裏声)との掛け合い、さらに管楽器を加えた迫力ある演奏で一世を風靡ふうびした。70年代から80年代にかけ、「セプテンバー」や「宇宙のファンタジー」「レッツ・グルーヴ」など多くのヒット曲を発表し、日本でもディスコブームを牽引けんいんした。

       バンドはグラミー賞にも複数回輝き、CDやレコードは全世界で9000万枚のセールスを記録している。近年はパーキンソン病を患い、2012年にバンドが来日した際も、コンサートには参加しなかった。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20160205-118-OYT1T50038

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  45. フルート奏者のオーレル・ニコレ氏が死去
    2016年2月5日11時43分

     オーレル・ニコレ氏 90歳(スイスのフルート奏者)スイス・メディアによると1月29日、死去。

     スイス西部ヌシャテルで生まれ、1948年にジュネーブ国際コンクールで1位。50年名指揮者フルトベングラーの招きでベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席フルート奏者となり、59年まで務めた。20世紀を代表するフルート奏者。武満徹も氏のために曲を書いている。後進指導にも熱心で、日本の西田直孝、藤井香織らも師事した。(ジュネーブ)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20160205-118-OYT1T50051

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  46. 指揮者のアーノンクール氏死去
    病気療養中、86歳
    2016/3/6 23:05 共同通信

     【ウィーン共同】世界的な指揮者として知られ、日本でも人気が高いオーストリアの音楽家のニコラウス・アーノンクールさんが5日、死去した。本人のウェブサイトで6日家族が明らかにした。86歳。

     オーストリアのメディアによると、病気療養中だったという。

     1929年、ドイツ・ベルリンで生まれ、オーストリア南部グラーツで育った。ウィーン交響楽団のチェロ奏者として活躍した。

     53年、バロックや古典派の音楽を作曲家が生きていた時代の楽器や演奏法で奏でる古楽器楽団の「ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス」を妻と共に結成。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団なども指揮した。
    http://this.kiji.is/79201414113052156

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    1. J.S.BACH ミサ曲ロ短調
      https://www.youtube.com/watch?v=K62YfyrUc0A
      https://www.youtube.com/results?search_query=bach+bwv232+harnoncourt

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    2. J.S.Bach G線上のアリア(管弦楽組曲第3番 アリア)
      https://www.youtube.com/watch?v=AGMJq3APDPc&feature=youtu.be&t=1h3m43s

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    3. 世界的指揮者、アーノンクール氏が死去…86歳
      2016年3月6日22時54分

       ウィーンからの報道によると、古楽器演奏の第一人者である世界的指揮者のニコラウス・アーノンクールさんが5日死去した。86歳だった。

       ベルリン生まれのオーストリア国籍。ウィーンでチェロを学び、チェロ奏者として活躍するかたわら、1953年、妻らと古楽器楽団「ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス」を創設した。バッハ、ヘンデルなどのバロック音楽を作曲当時の楽器や奏法で演奏する先駆けとなり、鮮烈な響きを引き出して、楽曲に新たな息吹を吹き込んだ。

       70年代以降は主に指揮者として活躍し、バッハの受難曲やモンテベルディのオペラは、名演として名高い。

       80年代以降は、モーツァルトやベートーベンなど古典派以降の作品にもレパートリーを広げた。斬新な解釈による演奏が話題を呼び、ウィーン・フィル、ベルリン・フィルといった名門オーケストラと共演を重ねた。

       80年に初の日本公演を行って、日本での古楽ブームのきっかけを作った。

       2015年12月、「私の体力が及ばない」として、引退を表明していた。

       今月6日のオーストリア通信は「家族に囲まれて安らかに息を引き取った」との短い記事を配信した。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20160306-118-OYT1T50073

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    4. 古楽演奏に定評、指揮者アーノンクール氏引退へ
      2015年12月7日10時25分

       【パリ=井口馨】古楽演奏に定評があり、世界的な指揮者として知られるニコラウス・アーノンクール氏(86)が5日、引退を表明した。

       AFP通信が6日、伝えた。

       アーノンクール氏は5日、ウィーン楽友協会で開催されたコンサートの聴衆に宛てた自筆の手紙で、「体力の限界を感じ、将来の計画を取りやめなければならない」などとしたためた。

       ベルリン出身。チェロ奏者としてウィーン交響楽団に入団し、同僚らと1953年に古楽器オーケストラを結成。「ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス」として57年からコンサートを始め、バッハやモーツァルトの楽曲で評価を高めた。日本にも多くのファンがおり、2005年、「オリジナリティーに富む演奏家」として京都賞を受賞した。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20151207-118-OYT1T50078

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    5. オーストリア「古楽器」演奏の第一人者が死去
      3月7日 5時33分

      オーストリアの指揮者で、バロック音楽など作曲家が生きていた時代の楽器を再現して奏でる「古楽器」演奏の第一人者として知られる、ニコラウス・アーノンクールさんが、5日、亡くなりました。86歳でした。

      ニコラウス・アーノンクールさんは、1929年、ドイツ・ベルリンで生まれてまもなく両親のふるさとのオーストリアのグラーツに移住し、1952年、ウィーン交響楽団にチェロ奏者として入団しました。
      次の年には、バロック音楽や古典派の音楽を、作曲家が生きていた時代の楽器や奏法で奏でる「古楽器」の楽団を妻らと立ち上げ、バッハやヘンデルなどの数々の楽曲を手がけて「古楽器」の分野の第一人者となりました。
      1970年代以降は指揮者としても活躍し、オペラを指揮したほかウィーンフィルハーモニー管弦楽団やベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とも共演しました。
      2005年には科学や芸術の発展に貢献した人に贈られる「京都賞」を受賞し、授賞式のため来日しました。
      去年12月、体力的な問題を理由に引退を表明し病気の療養に当たっていたということで、アーノンクールさんの妻はホームページ上で「ニコラウス・アーノンクールは、家族に見守られて穏やかに亡くなりました。深い哀悼と感謝でいっぱいです。すばらしい共同作業でした」とコメントしています。
      http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160307/k10010434141000.html

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    6. アーノンクールさんを悼む…鈴木雅明
      2016年3月10日3時0分

      ◇「言葉としての音楽」追求

       オーストリアの指揮者ニコラウス・アーノンクールさんは、クラシック音楽の演奏史において革命的な人だった。作曲家の自筆譜にあたり、作品が生まれた時代の楽器や奏法を探究し、本来の響きをよみがえらせる古楽演奏の開拓者として、世界に衝撃を与え続けた。古楽だけにとどまらず、近現代の曲でも、作曲家が描いた音楽のメッセージを再現することに情熱を傾けた。

       金字塔の一つが、チェンバロ奏者のグスタフ・レオンハルトと共に1970年代から約20年かかって成し遂げたバッハのカンタータの全曲録音だ。53年に創設した「ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス」を率い、復元楽器や少年合唱などを用いて鮮烈だった。私たちの古楽団体「バッハ・コレギウム・ジャパン」の活動の出発点も、まさにこの作品。オランダ留学前の学生だった私は、東京文化会館(上野)の資料室に通い詰め、音源を一枚一枚聴いた。書き留めた資料は今も大切に手元にある。

       お会いした中で印象深いのは、2006年の対談だ。ぎょろっとした目つきで怖そうに見える風貌だが、実は、撮影の際にいすの後ろに隠れたり、おちゃめな面もある。だが、音楽の話になると、ひと言ひと言、じっくり言葉をつむぎだした。

       「オーケストラは成長する生き物。歴史を重ね、一つの存在としてのまとまりが大事だ」と強調する彼に、オケに一番何を求めるのかと尋ねた。答えは「アーティキュレーション」。演奏上の表情や強弱による音の区切り方という意味だ。この言葉に、彼が大切にする考えの根本がある。音楽とは、音楽のメッセージを語ることだという「言葉としての音楽」というものだ。現代は、作曲家より演奏家の方が偉い「ヴィルトゥオーゾ(超絶技巧)主義」とも言える風潮があるが、演奏家は音楽に仕え、伝達役に徹するべきだとの姿勢だ。だから古楽も、博物館に展示されるような代物ではなく、現実に生きる現代人に音楽の意味を問いかけることを目指した。

       それは、バロックの古楽だけではない。モーツァルト、ベートーベンやブラームス、さらにはバルトークなどの近現代の曲の演奏でも、音楽を一語一語連ねていった武骨さは、まさにその顔を彷彿ほうふつとさせるものだ。

       もちろん、時にエキセントリックで、賛否両論もあった。ただ、その頑固な哲学で訴えられ、聴いていると不思議に、それが正しい解釈のように聞こえて説得されてしまう。「一つでも音が死んでいたら、音楽は失敗。一番大事なのは、自分の頭を使って考えることだ」。彼の言葉が今、ひしひしと胸を打つ。(指揮者、談)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20160309-118-OYTPT50387

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  47. 冨田勲さん死去=作曲家、シンセサイザー奏者

     作曲家でシンセサイザー奏者の冨田勲さんが5日午後2時51分、慢性心不全のため東京都内の病院で死去した。84歳だった。 (2016/05/08-13:30)
    http://www.jiji.com/jc/article?k=2016050800077&g=soc

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    1. シンセサイザーの先駆者、作曲家・冨田勲氏死去
      2016年05月08日 13時52分

       作曲家でシンセサイザー奏者の冨田勲(とみた・いさお)さんが5日、慢性心不全のため亡くなった。

       84歳だった。告別式は近親者で済ませた。後日、お別れの会を開く。喪主は長男、勝さん。

       NHK大河ドラマ「花の生涯」やテレビアニメ「ジャングル大帝」など、数多くの番組や映画の音楽を手がけた。1970年代、当時まだ日本では珍しかったシンセサイザーをいち早く導入し、「月の光」「惑星」など数々の作品を発表。米国でのヒットをきっかけに国際的な評価を固めた。また、野外で複数のスピーカーを使って音響を立体化させる「サウンド・クラウド」と呼ばれる大規模パフォーマンスをオーストリアのドナウ川などで繰り広げた。

       5日昼頃、自宅で倒れ、搬送先の都内の病院で亡くなったという。
      http://www.yomiuri.co.jp/culture/20160508-OYT1T50027.html

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    2. 作曲家の冨田勲さん死去
      5月8日 14時53分

      世界的なシンセサイザー奏者で作曲家の冨田勲さんが、今月5日、慢性心不全のため東京都内の病院で亡くなりました。84歳でした。

      冨田さんは東京都出身で、慶応大学在学中に本格的に作曲を始めました。
      NHKの大河ドラマ「花の生涯」「天と地と」や、「新日本紀行」などのテーマ音楽を手がけました。
      昭和40年代からいち早くシンセサイザーを取り入れ、昭和49年にはアルバム「月の光」が世界的なヒットとなり、日本人としては初めてアメリカ・グラミー賞の候補になりました。
      その後も「展覧会の絵」、「火の鳥」、「惑星」などの作品を出して世界的に活躍を続けたほか映画やテレビドラマの音楽も数多く手がけ、山田洋次監督の映画、「学校」や「たそがれ清兵衛」などの音楽を担当しました。
      冨田さんは今月5日打ち合わせを終えたあと東京・品川区の自宅で倒れ、東京都内の病院に搬送されましたが、午後3時前、慢性心不全のため亡くなりました。84歳でした。
      葬儀は7日と8日、親族のみで執り行われ、後日、お別れの会が開かれるということです。
      http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160508/k10010512591000.html

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    3. 作曲家の冨田勲さん死去
      電子音楽の先駆け
      2016/5/8 14:16

       電子音楽作曲家の先駆けとして世界的に活躍したシンセサイザー奏者の冨田勲(とみた・いさお)さんが5日午後2時51分、慢性心不全のため東京都渋谷区の病院で死去した。84歳。東京都出身。

       ドビュッシーの作品をシンセサイザーで編曲、演奏した1974年の「月の光」で世界的に注目され、「展覧会の絵」「火の鳥」「惑星」など多くのヒット作を生んだ。

       NHK大河ドラマ「花の生涯」や「新日本紀行」のテーマ曲、テレビアニメ「ジャングル大帝」、映画「武士の一分」などの音楽も手掛けた。
      http://this.kiji.is/101903739047788545

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    4. 永遠に古びない音楽作品の数々にふれてきたものだから、世界のトミタも永遠の若者みたいに思ってきたが、訃報を知ったとき、そのギャップを感じて少々ショックだった…

      人はやはり老いてこの世から消えてなくなる。

      だが作品は残る。(良いものという限定づきだが)

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    5. 時の風化力は、おもいのほか強い作用…

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    6. シンセサイザー奏者の冨田勲さん死去…84歳、慢性心不全で
      2016年5月8日13時34分

       作曲家でシンセサイザー奏者の冨田勲氏が5日午後2時51分、慢性心不全のため都内の病院で死去した。84歳だった。

       レコード会社によると5日昼ごろ、自宅で倒れ病院に搬送。家族に看取られながら息を引き取ったという。葬儀は親族のみで執り行われ、後日、お別れの会が開かれる。

       冨田氏は1932年、東京都生まれ。慶大在学中からNHKの音楽番組の仕事を始めた。63年には大河ドラマ第1作「花の生涯」の音楽を担当。テレビアニメ「ジャングル大帝」「リボンの騎士」などの音楽では、従来のアニメ音楽を超える優れた音楽性が高い人気を呼んだ。

       70年ごろからシンセサイザーによる作曲・編曲に着手。74年に米でリリースされたアルバム「月の光」は、米ビルボード・クラシカルチャートで1位となり、日本人として初めてグラミー賞4部門にノミネートされた。全米レコード協会の74年度クラシック部門最優秀レコードにも選出され、人気は全世界的なものになった。

       最近では、バーチャル・シンガーの初音ミクをソリストに組み込んだ「イーハトーヴ交響曲」を発表。今年11月に上演予定の新作「ドクター・コッペリアス」の創作活動を、亡くなる直前まで行っていたという。

       冨田氏の長男で慶大教授の勝氏はコメントを発表。「父はドクター・コッペリアスを完成させたいという並々ならぬ強い思いを持っていて、倒れる1時間前までも楽しそうにそのイベントの打ち合わせをしていました。『11月までは死ねなくなっちゃったよ』と笑って言っていました。父はもともと低血圧なので、立ちくらみのように意識が一時的に飛ぶことはよくありました。今回倒れたときも、徐々に意識が薄れていったと思われますので、本人はまた意識が戻るつもりでいたと思います」と亡くなる直前の様子を振り返った。

       そして「私は父にあれしろこれしろと言われたことは一度もありませんでした。既成の常識にとらわれずに、信じた道を突き進む父の背中が、私の人生においていつも背中を押してくれました。父の作品と志は、亡くなることはありません。これからも冨田勲をどうぞよろしくお願い致します」と、父への思いをつづった。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20160508-064-OHT1T50063

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    7. 冨田勲さん死去…慶応高同級生の小林亜星が思い出語る
      2016年5月9日5時0分

       世界的に活躍したシンセサイザー奏者で作曲家の冨田勲(とみた・いさお)さんが5日午後2時51分、慢性心不全のため都内の病院で死去した。84歳。葬儀・告別式は親族のみで執り行われた。74年に「月の光」84歳で日本人として初めて米グラミー賞4部門に候補入り。NHK大河ドラマ「花の生涯」や手塚治虫さんのアニメ「ジャングル大帝」などの音楽で才能を発揮。慶応高校で同じクラスだった作曲家・小林亜星(83)が冨田さんとの思い出を語った。

       冨田さんは、5日の昼頃に突然自宅で倒れ、病院で家族にみとられながら旅立った。長男で慶大教授の勝さんは、関係者を通じて「低血圧で、立ちくらみのように意識が一時的に飛ぶことはよくありました。今回も徐々に意識が薄れていったと思われ、本人はまだ意識が戻るつもりでいると思います」と最期の様子を明かした。

       関係者によると長年、不整脈や心臓の持病を抱えていながら、最近は病気を患うこともなく、元気な様子で創作活動を行っていたという。先月22日には孫4人とひ孫5人に囲まれて84歳の誕生日会を開いたばかり。11月には新作「ドクター・コッペリウス」の上演を予定していた。「倒れる1時間前までも、楽しそうにイベントの打ち合わせをして『11月までは死ねなくなっちゃったよ』と笑って言っていました」と勝さん。最期まで音楽家としての人生を歩んだ。

       慶大在学中から小船幸次郎氏(故人)らに師事し、電子音楽の作曲や演奏をする先駆けとして世界的に名をはせた。小船氏を紹介したのは、慶応高校で同じクラスだった小林亜星だった。冨田さんは2年時に編入。ほかに作曲家・林光さん(12年死去、享年80)もいた。亜星は「年中、3人で音楽談議にうつつをぬかしていた。冨田さんは当時から童謡の作曲をしていて、近所の子供たちを集めて童謡の会を開いたりしていた。ピアノもうまかったし、その頃から、作曲家になるしかないなという人だった」。

       冨田さんは高校時代から下宿生活を送っていた。亜星は度々、下宿先を訪れることもあったという。「彼は鉄道模型が趣味で、部屋中に汽車を走らせていたりして、羨ましかった。オートバイも趣味で、後ろに乗っけてもらったけど、怖くてね。電子音楽をやったのも、多趣味なところがあったからかもしれない」。衰えることがなかった創作意欲の原点を明かした。

       ここ10年以上、会う機会はなかったが「懐かしい思い出がよみがえってくるね」と亜星。8日に都内で葬儀・告別式が親族のみで執り行われた。後日、お別れの会が開かれる予定という。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20160508-064-OHT1T50249

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    8. 追悼 冨田勲さん・・・松武秀樹
      2016年5月10日5時0分

       ◇音の「デッサン」重ねた忍耐力

       1970年代の初めに2年ほど、冨田先生の下で働きました。テレビドラマやCMなどの音楽制作の手伝いで。ちょうど先生が、「Moog 3-P」(大型のシンセサイザー)を購入した頃です。

       先生はユニークな発想で音楽を作っていました。エレキ・シタールなどの珍しい楽器で効果音を作ったり、拡声用のスピーカーを使って高い音を強調したサウンドを作ったり。様々なアイデアを試し、摩訶まか不思議な音を生み出した。音に対する独自の感性を持っていて、普通の人なら「この音は、ひずんでいるから使えない」となるところが、先生は「このままにしておいて、この音は使える」となる。

       だから、シンセサイザーに向かうのは自然な流れだったのかもしれません。先生は「自分の好みの音色を演奏してくれるオーケストラを持ちたい」という発想でシンセサイザーを購入されているんです。クラシックの世界でやってきた人ですが、生の楽器音、電子音という選別をしなかったんだと思います。最近も、ボーカロイド(音声合成ソフト)の仮想アイドル「初音ミク」を使った作品に取り組まれるなど、新しい技術を研究し、積極的に取り入れていました。常にチャレンジャーという思いで音楽に取り組まれていたのです。

       鐘の音や、口笛のような音など、一つのサウンドを作る時でも、先生は時間をかけて丁寧にシンセサイザーの音を重ねていく。ひらめきだけでなく、忍耐力も必要です。そしてもちろん緻密さも。

       自宅のスタジオでは、「音が変わってしまう」と言って、作業中は電源を落とさなかった。それから2か月に1回、すべての楽器を掃除する日があった。接触不良がないように、機材を丁寧に拭いていく。

       先生からは直接、音作りの指導を受けたことはないんです。自分で研究しなさい、というタイプですから。けれど「絵で言えばデッサンが大事。それができていないと、いい音作りはできない」と言われたことはよく覚えています。下絵がきちんと描けていないと、どんなにいい色をつけてもいい絵画にならない。理想の音を考え抜いた上で取り組まないと、途中でブレてしまうということです。僕はその後独立し、YMOのレコーディングやコンサートに参加することになるのですが、そんな姿勢で音楽に取り組んできたつもりです。その教えをこれからも大切にしていきたいですね。(シンセサイザー奏者、談)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20160509-118-OYTPT50323

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    9. 神が降りて、宿るモノ・・・文化部デスク・田中聡
      2016年5月11日3時0分

       5月5日に亡くなったシンセサイザー・アーティストの冨田勲さん。読売新聞に掲載された訃報を読んでいて、生前の興味深い発言を発見した。

       <初音ミクは人形浄瑠璃の電子版。作り物でも魂が乗り移ったような人間以上の演技をする>

       初音ミクは、もうご存知の方も多いだろうが、音声合成技術「ボーカロイド」を使った仮想アイドルである。専門的な音楽知識がない人でも、自由に曲を作ることができ、ミクというキャラクターに歌わせることができる。動画投稿サイトを中心に、数多くのユーザーが様々な楽曲を作って発表、今や「実在の」ミュージシャンを上回るほどの人気を獲得している。あのレディー・ガガの世界ツアーのオープニング・アクトを務めたほどだ。

       もちろん、初音ミクは、コンピューターの世界の中の仮想アイドルなのであるから、各種ライブはCGなどを通じての実体化となる。そもそもは自分の意思を持たないCGなどで“記号としての肉体”を獲得して歌うという表現形式を、冨田さんは人形を通じて物語を表現する人形浄瑠璃になぞらえたわけだ。そして、それは期せずして、日本の芸能全体の特徴をうまく言い表している、と思う。

       日本の芸能の特徴、つまりそれは「肉体の記号化」と「記号の実体化」が西洋文化に比べて比較的簡単に融合し、リアルとバーチャルが共存することだ。「肉体の記号化」とは、歌舞伎の女形芸や、形而上学的な思想を舞の中に込める能楽をイメージしてもらえればいいだろうか。「記号の実体化」は、先ほどまで書いていた「文楽」や「初音ミク」のことである。

       その2つが「融合」し「共存」している状況――。さらに言えば、アニメのコスプレ大会とか、2.5次元ミュージカルとかを念頭に入れてもらえれば分かりやすいだろうか。

       日本人にとって、「歌」や「物語」は、それ自体に魂があるものであり、「舞台」や「漫画」「小説」といったものは、それを表現する「媒体」に過ぎない。「人間の肉体」や「人形」や「初音ミク」は、「芸能の魂」を表現する憑代よりしろであって、そのどれかが他のモノに対する超越的な価値を持っているわけではないのだ。だから、例えば、「義経千本桜」という「物語」を軸にすれば、文楽人形と人間が共演することも、人間とCGが共演することも、アニメと人間の芝居が混淆こんこうすることも、比較的簡単に許される、のである。

       冨田さんのいう「初音ミクは人形浄瑠璃の電子版」とは、深読みしていくとそういうことになる。冨田さん自身がシンセサイザーという、バーチャルな感覚のある楽器の専門家だから、よりそういう部分に敏感だったのかもしれない。文楽が勃興した江戸時代も、初音ミクが闊歩かっぽする平成の今も、日本文化の核は実は同じ――。そう考えると、「世界に何を売り込むか」が見えてくる。


       ◆たなか・さとし 1964年生まれ。高校卒業まで広島で暮らす。1987年、早稲田大学法学部を卒業後、読売新聞社に入社。水戸支局などを経て92年に旧芸能部(現在は文化部)に配属。現在はテレビ担当デスク。演劇・演芸の担当が長かったので、どうしてもそちらに知識は偏っているが、実はプロレスから音楽まで、ライブと名のつくものは何でも好き。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20160510-118-OYTPT50248

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  48. 作曲家 冨田勲さん お別れの会
    6月15日 18時13分

    シンセサイザーを使った電子音楽の第一人者として世界的に活躍し、先月亡くなった作曲家の冨田勲さんのお別れの会が東京で営まれ、参列したおよそ800人が別れを惜しみました。

    冨田さんは、シンセサイザーを使った楽曲制作にいち早く乗り出し、クラシックの名曲を大胆に解釈した曲や宇宙を題材にした壮大な作品などを発表して世界的に活躍したほか、映画やテレビ番組の音楽を数多く手がけてきましたが、先月5日に84歳で亡くなりました。
    15日、東京・港区でお別れの会が開かれ、映画監督の山田洋次さんや歌手の由紀さおりさんなど、親交のあったおよそ800人が参列し、祭壇に向かって全員で黙とうしました。
    このあと、多くの映画作品で冨田さんと仕事をしてきた山田洋次監督が「冨田さんなくして今の僕はなかったのだと、今しみじみと思います。さようなら冨田さん。美しい音楽を作ってくれてありがとう。あなたとあなたの芸術を僕はいつまでも忘れません」と別れのことばを述べました。
    また、冨田さんに影響を受けた世界的ミュージシャンのスティービー・ワンダーさんがビデオメッセージを寄せ、「彼は並外れた発想とほかに出会ったことのない精神を持っていました。今は彼が残してくれたすばらしい作品を祝福しましょう」と功績をたたえました。
    そして、長男の勝さんが「父が今、皆さんにいちばん聞いてほしい曲です」と紹介して、晩年の楽曲「銀河鉄道の夜」が会場に流れると、参列者は静かに聴き入りながら別れを惜しんでいました。

    常に新しい音楽の世界を担っていた

    歌手の由紀さおりさんは姉の安田祥子さんと共に参列し、「姉と私が幼いころ、合唱団の稽古場に冨田さんがハーレーに乗ってやって来て、ピアノの伴奏を付けてくれたことを思い出します。シンセサイザーという楽器に命を吹き込み、常に新しい音楽の世界を担っている方でした」と話していました。
    また、冨田さんの30年来のファンだという、バンド「LUNA SEA」のSUGIZOさんは「晩年にお会いしたとき、『いつか一緒に音楽やろうよ』と言ってくださり、ただただ恐縮していました。たとえ肉体はなくなっても、冨田さんの精神と音楽は100年後も新しいままだと確信しています。常に誰も聞いたことのない音楽を作り、音楽で世界を一つにしたいという、とても大切な意志を受け継いでいきたいと思います」と話していました。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160615/k10010557471000.html

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    1. 冨田勲さん、お別れの会…山田洋次監督ら追悼
      2016年06月15日 20時40分

       5月5日に84歳で亡くなったシンセサイザー奏者で作曲家の冨田勲さんのお別れの会が15日、東京都港区の青山葬儀所で開かれた。

       冨田さんが音楽を担当した映画「学校」「たそがれ清兵衛」などを手がけた映画監督の山田洋次さんがお別れの言葉を述べ、「硬質な雰囲気を持っていた」と人柄に触れ、「『学校』の音楽の鮮やかさ、美しさ、優しさに、涙が出そうになった。僕が挑戦をしようとした仕事のすべてを音楽で援護してくれた」と悼んだ。

       米国の歌手、スティービー・ワンダーさんも映像でメッセージを寄せ、「発想は並外れていて、その精神は他に出会ったことがなかった」とたたえた。

       会では、遺作の交響曲「ドクター・コッペリウス」が今年11月に追悼上演されることも報告された。
      http://www.yomiuri.co.jp/culture/20160615-OYT1T50165.html

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  49. 「ディア・ハンター」マイケル・チミノ監督死去
    2016年7月3日18時16分

     マイケル・チミノ氏 77歳(米映画監督)米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)によると、2日、カリフォルニア州ロサンゼルスで死去。

     ニューヨーク生まれ。1974年にクリント・イーストウッド主演のアクション映画「サンダーボルト」で監督デビュー。ベトナム戦争で心身に傷を負った帰還兵を描いたロバート・デ・ニーロ主演の「ディア・ハンター」が、78年度のアカデミー賞で作品賞や監督賞など5冠に輝いた。続く大作「天国の門」は興行的に失敗したが、近年、デジタル修復完全版が製作され、再評価されていた。(ロサンゼルス 田原徳容)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20160703-118-OYT1T50115

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    1. The Deer Hunter Soundtrack
      https://www.youtube.com/watch?v=c6gpa8nUa70

      the deer hunter cavatina
      https://www.youtube.com/results?search_query=the+deer+hunter+cavatina

      「カヴァティーナ ディア・ハンター」
      https://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%AB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%8A+%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC

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    2. カヴァティーナ - Wikipedia
      https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%8A

      ディア・ハンター - Wikipedia
      https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC

      >テーマ音楽はスタンリー・マイヤーズ作曲の「カヴァティーナ」。ギターはジョン・ウィリアムズによるもの。

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    3. 映画「ディア・ハンター」監督 マイケル・チミノさん死去
      7月3日 20時16分

      ベトナム戦争で心に傷を負った若者たちの姿を描いて、1970年代にアカデミー賞に輝いたアメリカの映画「ディア・ハンター」の監督を務めたマイケル・チミノさんが死去しました。77歳でした。

      アメリカのメディアによりますとチミノさんは、1939年、ニューヨークで生まれ、ミシガン州立大学やイェール大学で学んだあと、ニューヨークでテレビコマーシャルの監督を務めました。
      その後、西部カリフォルニア州のロサンゼルスに拠点を移し、アメリカの俳優で映画監督のクリント・イーストウッドさんが主演した「ダーティーハリー2」などで脚本を担当したあと、監督デビューしました。
      そして、監督を務めたロバート・デ・ニーロさん主演の「ディア・ハンター」は、ベトナム戦争で心に傷を負った若者たちの姿を描いて、作品賞や監督賞など5部門でアカデミー賞を受賞し、一躍、アメリカを代表する映画監督として知られるようになりました。
      AP通信によりますと、知人らが数日前からチミノさんと連絡がつかなくなったため警察に通報し、2日、警察がロサンゼルスにある自宅でチミノさんが死亡しているのを発見したということです。
      知人によりますと病気などの兆候はなかったということで、警察で死因を調べています。
      http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160703/k10010582071000.html

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  50. ピアニストの中村紘子さん死去
    7月29日 0時39分

    日本を代表するピアニストで、世界的に活躍した中村紘子さんが、今月26日、大腸がんのため、東京都内の自宅で亡くなりました。72歳でした。

    昭和19年に山梨県で生まれた中村紘子さんは、3歳でピアノを習い始め、中学3年のとき、今の日本音楽コンクールで史上最年少で1位になりました。
    昭和40年には世界の一流ピアニストへの登竜門として知られる「ショパン国際ピアノコンクール」で、日本人で初めて4位に入る快挙を成し遂げ、その後も繊細さと躍動感を兼ね備えた演奏で多くのファンを魅了し、日本を代表するピアニストとして世界的に活躍しました。
    これまでに国内外で3800回を超える演奏会を行い、平成20年に紫綬褒章を受章したほか、翌年には日本芸術院賞・恩賜賞に選ばれています。
    所属事務所によりますと、中村さんは、おととし大腸がんが見つかり、その後、演奏活動の休止と復帰を繰り返していましたが、およそ2年半の闘病の末、今月26日、東京都内の自宅で亡くなったということです。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160729/k10010612791000.html

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    1. 人気ピアニスト、中村紘子さん死去…文筆活動も
      2016年7月29日0時14分

       国民的な人気のピアニストとして活躍し、機知に富んだ文筆活動でも知られた中村紘子(なかむら・ひろこ、本名・福田紘子=ふくだ・ひろこ)さんが26日午後10時25分、大腸がんのため死去した。

       72歳だった。告別式は近親者で済ませた。喪主は、夫で芥川賞作家の庄司薫氏。

       山梨県生まれ。3歳で斎藤秀雄らが主宰した「子供のための音楽教室」に入り、後にチェロ奏者となった堤剛さんらと学んだ。天才少女と評判になり、1959年、「音楽コンクール」(現・日本音楽コンクール)で史上最年少で第1位特賞となり、楽壇デビュー。60年には、NHK交響楽団が初めて行った世界一周演奏旅行のソリストに抜てきされた。米国留学の後、65年にショパン国際ピアノコンクールで日本人初の第4位に入賞し、名声を確立した。

       柔らかで繊細な音色が特徴で、ショパンやラフマニノフなどを得意とした。公式ホームページによると、国内外で3800回以上の演奏会を開いた。チャイコフスキー国際音楽コンクールなど世界的コンクールの審査員も歴任し、その経験を元に書いた「チャイコフスキー・コンクール」で89年、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。ハウス食品のカレーのCMにも出演するなど、お茶の間でも親しまれた。

       浜松国際ピアノコンクールなどで後進育成にも尽力。2009年、日本芸術院賞・恩賜賞を受賞。同年から、デビュー50周年を記念して80回を超す演奏会を開いた。14年2月に大腸がんが見つかり、治療を受けながら演奏活動を続けていた。今年5月8日の兵庫県洲本市での公演が最後の演奏になった。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20160728-118-OYT1T50148

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    2. [中村紘子さんを悼む・堤剛]頭脳明晰、特別なショパン
      2016年7月30日5時0分

      ◇様々な分野の人と交流も

       ずっと一緒に歩んできた音楽家人生だった。中村紘子さんの突然の訃報に、ショックで心が沈んでいる。

       桐朋学園音楽部門の前身「子供のための音楽教室」で一緒に学んだのは、私が小学4年の頃から。3歳から通っていた2歳下の中村さんは、すでに腕前がずぬけていた。ふっくらした小柄な少女が、メンデルスゾーン「無言歌」を見事に演奏するのに驚いたものだ。

       土曜の午後、東京・市ヶ谷にあった東京家政学院の教室を借りたレッスン。「戦後の文化再興は教育から」と、評論家の吉田秀和、チェロ奏者・指揮者の斎藤秀雄、ピアノの井口愛子ら超一流の教師から指導を受けた。校舎が戦災の焼け跡のままの時代。一人っ子で活発な中村さんとは、この絶好の遊び場でかくれんぼやチャンバラをして遊んだ。

       1960年、NHK交響楽団が行った初の世界一周演奏旅行に、私たちは独奏者として抜てきされた。16歳と18歳。イタリアで一緒になり、着物姿でショパン「ピアノ協奏曲第1番」を演奏した中村さんを思い出す。今では考えられない大役だったが、2人は喜びに感じ、重圧はなかった。だって、イタリアでの中村さんの食欲はすごかったもの。

       中村さんとの共演は数え切れない。特に、バイオリンの海野うんの義雄さんと共に74年に結成したピアノ・トリオは「三千両トリオ」と名付けられて有名になり、全国津々浦々を回った。山口県・岩国に演奏旅行に出掛けた際、あるバーで女性オーナーの失恋にいたく同情し、「大丈夫、道が開けるわよ」と、長時間、温かく励ましていた姿が忘れられない。中村さんは演奏を離れれば、普通の人にすっと戻るのも魅力だった。その温かいまなざしは、若い音楽家の育成に注がれたものと同じ。浜松国際ピアノアカデミーなどで世界に羽ばたいた音楽家は枚挙にいとまがない。

       中村さんの演奏は、技術が抜群な上に、音色がいつも新鮮でみずみずしい。頭脳明晰めいせきで音楽の構築性に優れている。彼女の弾くショパンは特別。民族的なリズム感など、日本人でここまでショパン作品の全体像を理解した人はいない。体格は大きくなかったが、強音から弱音まで表現の幅が広く、音の色彩変化が巧みだった。トリオでも、ズバッとした助言が、我々の描く「音楽の絵」をガラリと変えた。

       「音楽家は演奏だけしていればいいのではなく、社会的に認知されなければいけない」が口癖だった。クラシック音楽を仲間内だけでなく外に知らしめ、社交的に活動した。東京都内の自宅に外交官や政治家、海外の演奏家など幅広い人を集めてサロンを開いた。国の文化施策にも厳しく注文を付け、その発言には説得力があった。

       中村さんとの共演は、昨年5月、千葉市でのデュオリサイタルが最後。ショパン「チェロ・ソナタ」の余韻が、まだ心に残る。(チェロ奏者・サントリーホール館長、談)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20160729-118-OYTPT50483

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    3. [中村紘子さんを悼む・評伝]小さな手から多彩な才能
      2016年7月30日5時0分

       たった一度の人生の大部分をピアノと過ごすピアニストのことを常人ではない「蛮族」と称していた。その手は、世界で競う男の蛮族に比べて明らかに小さかったが、しなやかに躍動し、多くの聴衆を魅了した。

       その一人が生涯の伴侶となる7歳年上の作家、庄司薫さんで、芥川賞作品『赤頭巾ちゃん気をつけて』で〈中村紘子さんみたいな若くて素敵な女の先生について(中略)優雅にショパンなど弾きながら暮そうかなんて思ったりもする〉と記した。この文章を読み、黒いタートルネックを着た著者の写真を見た中村さんは「結婚するわ」と直感、2人は1974年に結婚した。

       庄司さんの誕生日4月19日の前後に、グランドピアノと庄司さん筆の書「夢」が飾られた東京都内の自宅で、知人を集めてお祝い会をするのが恒例だった。記者は誕生日が同じという縁でこの20年ほどご一緒した。ピアニストは手が命だが、みんなをもてなしたのは、紘子さんの心配りも量もいっぱいの手料理だった。

       手は文章も刻んだ。装丁を庄司さんが手がけた単行本『ピアニストという蛮族がいる』など著作も多い才人は、歴史や文学にも好奇心が強く、「持っているものを全部出すのは、書くことも演奏も同じです」と語った。座談も楽しかった。私語する学生を前に演奏を突然やめ、聴く作法を伝えた話、車の運転の失敗談、庄司さんからの紹介で交流した政治学者、丸山真男さんや作家、安部公房さんらのエピソード……。ウィットに富んだ語り口で、いたずらっ子のように目を丸くして笑う。夫婦の会話も極上のごちそうだった。

       今年の誕生会では、少しだけやせていたが自らカメラマン役を買って出るなど座を楽しませ、復帰への意欲を語っていた。

       緩急のメロディーが心に刺さる最後の演奏会で弾いた幻想ポロネーズは、ショパンが病魔にむしばまれ、身体の衰えにさいなまれながら作った曲。演奏に込めた真の思いは、密葬に参列した際、最後の別れをしたときの美しい顔と手とともに、はなやかに封印された。

       「聴衆の反応が弾く心に反映するのが生演奏の面白さです」。コンサートでの優しく、強くはずむような手が目に焼きついている。(編集委員 鵜飼哲夫)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20160729-118-OYTPT50488

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    4. 7月29日 よみうり寸評
      2016年7月29日15時0分

       中村紘子さんのコンサートに足を運んだことのある方なら、ご存じだろう◆優雅なピアノに酔いしれるのは当然として、演奏の合間の気さくで機知に富んだおしゃべりが楽しい。夫の庄司薫さんとの結婚エピソードも、そのひとつ◆庄司さんは芥川賞受賞作に<中村紘子さんみたいな若くて素敵な女の先生>との一文を入れた。それを縁に知り合うが、後にこんな会話をしたという。「女優の名を色々書いたけど引っかかったのはお前だけ」「悪うございましたわね」◆快活な人である。一昨年にがんが見つかった後も、ひと月ほど休んだだけで演奏を再開した。昨夏の復活公演が大評判だと聞いて安心したのだが、26日に亡くなっていたことがわかった◆72歳だった。日本のクラシック界を牽引けんいんし、ショパンの名手として世界に名をはせたピアニストは、苦しい抗がん剤治療をしながら、腕がはれるほど毎日の練習を欠かさなかったという◆どれほどのファンがCDに耳を傾けるだろう。中村紘子演奏、ショパン『別れの曲』。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20160729-118-OYTPT50380

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  51. 指揮者の佐渡裕さん オーストリアの管弦楽団と契約延長
    8月13日 10時45分

    世界的に活躍する指揮者の佐渡裕さんが音楽監督を務めているオーストリアの管弦楽団は、佐渡さんが指揮をとるようになってから楽団の評価が高まっているとして、佐渡さんとの契約を2022年まで延長すると発表しました。

    指揮者の佐渡裕さんは、去年からオーストリアの管弦楽団「ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団」で音楽監督を務め、指揮者としての活動だけでなく、いつどこでどの曲を演奏するのかなど、楽団の活動全般のプロデュースも行っています。
    佐渡さんと楽団は2018年まで契約を結んでいましたが、楽団は12日、この契約を2022年まで延長すると発表しました。
    延長の理由について楽団の関係者は、佐渡さんが指揮をとるようになってから表現がより多彩になるなど、楽団の評価が高まっていることなどを挙げています。
    「ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団」は100年以上の伝統がある楽団で、延長について佐渡さんは「アマチュアのコーラスとの共演や日本での公演など、独自の取り組みが評価されたのだと思う。ベートーベンなど伝統の音楽とともに、斬新な新曲にも挑戦して、長期的な視点で楽団を育てていきたい」と話しています。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160813/k10010634011000.html

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  52. シールマンス氏死去、ジャズ・ハーモニカ奏者
    2016年8月22日21時4分

     トゥーツ・シールマンス氏 94歳(本名・ジャン・シールマンス=ベルギーのハーモニカ奏者)マネジャーなどによると、22日、ブリュッセルの病院で死去。

     老衰とみられる。「ジャズ・ハーモニカ」の第一人者で、ビル・エバンスやビリー・ジョエルら世界的なミュージシャンと共演。米国の人気子供番組「セサミストリート」のテーマ曲でもハーモニカを演奏した。(ブリュッセル)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20160822-118-OYT1T50140

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    1. BILLY JOEL AND TOOTS THIELEMANS -LEAVE A TENDER MOMENT ALONE
      https://www.youtube.com/watch?v=6Te0DB86-wY
      https://www.youtube.com/results?search_query=billy+joel+leave+a+tender+moment+alone

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    2. Jaco Pastorius & Toots Thielemans - Sophisticated Lady
      https://www.youtube.com/watch?v=__WTZNkU06A
      https://www.youtube.com/results?search_query=toots+thielemans+jaco+pastorius

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    3. Pat Metheny and Toots Thielemans - Always And Forever
      https://www.youtube.com/watch?v=wcAkEl6AV5Y
      https://www.youtube.com/results?search_query=toots+thielemans+pat+metheny

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    4. 世界的ハーモニカ奏者 シールマンスさん死去
      8月23日 15時57分

      マイルス・デイビスさんをはじめ世界の名だたるミュージシャンと共演したことで知られる世界的なハーモニカ奏者、トゥーツ・シールマンスさんが22日、ベルギーの病院で亡くなりました。94歳でした。

      トゥーツ・シールマンスさんは、1922年にベルギーのブリュッセルで生まれ、第二次大戦後にギタリストとして活動を始め、やがてハーモニカの演奏も手がけるようになりました。
      卓越した技術に支えられた美しくメロディアスな演奏で一躍注目を集め、超大物のクラリネット奏者として知られたベニー・グッドマンさんのヨーロッパツアーに参加したあと活動の拠点をアメリカに移しました。ここで、チャーリー・パーカーさんやマイルス・デイビスさんといった大物ジャズ奏者と共演を重ね、ハーモニカの巨匠としての地位を確立したほか、アメリカの子ども向け番組「セサミ・ストリート」のテーマ曲も演奏しました。
      その後も、ビリー・ジョエルさんやスティービー・ワンダーさんなどジャンルを超えたミュージシャンと共演し、その甘い音色は国内外を問わず大人から子どもまで幅広い人たちに愛されました。
      公式サイトなどによりますと、シールマンスさんは、骨折の治療のためブリュッセルの病院に入院していましたが、現地時間の22日午前、亡くなったということです。
      http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160823/k10010651011000.html

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    5. 慇懃無礼で奇妙な「さん」づけの記事に違和感…

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    6. Quincy Jones & Toots Thielemans - "Velas"
      https://www.youtube.com/watch?v=Qvc077Z4YyU
      https://www.youtube.com/results?search_query=toots+thielemans+velas

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    7. Sting & Toots Thielemans - Shape Of My Heart (1993)
      https://www.youtube.com/watch?v=5-ofMfDkY6g

      Bill Evans & Toots Thielemans - Affinity (1979 Album)
      https://www.youtube.com/watch?v=I4f2c4O8I1Y

      https://www.youtube.com/results?search_query=toots+thielemans

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  53. 「ワム!」のジョージ・マイケルさん死去
    12月26日 8時51分

    1980年代にポップデュオ「ワム!」として活躍し「ラスト・クリスマス」などの世界的ヒット曲で知られるイギリスの人気歌手ジョージ・マイケルさんが亡くなりました。53歳でした。

    これはジョージ・マイケルさんの広報担当者が25日、明らかにしました。
    マイケルさんは1963年、イギリスのロンドン郊外で生まれました。1980年代にポップデュオ「ワム!」として活躍し、「ラスト・クリスマス」や「ケアレス・ウィスパー」それに「ウェイク・ミー・アップ・ビフォア・ユー・ゴー・ゴー」などの世界的ヒット曲を次々と世に送り出しました。

    1986年の「ワム!」の解散後はソロ歌手として活動し、1987年に発表したアルバム「フェイス」は、世界で1500万枚を売り上げる大ヒットとなり、アメリカ音楽界最高の栄誉とされるグラミー賞の「最優秀アルバム賞」を受賞しました。

    最近ではおととしソロアルバムを発表したほか、ことしに入ってからも新しいアルバムの制作に向けて準備を進めていたということです。

    一方、マイケルさんは私生活でもたびたび注目を集め、1998年にわいせつな行為をしたとしてアメリカで罰金刑を受けたほか、2006年以降、大麻や違法薬物を所持していたとしてイギリスで繰り返し逮捕、起訴されていました。

    現地の警察によりますと、マイケルさんはクリスマスの25日の午後、イギリス南部オックスフォードシャーの自宅で、通報を受けて自宅に駆けつけた救急隊によって死亡が確認されたということです。

    一部のメディアは、関係者の話として死因は心不全だと伝えています。マイケルさんの広報担当者は「皆に愛されたジョージが、クリスマスの時期に自宅で穏やかに亡くなったことは、とてつもなく大きな悲しみだ」というコメントを発表しました。

    友人らが追悼のコメント

    ジョージ・マイケルさんが亡くなったことについて、マイケルさんとともに「ワム!」で活躍したアンドリュー・リッジリーさんはツイッターに「最愛の友の死に、私や彼の家族、友人、音楽界、そして世界全体は悲しみにうちひしがれている」とコメントしました。

    またイギリスの人気歌手エルトン・ジョンさんはSNSに「深い衝撃を受けている。とても優しくて心が広く、才能あるアーティストでもある最愛の友を亡くした」とコメントしています。

    一方、アメリカの歌手マドンナさんはツイッターにマイケルさんと抱き合う様子を映した映像とともに「友達とのお別れ。また偉大なアーティストが私たちの元を去った」というメッセージを掲載しました。

    このほか歌手のブライアン・アダムスさんは、ツイッターに「信じられない。とてつもなくすばらしい歌手で愛すべき人だった。私たちの元を去るには若すぎる」とつづり、マイケルさんの死を悼んでいました。

    CDショップに追悼コーナー

    イギリスの人気歌手ジョージ・マイケルさんが亡くなったことを受けて、東京・渋谷のCDショップには急きょ、追悼コーナーが設けられました。追悼コーナーでは、ジョージ・マイケルさんが1980年代に結成した「ワム!」の時代のものや、解散後にソロ歌手として発表した数々のアルバムが紹介されています。

    店を訪れた30代の男性は「クイーンのフレディ・マーキュリーさんの追悼コンサートでジョージ・マイケルさんが、深く悲しんだ様子で歌っていた姿が印象に残っています。『ラストクリスマス』はこの時期によく流れる曲なので、来年また曲を聴いて亡くなったことを思い出すと思います」と話していました。

    また、中学3年生の女子生徒は「このクリスマスの時期に『ラストクリスマス』を聴いていましたし、来年もまた次の年も聴く曲だと思うので、訃報を聞いて驚きました。もともとは父や母が聴いていて知った曲ですが、歌詞はわからなくてもクリスマスならではの曲だと感じていました」と話していました。

    追悼コーナーを作ったタワーレコード渋谷店によりますと、「ラストクリスマス」が収録されたアルバムは、楽曲の発表から30年以上がたった今も売れ続けているということですが、突然の訃報を受けて多くの人が過去の作品を買い求め一部の作品は売り切れたため、レコード会社に発注して対応しているということです。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161226/k10010819811000.html

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    1. Wham! - Last Christmas
      https://www.youtube.com/watch?v=E8gmARGvPlI
      https://www.youtube.com/results?search_query=last+christmas

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  54. 『ジャズメン死亡診断書』小川隆夫著
    2017年02月14日 16時40分

     交通事故死(クリフォード・ブラウン、享年25歳)、射殺(リー・モーガン、同33歳)、溺死(アルバート・アイラ―、同34歳)、転落死(チェット・ベイカー、同58歳)…。偉大なジャズメンの死因は、まるでその演奏のように多彩で非凡だ。

     自らも52歳の時に心筋梗塞で死線をさまよった経験を持つ医師・ジャズライターの著者が作成した23人の「死亡診断書」。浮かび上がるのはジャズメンたちの濃密でドラマチックな人生だ。

    (シンコーミュージック、2000円+税)
    http://www.yomiuri.co.jp/life/book/review/briefcomment/20170214-OYT8T50082.html

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  55. 米ジャズギタリスト、ラリー・コリエル氏が死去
    2017年2月21日20時48分

     ラリー・コリエル氏 73歳(米ジャズギタリスト)AP通信によると19日、ニューヨーク市内で死去。

     ジャズ・フュージョン界の第一人者。ジャズとロック、クラシックなどを融合し、1970年代の「クロスオーバー」の流行をリードした。日本のアーティストとも縁が深く、日野皓正さん、井上陽水さんらとも共演した。

    (ニューヨーク)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170221-118-OYT1T50100

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  56. ジャズピアニスト、辛島文雄さん死去…68歳
    2017年2月25日0時51分

     日本を代表するジャズピアニストの一人、辛島文雄(からしま・ふみお)さんが24日、膵臓すいぞうがんで死去した。

     68歳だった。所属事務所が発表した。

     大分県出身。力強く表情豊かな演奏で知られた。1980年代に米国の大物ドラマー、エルビン・ジョーンズのバンドに参加し、国際的に活躍。自身のグループでも精力的に音楽活動を続けた。闘病中だったが、今月14日にもステージで演奏していた。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170225-118-OYT1T50000

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    1. 上手に休んで養生できるともう少し長生きできたのかもしれないが、動く回る性分の人はどうしてもえてして短く生きるほうを選んでしまう…

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  57. [ジャズ鑑賞の流儀]<1>ライブきっかけに…児山紀芳
    2017年2月28日15時0分

     今年は米国で史上最初のジャズ・レコードが誕生してちょうど100年という節目にあたる。私に本コラムの依頼があったのもそれと無縁ではないだろう。

     ジャズというと、ややもすれば「難しい」というイメージで受け止められがちだが、近年は、様変わりの様相を呈している。

     上原ひろみ(ピアノ)の人気の高さがそれを端的に物語っている。昨年11月から12月にかけての国内ツアーでは、5000人収容の東京国際フォーラムの大ホールが3日間にわたって満員になった。海外の人気ミュージシャンが主に出演する東京都内の有名ジャズクラブに先般、チャールス・ロイド(サックス)が出演した時も、私が訪れた日は、客席が若い世代で埋め尽くされていた。いまやジャズは決して一部のマニアだけの音楽ではない。

     じつは、かくいう私もジャズを聴き始めたきっかけはライブからだった。昭和20年代後半、ジョージ川口とビッグ・フォアを筆頭に人気グループが相次いで登場、空前のジャズ・ブームが巻き起こった。阪急西宮スタジアムでビッグ・フォアの野外公演に出向いたり、大阪・ミナミのジャズ喫茶、銀馬車で米留学が決まった秋吉敏子の渡米記念公演を聴いた記憶もある。(ジャズ評論家)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170228-118-OYTPT50210

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  58. [日本ジャズの巨人たち]<1>秋吉敏子(ピアニスト)…米国で自分の世界確立
    2017年11月6日5時0分

    あきよし・としこ 1929年、満州(現中国東北部)生まれ=細野登撮影

     歴史上初めてジャズと銘打ったレコード「馬車屋のブルース」が米国で録音されて、今年で100年の節目となる。その間、日本でも進駐軍ジャズが隆盛を誇ったり、国際的に活躍する才能を生み出したりと、独自の発展を見せた。日本のジャズを、巨匠6人の足跡を通して振り返ってみた。(編集委員 西田浩)

     1950年代に単身米国に渡り、ジャズの本場で地歩を固めていた。でも音楽から足を洗おうと決意したことがあった。70年代前半、夫でサックス奏者のルー・タバキンの仕事の関係で、ニューヨークからロサンゼルスに移り住んだ時だ。

     「例えば同じピアニストのバド・パウエルには、聴けばすぐわかる確固たる演奏スタイルがある。でも、私は誇れるものを何一つ残していない。これ以上、続ける意味があるのかと悩んでいた。だから、これを機にジャズを捨て、家事に専念しようと思ったんです」

            ◎

     満州(現中国東北部)生まれ。7歳でピアノを習い始めた。終戦で外地の日本人約630万人の帰国が始まるが、秋吉一家も46年に大分・別府に引き揚げた。そこでダンスホールのピアニスト募集に応じたのは、「当時、家にピアノがなく、純粋にピアノを弾きたかったから」だ。

     演奏活動を始め、そこで巡り合ったジャズにのめり込み、17歳で親元を離れて福岡に移り、18歳で上京した。思い立ったら臆せず行動に移す。こんな逸話がある。進駐軍慰問で来日したピアニストのジェフ・クラークソンの楽屋に押しかけ、何と自宅に来てピアノを教えてほしいと頼み込み、承諾させてしまった。

     「本場のジャズを学べるまたとない機会。こっちも必死でしたよ」

     大きなチャンスが訪れた。公演で来日中の大物ピアニスト、オスカー・ピーターソンが、銀座のライブハウスで彼女の演奏を聴いた。感銘を受けたピーターソンの橋渡しで、アルバムを制作し、米国発売が実現したのだ。さらに56年、特待生として米国・バークリー音楽院へ留学することになった。64年の海外旅行自由化の前で、厳しい外貨持ち出し制限もあった時代だ。

     「すでに米国でレコードの出ている日本人の女性奏者は、学校にとって広告塔でもありました。すぐにジャズクラブの出演やレコード吹き込みの仕事が段取りされました」

     留学と同時に本場でプロとしての活動を始めた。サックス奏者、チャーリー・マリアーノと結婚し、彼とのグループで活躍。その後、離婚、幼い娘を抱え公演ツアーができないという苦境を乗り越え、米国ジャズ界に根をおろしていた。

            ◎

     ロサンゼルスに移り、引退を決めていた秋吉に手をさしのべたのは、タバキンだった。「君の曲を演奏するビッグバンドを作らないか。奏者は僕が集める」と提案された。その作編曲の過程で、「自分の曲を生かすのは、楽器の種類が多く様々な音色を駆使できるビッグバンド」と気づいた。

     「もし私がジャズ界に革命を起こせるとしたら、ピアノではなく作曲。尊敬するデューク・エリントンは黒人という自分のルーツがにじむ名曲を生んだ。同じように私も日本の文化的背景を昇華したジャズを世に出したいと思いました」

     74年、秋吉敏子=ルー・タバキン・ビッグバンドは和楽器を大胆に導入したアルバム「孤軍」を出し、高い評価を得た。以後、ビッグバンドを母体に、数多くの自作曲を発表。70年代後半から米国のジャズ専門誌の人気投票で、作曲、編曲、ビッグバンド部門1位の常連に。90年代以降、米国ジャズ界が古典回帰的な傾向を強める中、99年には日本人初の国際ジャズ名誉の殿堂入りを果たすなど、米国で数々の賞にも輝いた。

     「ジャズ史に秋吉流を残したことを認めてもらえたのかな。光栄なことです」

            ◎

     60年に作った「ロング・イエロー・ロード」という曲がある。故郷・満州の土ぼこりの道の記憶と、黄色人種の自分がこれから長く険しいジャズの道を歩むことの覚悟を重ねた作品だ。

     「本当にずいぶん長く歩いた。でも歩き切っていない。まだ先は長いですね」


    作品ガイド

     1974年の「孤軍」=写真=は、和旋律を導入するなどジャズと日本文化の融合を打ち出した。公害問題を告発する「ミナマタ」を収めた76年の「インサイツ」も甲乙つけがたい。99年の「トリビュート・トゥ・デューク・エリントン」は、尊敬する音楽家にささげた約30分の組曲が秀逸。また来月には2枚組みの新作「マイ・ロング・イエロー・ロード」が出る。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20171105-118-OYTPT50169

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    1. [日本ジャズの巨人たち]<2>原信夫 90 (サックス)
      2017年11月7日5時0分

      ◇溶け込ませた日本的要素

       「ジャズなんて知らないのに演奏している。それが僕のジャズ人生のスタートでした」

       終戦後の1946年、仕事を求め、帝国劇場専属オーケストラの入団試験を受けた。試験を終え、劇場を出たところで、戦時中に所属した海軍軍楽隊時代の友人とばったり会った。「これからはジャズだ。進駐軍の仕事はもうかるぞ」。そのまま友人の楽団に合流し、横須賀や横浜の進駐軍クラブで演奏活動を始めた。

       「最初はクラシックとは違うリズムについていけなかった。米兵から楽譜をもらったりして、手探りでジャズを学びました」

           ◎

       小学校5年生でブラスバンド部に入った。工業専門学校に入学した41年に日米開戦。軍国主義的な世相の中、町で見た軍楽隊にあこがれ43年に入隊。「実技に座学と音楽漬けで、頻繁に試験があり、成績が悪いと殴られる。とにかくスパルタ。おかげで上達しました」。その下地があったので、ジャズの世界でもすぐに頭角を現す。51年に自らのビッグバンド、シャープス&フラッツを結成した。

       「進駐軍クラブでカウント・ベイシーやデューク・エリントン、さらに最先端のビバップにも触れ、感化された。僕らも単なるダンスバンドではなく、鑑賞に値するバンドを目指した」

       独自の新編曲を用いるなど意欲的な試みで評価を上げ、58年には念願の初リサイタルを開いた。またナット・キング・コール、トニー・ベネットら、来日する大御所の伴奏を務めた。

       67年に米ニューポート・ジャズ・フェスティバルに出演。「本場の物まねではなく、日本人ならではのジャズを聴かせたかった」と、日本情緒にじむ自作の「古都」や民謡「ソーラン節」などを披露した。

           ◎

       歌謡界への貢献度も高い。昭和歌謡界の女王として君臨する全盛期の美空ひばりの専属バンドや、NHK紅白歌合戦の伴奏も務めた。ひばりの代表曲「真赤な太陽」は、原が作曲した。

       「最初は演歌風の曲を作ろうとしたが、ありきたりになってしまう。開き直って、ジャズの手法で完成させた。彼女は『これ、私の曲じゃないわね』と笑っていたので、『お嬢ならジャズのリズムも得意でしょう』と応えた。実際、見事に歌いこなしてくれました」

           ◎

       2010年、シャープス&フラッツは59年の歴史に幕を閉じた。

       「ウディ・ハーマンのブルース感覚、スタン・ケントンの重厚なハーモニー、エリントンの芸術性、ベイシーの豪快さ。米国の四つの名門ビッグバンドの持ち味を備えることが目標でした。少しは近づけたかな」

       さらに日本的な要素をも溶け込ませ、類いまれな個性を築いたと言えよう。

      ◇作品ガイド

       真価を発揮しているのが1967年の「ニューポートのシャープス・アンド・フラッツ」=写真=。雅楽、民謡、自作曲とも日本ならではのビッグバンド・サウンドを繰り広げる。ダウンロードで入手できる。ネットなどで発売中の60年代の作品群はラテン、イージーリスニング、ロック調など多彩だ。その中で「グレン・ミラー物語」が正統的なスイングを聴かせる。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20171106-118-OYTPT50304

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    2. [日本ジャズの巨人たち]<3>北村英治 88(クラリネット奏者)
      2017年11月8日5時0分

       ◇古き良きスイング一筋

       グレン・ミラー、ベニー・グッドマンらの活躍により1930~40年代にかけて全盛を極めたスイング。その古き良きスタイルをかたくななまでに守っている。

       「スイングは編曲を重視し、軽快な明るさが特徴。そのスタイルが僕にとって最も心地いい。もっとも迷いの時期はありましたが」

       1960年代は当時主流だったモダンジャズを取り入れていた。68年、尊敬するクラリネット奏者バディ・デフランコが来日した時のことだ。楽屋を訪れると、「何か吹いてごらん」とうながされ、デフランコの演奏を完全にコピーして吹いてみせた。すると「プロなら、自分の言葉で音楽を語るべきだ。僕のコピーは捨てなさい」と諭された。

       「自分らしさが発揮できるのは、僕をジャズへと導いたスイングだということに気づかされた。バディは恩人です」

           ◎

       中学の時に聴いたグッドマンをきっかけに、ジャズに魅了された。その後、クラリネットがどうしてもほしくなり、小遣いをため、手に入れるまでの1年半の間、竹ぼうきを切ってキーの位置に印をつけ、ひたすら運指の練習をした。「楽器を買った時には、音はひどいものでしたが、たいがいの曲は演奏することができました」

       大学に進学した頃には、進駐軍クラブに出演。51年に中退し、南部三郎クインテットに加わり、3年後には自己のグループを結成した。57年にグッドマンが来日した時、共演する機会に恵まれた。「打ち合わせで、ソロは1コーラス(32小節)となったが、僕のソロが終わりかけると、ベニーが『もう1コーラス』と合図を出してくれた。気に入ってくれたのかなとうれしかったですね」と笑う。

       77年に米モンタレー・ジャズ・フェスティバルに出演。以後94年まで18年連続で招かれる。さらに、米国のコンコード・レコードと契約。81年の「スイング・エイジ」は米国でヒットした。時流に左右されない北村の音楽は世界的に認められているのだ。

           ◎

       68年から16年間、テレビ朝日「モーニングショー」に出演した。「前の晩に酒を飲みすぎて翌朝の本番に臨むと、まるで人の唇で吹いているみたい。これはまずい」と断酒した。ずっと独学だったが、50代になって、「もっとうまくなりたい」と、クラシックの第一人者、村井祐児に師事した。「僕にとってクラリネットを吹くことが人生最大の喜び。そのためなら何でもする」と、生真面目にクラリネットの道を追求する。

       ダンディーで柔和なたたずまいを崩さない。演奏もそんな姿のままで、艶つややかな音色を駆使し、どこまでも上品で軽妙洒脱しゃだつ。「アドリブでも暴れず逸脱せず、まるで作曲したかのように整っている。常にそれを目指しています」


           ◆

       ◇作品ガイド

       残念ながら多くのアルバムが廃盤。米国でヒットした「スイング・エイジ」は、「メモリーズ・オブ・ユー」などスタンダード曲を中心に、明るくしゃれたサウンドを聴かせるが、入手は難しい。現在流通する中では、1960年の公演を収めた「北村英治のすべて」=写真=の出来がいい。なめらかな光沢を帯びた音色と軽妙な演奏スタイルはすでに確立されていた。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20171107-118-OYTPT50322

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    3. [日本ジャズの巨人たち]<4>山下洋輔 75(ピアニスト)
      2017年11月9日5時0分

      ◇「無法者」ひじ打ちの荒業も

       背水の陣だった。病気のため1年以上の休養を余儀なくされ、一時、演奏活動を諦めて音楽評論家への転身も考えた。1969年、ようやく病が癒え、中村誠一(サックス)、森山威男(ドラムス)と自身のトリオを結成。しかし「自分たちにしかできない音楽」を模索したがうまくいかず、とりあえず好き勝手に音を出してみた。「むちゃくちゃ楽しくて、これだ!って感じでした」。後に海外にも名をはせるフリージャズの旗手が誕生した。

       「あの時の3人は全員、音楽大学出身。基本を知るからこそ、自信を持って逸脱できたんだと思います」



       母はピアノ教師。幼い頃から、ピアノをおもちゃ代わりに弾いていた。中学の頃、兄の影響でジャズを聴くようになり、その兄のバンドに加わって腕を磨き、高校3年の時にはクラブでの演奏などプロとして活動を始めた。それと並行して、「今後の音楽活動のため、一通りの理論も学びたい」と、国立音楽大作曲科に進んだ。



       高低音を縦横無尽に乱舞し、ひじ打ちなどの荒業も繰り出す山下のピアノに、疾走する機関車を思わせるドラムス、野獣の咆哮ほうこうのようなサックスがぶつかり、ついに爆発する。69年デビューのトリオは、演劇の唐十郎や、舞踏の麿赤児らとともに当時のアングラブームの一翼を担った。

       来日時に彼らのライブを聴いたドイツ人プロデューサーに認められ、74年から毎年のように欧州公演を実現。「クレイ」などのアルバムが現地で発売され、欧州での成功を手にした。

       83年にトリオを解散し、85年にはジャズの本場・米国に単身殴り込んだ。「ほとんど実績のない米国で新人として勝負したかった」と、各地のライブハウスに飛び入り出演。そこで足がかりを得て、3年後に米国人奏者とニューヨーク・トリオを結成した。

       「フリーからビバップまで、ジャズの流儀を知り尽くしているメンバーは、その時々で変わっていく僕の音楽的な興味に柔軟に対応してくれる。今や我が家のような存在です」



       オーケストラとの共演を機にクラシックに接近し、2000年には自作のピアノ協奏曲を初演。これまでに同3番まで発表している。1998年の映画「カンゾー先生」(今村昌平監督)の音楽では、日本アカデミー賞優秀音楽賞に輝いた。今や、万能の音楽家の風格を身にまとう。

       「でも、予期せぬ衝動は必ずわき起こる。その余地を残しておくのが僕の音楽。だから即興部分は絶対に必要なんです。名門オーケストラと共演しても、鍵盤けんばんにひじ打ちすることをちゅうちょしない。結局は無法者なんです」

       ◇作品ガイド

       1969年の「ミナのセカンド・テーマ」=写真=は表題曲や「ぐがん」など山下トリオの代表曲が収められる。74年の欧州公演のライブ盤「クレイ」はソロ、掛け合い、破壊的な大団円まで、若き日の才気と熱がほとばしる。ニューヨーク・トリオによる2003年の「パシフィック・クロッシング」は日本情緒をにじませつつ、硬軟取り混ぜた意欲的かつ円熟の演奏を聴かせる。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20171108-118-OYTPT50412

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    4. [日本ジャズの巨人たち]<5>渡辺香津美 64(ギタリスト)
      2017年11月14日5時0分

       ◇フュージョンの中核担う

       1971年、高校在学中の17歳で出したデビュー・アルバム「インフィニット」は鮮烈だった。日本ジャズ界の実力者たちを従え、先端的なジャズロックを見事に消化した音作りと、超絶技巧を披露する。

       「リハーサルでいい感じで演奏できたので、『俺って天才かも』と悦に入っていた。すると、本番前に共演者たちがいろいろ助言してくれ、曲がどんどん磨かれていく。自分の未熟さを思い知らされた」



       小学校6年生の時に見た加山雄三主演の映画「エレキの若大将」に衝撃を受け、ギターを始めた。エレキブームに66年のビートルズ来日と、日本でもロックが人気となっていく。「当時は『エレキは不良』のイメージで、買ってもらったのはクラシックギター。そこにマイクをつけ、アンプ代わりに家にあったスピーカーつきのテープレコーダーに接続して、即席エレキにしていた」と振り返る。

       ジョー・パスに出合いジャズギターにひかれる。高校1年生から人気ギタリストの中牟礼なかむれ貞則に師事。ライブハウスに出演するようになり、デビューにつなげた。順風満帆だった。

       「ただ、ジャズギターはいかにあるべきかということにがんじがらめになっていた。その頃、ウェイン・ショーターのアルバム『ネイティヴ・ダンサー』の明るく開放的な音に触れ、音楽は本来楽しむべきものだということに気付かされた。自分の演奏より、曲作りや構成など大局的なことに目が向くようになった」

       そんな境地を形にできたのが、77年の「オリーヴス・ステップ」だった。「心を寄せるジャズの精神を、心地よく感じるロックのサウンドに乗せる」という自身の音楽を確立した。70年代の世界のジャズ界にはフュージョンの嵐が吹き荒れた。日本では渡辺ら若手がその中核を担った。

       坂本龍一ら同世代の才能と作り上げた「キリン」、イエロー・マジック・オーケストラの世界ツアーへの参加を経て、マイク・マイニエリら米国の第一人者と作り上げた80年の「トチカ」が大ヒットした。「綿密にサウンドを組み立て、自分の個性を発揮できた。広く受け入れられたこともうれしかった」と言う。

       80年代半ばには、全米ツアーを行い、現地でアルバムも出した。



       2000年代以降、アコースティックギターを軸にしたアルバム「ギター・ルネッサンス」シリーズで新たな道を開く。

       「自在に音を加工できるエレキギターを追求してきたが、制約ゆえに演奏面の工夫が必要なアコースティックギターの奥深さに目覚めた。もっとギターの潜在力を引き出したい」

       自ら「基本的にギター小僧」と称す。ジャズやロックといった枠組みを超え、ギターをかき鳴らす時のときめきを伝えてくれる。

       ◇作品ガイド

       1980年の代表作「トチカ」=写真=は、「ユニコーン」などスリリングな楽曲を前面に出した。それに匹敵する83年の力作「モボ」は、マーカス・ミラーら世界の一流どころが繰り出す躍動的な音が光る。87年の「スパイス・オブ・ライフ」は英国のプログレッシブロック的な味わい。10月に発売されたばかりの新作「トーキョー・ワンダラー」は弦楽隊との共演作だ。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20171113-118-OYTPT50242

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    5. [日本ジャズの巨人たち]<6>渡辺貞夫 84 (サックス奏者)
      2017年11月15日5時0分

      ◇「雑食性です」 陽の音楽家

       ここ数か月の活動だけでもすさまじい。9月の音楽祭「東京ジャズ」で米国大物奏者とともにフュージョン黄金期のサウンドを繰り広げた。10月にはブラジル音楽をベースにしたライブをブラジルの音楽家たちと開催。さらに、正統派ジャズに取り組んだ新作「リバップ」と、バッハ作品を特集したライブ盤「プレイズ・バッハ」を出した。

       「雑食性なんです。それが僕の音楽の本質です」

           ◎

       宇都宮での中学時代に出合ったジャズに傾倒し、バンド活動を始めた。高校時代には進駐軍キャンプで演奏し、豊かな米国を実感した。空襲で実家を失った悔しさは霧散し、「大好きなジャズ、それを生んだ米国へのあこがれが膨らんでいった」という。それが原動力になった。

       高校卒業後に上京し、次第に頭角を現す。秋吉敏子のコージー・カルテットの一員となり、最先端のビバップを吸収した。そして、一足先に米国に渡った秋吉の橋渡しで、1962年、米・バークリー音楽院に留学した。

       すでに日本で10年以上プロ活動を積み、力量はあったので、すぐに現地で演奏の仕事が舞い込んだ。65年、気鋭のビブラフォン奏者のゲイリー・マクファーランドのバンドに加入。ボサノバやロックの要素を取り入れた斬新なスタイルに触れることになった。

       「正統派ジャズ一辺倒だった僕は戸惑いながらも、他の音楽ジャンルの魅力を知り、視野が広がった。彼に出会わなければ、今の自分はなかった」

       しかし、心身の不調に査証の問題が重なり、同年末、渡辺は帰国した。

           ◎

       帰国後、若手の求めに応じ、米国で吸収したジャズ理論を教えた。自身のバンドから菊地雅章、増尾好秋らが巣立っていった。

       さらに、「音楽的な関心の赴くまま」、精力的にアルバムを制作する。66年吹き込みの「ジャズ・アンド・ボッサ」で、ボサノバを流行させ、72年には、テレビの仕事で渡航したアフリカの音楽を導入した「渡辺貞夫」を発表、78年には「カリフォルニア・シャワー」をヒットさせ、フュージョン旋風を巻き起こした。

       「自分の信じていたジャズが否定されたようで最初は拒否反応を起こした」というフリージャズに接近した「ラウンド・トリップ」(70年)という作品まで出した。「好き嫌いより、自分ならどう消化できるかという興味が勝った」からだ。ビバップ以降のほぼすべてのジャズ潮流にかかわり、作風を変えつつ、常に日本ジャズ界の先頭を走った。

       「帰国せず米国に残った方が良かったのではと言う人もいます。しかし、日本にいたからこそ、様々な場を与えられ、音楽の幅を広げられた。自分のたどった道は間違っていなかったと思います」

       80年、米大手レコード会社のCBSと契約。本格的な海外進出を果たした。88年のアルバム「エリス」は、米国の音楽誌「ラジオ&レコーズ」のジャズチャートで4週連続1位に輝くなど、実績を積み、世界中を公演ツアーするようになった。

           ◎

       明瞭な音色と包容力を感じさせる演奏。この人の書く曲も暗く沈み込むことはない。例えば東日本大震災の被災者を思って作曲したという2011年の「ウォーム・デイズ・アヘッド」は、アップテンポの躍動的な曲調に仕立てている。

       「つらい現実に悲観するのは好きじゃない。あの曲は地震のあった3月の、冬から春に向かう季節感に、復興への願いを託した。誰かを追悼する曲でもその人との温かい思い出がヒントになる。僕は悲しい曲が書けないみたいですね」

       陽の音楽家。それも、この人の本質なのだろう。(おわり)

       (この連載は編集委員の西田浩が担当しました)

      ◇作品ガイド

       最高傑作とされる1978年の「カリフォルニア・シャワー」=写真=は、ロック、ソウル、ラテンなど多彩な要素を消化して開放的な音を聴かせる。同時期の「マイ・ディア・ライフ」や「オレンジ・エクスプレス」もフュージョン路線の力作。88年の「エリス」は、ブラジル音楽色が濃厚で郷愁漂う。ビバップ作品では76年の「アイム・オールド・ファッション」が秀逸だ。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20171114-118-OYTPT50289

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  59. [たからもの]渡辺真知子さん 奈良・薬師寺のお守り…巨匠と縁 歌う務め再確認
    2017年11月20日5時0分

     小さな黄色のお守りは、奈良市の世界遺産・薬師寺のものだ。6月に薬師寺で開かれたコンサートの前の祈祷きとうの際、寺からいただいた。

     手にして半年足らずなのに大切に感じるのは、コンサートで共演したジャズクラリネット奏者の北村英治さん(88)も、同じ日に同じお守りを受け取っているから。ジャズ界の巨匠との縁の象徴なのだ。

     コンサート当日は豪雨に見舞われ、観客席にも雨が容赦なく降り注いだ。自分は荒天に心が揺らいだ。だが、北村さんはいつもと同じ優しい表情でステージに立ち、最高の演奏を披露した。

     共演した経験は何度かあったが、そのすごみを初めて目の当たりにした。「北村さんの周りだけ、春の日だまりのような空気に包まれているように見えました」

     その晩、宿に戻ると、涙が止まらなくなった。昨年還暦を迎え、今後の生き方を模索していた時。北村さんが音楽と向き合う姿に、「私もそうありたい」との信念を持てた。

     短大で声楽とピアノを学び、21歳で「迷い道」でデビュー。ヒットを連発し、NHK紅白歌合戦にも2回出場した。だが、1980年代後半のバンドブームで仕事が減り、30代も自分の歌に満足できずに悩む日々が続いた。

     それが40代に入ると好転する。「THE 夜もヒッパレ」など、歌番組への出演が再び増えたのだ。低迷期を支えてくれた母は喜び、「あなたには二つ目の山が来ようとしている。幸せだと思いなさい」と声をかけてくれた。母と父は、自分が50歳になる前後で他界したが、母の言葉を胸に謙虚な姿勢を貫いてきた。

     それから10年余り。活動は海外にも広がった。昨年、米デトロイトで行われた催しで披露するため、「アメージング・グレース」をリハーサルで歌っていると、会場のウェートレスたちがどこからともなく歌に加わってきた。国境を超えても、歌があれば自然とつながれることに感激した。

     自分自身、若い頃から音楽のジャンルを飛び越えてきた。誘われればジャズやラテン音楽などにも積極的に参加し、「音楽のボーダー(境界)が私にはないんです」とほほ笑む。ジャズでは関西を拠点とする「アロージャズオーケストラ」などと共演してきた。大御所の北村さんと同じステージに立てたのも、こうした積み重ねがあったからだ。

     北村さんとは8月、東京・上野のジャズのイベントでまた一緒になった。そこで聞いたのは、北村さんが5年前に心筋梗塞こうそくで倒れた際のエピソード。病院に運ばれる際、クラリネットの入った箱を携えていったという。音楽を愛し、音楽に愛されている人だと改めて思い知った。

     豪雨の薬師寺で見えた「日だまり」の謎が解けた気がした。巨匠を見習い、「ステージに立つ限り、歌うのが私の務め。このまま突き進んでいけばいい」と心に決めた。

     最近、テレビ番組の収録で北村さんと再会した。お守りのご縁は続いているようだ。(遠藤富美子)

      わたなべ・まちこ  歌手。1956年、神奈川県生まれ。77年デビュー。「かもめが翔んだ日」「ブルー」などのヒット曲を出し、日本レコード大賞最優秀新人賞などを受賞。デビュー40周年記念コンサートを今月23日に大阪市、来年1月13日に神奈川県横須賀市で開く。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20171119-118-OYTPT50275

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  60. 「フリー・ジャズ」、セシル・テイラー氏が死去
    2018年4月7日18時49分

     セシル・テイラー氏 89歳(米ジャズ・ピアニスト)米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)によると、5日、ニューヨーク・ブルックリンの自宅で死去。

     ニューヨーク・クイーンズ生まれ。1950年代に興った西洋音楽の様式にこだわらない「フリー・ジャズ」を代表するピアニストで、日本のジャズ界にも影響を与えた。2013年には、科学や文明の発展に貢献したとして、稲盛財団の「京都賞」(思想・芸術部門)を受賞した。(ニューヨーク支局)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20180407-118-OYT1T50085

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  61. 88歳 ジャズピアニスト秋吉敏子…衰えぬ情熱「今も旅の途上」
    2018年5月10日15時0分

     米寿(88歳)を迎えた世界的なジャズピアニスト、秋吉敏子が精力的な活動を展開する。昨年末に2枚組みの新作「マイ・ロング・イエロー・ロード」(スタジオソングス)を出し、今年4~5月にはソロで日本各地をツアー。9月には夫でサックス奏者のルー・タバキンとのデュオで再び日本公演を開く。衰えぬ音楽への情熱について聞いた。(編集委員 西田浩)

     4月11日、東京・板橋区立文化会館。郷愁を帯びた彼女の代表曲「ロング・イエロー・ロード」で幕を開け、バラード「アイ・ラブズ・ユー・ポーギー」で甘美な旋律を紡ぎ、「オールド・デビル・ムーン」では奔放に躍動する。みずみずしい表現力で会場を魅了した。

     その後、体調を崩し、一部公演を中止するハプニングはあったが、5月3日のジャズ祭、高槻ジャズストリート(大阪)では元気にステージを務めた。

     「今回はちょっとスケジュールを詰め込みすぎたかな。自重しないといけませんね」

     新作は「自分の年齢がピアノの鍵盤けんばんの数と同じになった。ピアニストとしての節目の記録を残したかった」という思いから制作した。「その時々の自分にとって重要なレパートリーを選びました」。そう語るように、1950年代から演奏していたスタンダード曲「ノー・ムーン・アット・オール」から、2001年発表の自作曲「ホープ」や、バッハのジャズ化に挑んだ10年初吹き込みの「2声のインベンション ニ短調」まで、多彩な楽曲で、足跡を集大成した。

     日本の童謡「月の沙漠」を収録したのが目を引く。

     「異国へのロマンをかき立てる歌詞が気に入り、演奏するようになった曲。私が歌詞にひかれるのは珍しいんですが……」

     バークリー音楽院留学のためにボストンに渡って間もない1950年代後半のこと。ピアニストのアル・ヘイグに「何かアドバイスしてほしい」と求めたところ、「歌詞を考えろ」と言われた。

     「当時は『演奏のことを聞いているのに、妙なことを言う人だなあ』と思ったが、今になって、わかるようになりました」

     16歳でプロとなり、留学で渡米後の大半は米国を拠点に活動してきた。70年代にタバキンとのビッグバンドで大きく飛躍。99年に米・国際ジャズ名誉の殿堂入りを果たすなど、数々の栄誉を手にしてきた。

     「昨日より少しでもうまくなりたいと、ピアノに向かう。それは約70年前に演奏活動を始めて以来、変わっていません。今も終わりなき旅の途上です」

     タバキンとのデュオ公演は9月15日、上野の東京文化会館で。「私のレパートリーに、ルーが得意とするデューク・エリントンの曲などを交え、彩り豊かなステージにしたい」と語った。(電)03・5685・0650。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20180510-118-OYTPT50229

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  62. ジャズ界の巨人 コルトレーンの幻の音源55年ぶり発見 発売へ
    2018年6月8日 13時27分

    ジャズ史上最も偉大な人物の一人とされるアメリカのサックス奏者、ジョン・コルトレーンが絶頂期の1963年に録音し、その後55年間、世に出ることがなかった幻のレコーディング音源が発見されました。

    ジョン・コルトレーンはジャズが大きく変革した1950年代から60年代にかけて活躍したアメリカのサックス奏者で、1967年に40歳で亡くなるまで数多くの名演を残し、トランペット奏者のマイルス・デイビスと並ぶジャズ界の巨人として知られています。

    今回見つかったのは、コルトレーンの絶頂期にあたる1963年3月にアメリカ・ニュージャージー州のスタジオで録音されたレコーディングのテープです。

    テープは4本あり、7曲分が複数のテイクで収録され、このうち2曲はこれまでに知られていないコルトレーン作曲のオリジナル曲となっています。

    演奏には「黄金のカルテット」と呼ばれる全盛期のバンドメンバーが参加し、当時のバンドの熱量の高まりを感じさせる激しい演奏が収められています。

    1曲目では演奏前の会話もそのまま収録され「じゃあオリジナル曲だ」という呼びかけに、コルトレーンが応じるやり取りを聞くことができます。

    レコード会社によりますと、この録音は当時、なぜかレコードとして発売されず、オリジナルのマスターテープも行方がわからなくなっていたため、長い間、記録だけが残る幻の音源とされていましたが、予備のテープがコルトレーンの当時の妻の遺族のもとで発見されたということです。

    この音源は今月29日に発売され、録音から55年ぶりにファンの耳に届くことになります。

    専門家「失われたパズルのピースはまった」

    ジョン・コルトレーンの世界的な研究家として知られる藤岡靖洋さんは「最も脂がのった時期の録音で、文句なしにすばらしい演奏だ」と発見を喜んでいます。

    そのうえで「コルトレーンは次々に新しい境地を開拓してジャズの可能性を開いたアーティストだ。今作は、その過渡期で、それまでの音楽性と新たな音楽性という2つのコルトレーンが同時に収められている、なかなかない録音で、失われていたパズルのピースがはまったようだ」と話しています。

    また、録音が行われた1963年当時のアメリカでは黒人への差別の解消や自由を求める公民権運動が高まっていたことに触れ、コルトレーンも時代に共鳴しながら音楽表現における自由の探求を続けていたと指摘し、「コルトレーンは自分の思いを言葉ではなく音楽の中に秘め、『アングリー・ヤング・テナー=怒れる若いテナー・サックス奏者』とも呼ばれていた。この作品にもコルトレーンが音楽を通して伝えたかったメッセージが込められていると感じる」と話しています。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180608/k10011469021000.html

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    1. コルトレーン 未発表2曲 55年前の収録音源発見 29日発売へ
      2018年6月8日15時0分

       ジャズの巨人として知られる米国のサックス奏者、ジョン・コルトレーン=写真=の全盛期の未発表音源が見つかり、29日に「ザ・ロスト・アルバム」として全世界で発売される。

       日本の発売元・ユニバーサルミュージックによると、この音源は1963年3月6日、ニュージャージー州のスタジオで収録された。マッコイ・タイナー(ピアノ)、エルビン・ジョーンズ(ドラムス)、ジミー・ギャリソン(ベース)を従えた全盛期のグループの演奏で、7曲が収められ、うち2曲が未発表の自作曲だった。残りはライブで演奏されていた自作曲など。

       コルトレーンが所属したレコード会社には、この録音の存在を示す記録はあったが、マスターテープ自体は、70年代初頭に保管費用節減のため、廃棄されたという。ユニバーサルの斉藤嘉久ディレクター(46)は、「当時、人気絶頂だったコルトレーンは市場に作品があふれぬよう、出す時期を調整していた。その中で発売の機会を逸し、本人も死去、音源は埋もれてしまったのでしょう」と語る。

       しかし、コルトレーンは、自分用に簡便なテープで録音し、家に持ち帰っていた。遺族が遺品を整理する過程で、2005年にテープの存在が判明。その後、高音質化などの作業を経て、発売されることになった。

       ジャズ評論家の岡崎正通さん(72)は、「同時期の『バラード』が静とすれば、今回のアルバムはコルトレーンの動の魅力を伝えている。録音直後に発売されていれば、名盤の一つとして、歴史に刻まれていた出来栄えだと思う」と話している。

      ◇ジョン・コルトレーン(1926~67年)

       40年代後半に演奏活動を開始。自身の初アルバムを出したのは57年と遅咲きだったが、以後、「ブルー・トレイン」「ソウルトレーン」など立て続けに傑作を発表。65年の「至上の愛」はジャズの金字塔と言われる。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20180608-118-OYTPT50243

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    2. コルトレーン、全盛期の未発表音源…29日発売
      2018年6月8日16時45分

       ジャズの巨人として知られる米国のサックス奏者、ジョン・コルトレーンの全盛期の未発表音源が見つかり、29日に「ザ・ロスト・アルバム」として全世界で発売される。

       日本の発売元・ユニバーサルミュージックによると、この音源は1963年3月6日、ニュージャージー州のスタジオで収録された。マッコイ・タイナー(ピアノ)、エルビン・ジョーンズ(ドラムス)、ジミー・ギャリソン(ベース)を従えた全盛期のグループの演奏で、7曲が収められ、うち2曲が未発表の自作曲だった。残りはライブで演奏されていた自作曲など。

       コルトレーンが所属したレコード会社には、この録音の存在を示す記録はあったが、マスターテープ自体は、70年代初頭に保管費用節減のため、廃棄されたという。ユニバーサルの斉藤嘉久ディレクター(46)は、「当時、人気絶頂だったコルトレーンは市場に作品があふれぬよう、出す時期を調整していた。その中で発売の機会を逸し、本人も死去、音源は埋もれてしまったのでしょう」と語る。

       しかし、コルトレーンは、自分用に簡便なテープで録音し、家に持ち帰っていた。遺族が遺品を整理する過程で、2005年にテープの存在が判明。その後、高音質化などの作業を経て、発売されることになった。

       ジャズ評論家の岡崎正通さん(72)は、「同時期の『バラード』が静とすれば、今回のアルバムはコルトレーンの動の魅力を伝えている。録音直後に発売されていれば、名盤の一つとして、歴史に刻まれていた出来栄えだと思う」と話している。

       ◆ジョン・コルトレーン(1926~67年)=40年代後半に演奏活動を開始。自身の初アルバムを出したのは57年と遅咲きだったが、以後、「ブルー・トレイン」「ソウルトレーン」など立て続けに傑作を発表。65年の「至上の愛」はジャズの金字塔と言われる。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20180608-118-OYT1T50090

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    3. 6月9日 編集手帳
      2018年6月9日5時0分

       東京・有楽町に昔、「コンボ」という小さなジャズ喫茶があった。そこでは音だけを聞いて演奏者を当てるゲームが恒例だった◆デイビスだ、ショーターだ、コルトレーンだ! 「全部当てるとコーヒーがただになりました」。音楽評論家、湯川れい子さんの駆けだし時代の思い出である。米国からなだれこんできた自由な音楽に、血潮を躍らせた方々の興奮はいかばかりだろうか◆ジャズの巨人と呼ばれたサックス奏者、ジョン・コルトレーンの“新曲”が見つかった。1963年に録音されたテープを家族が遺品の中に見つけ、7曲のうちの2曲が未発表とわかった◆半世紀もの時を経て、世界同時に新盤が発売される。その名も『ザ・ロスト・アルバム』(失われたアルバム)。レコード会社が絶頂期に作品があふれないよう出荷を抑えたためとか。ん? 要するにうっかり忘れたのですね◆亡くなる前年の66年、コルトレーンは来日している。記者会見で音楽で何を伝えたいか聞かれ、こう答えた。「愛。愛が中心です」。ただならぬ愛なき事件の報に痛くなるばかりの胸に、その人のサックスがこいしい。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20180609-118-OYTPT50205

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  63. ロシアの指揮者ロジェストベンスキー氏死去
    2018/6/16 22:16
    ©一般社団法人共同通信社

     【モスクワ共同】インタファクス通信によると、ロシアを代表する指揮者のゲンナジー・ロジェストベンスキー氏が16日、死去した。87歳だった。
    https://this.kiji.is/380707713946322017

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  64. 「ソウルの女王」米の歌手アレサ・フランクリンさん死去
    2018年8月17日 0時21分

    「ソウルの女王」と呼ばれ、「リスペクト」などのヒット曲で人気を集めたアメリカ人歌手、アレサ・フランクリンさんが亡くなりました。76歳でした。

    アレサ・フランクリンさんはアメリカ南部テネシー州で生まれ、1961年に歌手デビューしました。

    力強い歌声と圧倒的な歌唱力で人気を集め、「リスペクト」や「ナチュラル・ウーマン」などの曲が相次いでヒットして「ソウルの女王」と呼ばれ、ホイットニー・ヒューストンさんや、マライア・キャリーさんなど多くの歌手に影響を与えました。

    アメリカ音楽界で最も権威があるとされるグラミー賞を18回受賞しているほか、女性の歌手としては初めて、「ロックの殿堂」入りも果たしています。

    去年11月にステージに立ち、歌を披露していましたが、ことしに入って、医師の指示で公演を中止していました。

    アメリカメディアによりますと、フランクリンさんは16日、中西部デトロイトの自宅で、家族にみとられながら亡くなったということです。

    フランクリンさんはがんを患っていたということですが、死因など詳しいことは明らかになっていません。

    公民権運動や女性の権利拡大にも影響

    アレサ・フランクリンさんは、人種差別撤廃を求めた1960年代の公民権運動や女性の権利拡大を求める運動にも大きな影響を与えました。

    フランクリンさんは、牧師だった父親を通じて公民権運動の指導者だったマーティン・ルーサー・キング牧師と交流があり、人種問題に対し、批判をおそれずに発言し、みずからも公民権運動に積極的に関わりました。

    1960年代のアメリカの一部の州では、コンサートは人種ごとに隔離されて開かれることもありました。人種差別に抗議するため、フランクリンさんはそうしたコンサートでは絶対に歌わないことをレコード会社との契約の中に盛り込みました。

    1967年に発表され、大ヒットとなった「リスペクト」は、自分を独立した人間として尊重してほしいというメッセージを力強く歌いました。これが人種差別や性差別と闘う人たちの共感を呼び、公民権運動や女性の権利を求める運動のテーマ曲として親しまれました。

    晩年になっても男性どうしの結婚式で「リスペクト」を歌うなど、LGBT=性的マイノリティーの人たちからも支持される歌手でした。

    歴代大統領も弔意

    アレサ・フランクリンさんは、オバマ前大統領やクリントン元大統領の就任式でもその歌声を披露しています。

    オバマ前大統領はミシェル夫人と連名の声明を発表し、「私たちは皆、彼女が歌うたびにかいま見る神々しさに魅了された。彼女は楽曲と比類なき音楽の才能を通じてアメリカを形づくるのを助けた。アレサは旅立ってしまったかもしれないが、彼女の音楽が与えてくれたものは私たちに残り続ける。ソウルの女王よ、やすらかに」と、フランクリンさんの死を悼みました。

    またクリントン元大統領は「アメリカのすばらしい国民的な宝で、私たち夫妻の友人でもあるアレサ・フランクリンの死を悼む。優雅かつ上品で、芸術性の追求で一切妥協がなかった。彼女の優しさと支援に感謝している。永遠にソウルの女王であり、彼女を知るすべての人たちにとってはそれ以上の存在だ」とする声明をヒラリー・クリントン元国務長官と連名で出しました。

    一方、トランプ大統領は16日、閣議の冒頭で「彼女は多くの人たちに喜びを与えてくれた。その卓越した遺産は世代を超えて受け継がれるだろう。神から歌声というすばらしい才能を授けられた特別な女性だった」と述べて、弔意を表しました。

    世界のミュージシャンが死を悼むメッセージ

    世界中のミュージシャンがSNSにアレサ・フランクリンさんの死を悼むメッセージをつづっています。

    このうち、イギリスの歌手のエルトン・ジョンさんはツイッターに「アレサ・フランクリンの死は、本物の音楽を愛するすべての人にとって衝撃だ。幸運にも最後の公演の際、会うことができたが、明らかに体調が悪そうだった。しかし、彼女は見事に歌い、演奏し、私たちは皆、涙した。私たちは史上最高のソウルアーティストをこの目で見ていたんだ」などと数回に分けて書き込み、フランクリンさんの死を悼みました。

    また、ビートルズの元メンバーのポール・マッカートニーさんは「彼女の音楽家としての偉大さと、人としてのすばらしさの記憶は、私たちの中に永遠に生き続けるだろう」と書き込んでいます。

    さらに、アメリカの歌手、マライア・キャリーさんは「あなたとともに過ごした時間をずっと大切にしていきます。皆、あなたのことをこれからも尊敬しています」などとつづっています。

    また、アメリカのミュージシャン、レニー・クラヴィッツさんは「ソウルの女王は天の玉座に座るため地球を去ってしまった。神が授けた最高の歌声に触れることができた俺たちはなんて幸せだったんだ」と、フランクリンさんと一緒に撮影した写真とともにツイートしています。

    このほか、歌手のイディナ・メンゼルさんやリッキー・マーティンさん、それにダイアナ・ロスさんなどジャンルを問わず、世界で活躍するミュージシャンが敬意を込めてメッセージをつづっていて、「ソウルの女王」が音楽界に残した功績の大きさが改めて浮き彫りとなっています。

    ハリウッドでも多くのファンが死を悼む

    亡くなったアレサ・フランクリンさんの名前が刻まれた星形のプレートがあるハリウッド中心部には、大勢のファンが訪れました。

    プレートは、写真や花束で埋め尽くされ「永遠に、心の中に」と書かれたメッセージが捧げられていました。
    訪れた人たちはフランクリンさんの曲を流したり写真を撮ったりして死を悼みました。

    ロサンゼルスに住む男性は「彼女の大ファンで、敬意を表するために来ました。彼女は多くの女性のために道を切り開き、若い歌手たちに影響を与えました。世界にとって大きな損失です」と話していました。

    またフランクリンさんと同じテネシー州出身で現在、歌手として活動している女性は「私も幼い時に彼女と同じようにテネシー州の教会で歌を始めた共通点があります。安らかに眠ってほしいと思います」と話していました。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180817/k10011580031000.html

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    1. 「ソウルの女王」アレサ・フランクリンさん死去
      2018年8月17日1時2分

       【ニューヨーク=橋本潤也】AP通信によると、米音楽界を代表する黒人女性歌手で「ソウルの女王」と称されたアレサ・フランクリンさんが16日、ミシガン州デトロイトの自宅で死去した。76歳だった。膵臓すいぞうがんを患っていたという。

       米音楽界最高の栄誉とされるグラミー賞を何度も受賞。2008年に米音楽雑誌「ローリングストーン」が選んだ「歴史上最も偉大な100人のシンガー」で1位に選ばれた。

       テネシー州メンフィス生まれ。父が牧師を務める教会で、子どもの頃からゴスペルを歌っていた。1961年にデビュー。圧倒的な歌唱力を誇り、オーティス・レディングの名曲「リスペクト」のカバーで、67年に全米1位を記録し、「ソウルの女王」としての地位を不動のものにした。

       「ナチュラル・ウーマン」や、ジョージ・マイケルとのデュエット曲「愛のおとずれ」などのヒット曲を生んだほか、2009年のオバマ大統領(当時)の就任式で歌声を披露した。昨年までツアーを精力的に続けていたが、体調不良で医師の勧めを受け入れ活動を中止。幼い頃に住んでいたデトロイトで暮らしていた。

                    ◇

       音楽評論家・大友博さんの話「ゴスペル出身だが、ジャズやソウルなど様々な音楽スタイルを取り入れ、自分のものにしていた。エリック・クラプトンさんらと共演し、ブラックミュージックと白人のロックの懸け橋にもなった。どんな曲でも見事に歌い、1998年のグラミー賞授賞式で聴いたオペラのアリア『誰も寝てはならぬ』も忘れられない。卓越した表現力があり、その影響力は計り知れない。特別な存在だった」
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20180816-118-OYT1T50080

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    2. アレサ・フランクリンさん死去 76歳…ソウルの女王、グラミー賞
      2018年8月17日5時0分

       【ニューヨーク=橋本潤也】AP通信によると、米音楽界を代表する黒人女性歌手で「ソウルの女王」と称されたアレサ・フランクリンさんが16日、ミシガン州デトロイトの自宅で死去した。76歳だった。膵臓すいぞうがんを患っていたという。

       米音楽界最高の栄誉とされるグラミー賞を何度も受賞。2008年に米音楽雑誌「ローリングストーン」が選んだ「歴史上最も偉大な100人のシンガー」で1位に選ばれた。

       テネシー州メンフィス生まれ。父が牧師を務める教会で、子どもの頃からゴスペルを歌っていた。1961年にデビュー。圧倒的な歌唱力を誇り、オーティス・レディングの名曲「リスペクト」のカバーで、67年に全米1位を記録し、「ソウルの女王」としての地位を不動のものにした。

       「ナチュラル・ウーマン」や、ジョージ・マイケルとのデュエット曲「愛のおとずれ」などのヒット曲を生んだほか、2009年のオバマ大統領(当時)の就任式で歌声を披露した。昨年までツアーを精力的に続けていたが、体調不良で医師の勧めを受け入れ活動を中止。幼い頃に住んでいたデトロイトで暮らしていた。

       音楽評論家・大友博さんの話「ゴスペル出身だが、ジャズやソウルなど様々なスタイルを取り入れ、自分のものにしていた。1998年のグラミー賞授賞式で聴いたオペラのアリア『誰も寝てはならぬ』も忘れられない。特別な存在だった」
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20180817-118-OYTPT50048

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    3. 「ソウルの女王」悼む声 オバマ氏「歌声 米を支えた」
      2018年8月17日15時0分

       【ニューヨーク=橋本潤也】16日に76歳で死去した米音楽界を代表する歌手、アレサ・フランクリンさんは圧倒的な歌唱力で「ソウルの女王」と呼ばれた。多くのヒット曲で人気を集めたほか、オバマ前大統領の就任式で歌声を披露するなど、国民的歌手であり続けたフランクリンさんを悼む声が各界から相次いだ。

       オバマ前大統領はミシェル夫人と連名の声明で、「私たちは皆、歌うたびにのぞかせる神々しさに魅了された。アレサは楽曲と比類ない音楽の才能を通じて、米国を形づくるのを助けた」と死を悼んだ。一方、トランプ大統領は閣議の冒頭で「多くの人に喜びを与えた。神から歌声というすばらしい才能を授けられた特別な女性だった」と述べ、弔意を表した。

       数多くのミュージシャンもツイッターで死を悼んだ。

       米国の歌手マライア・キャリーさんは共演した際の写真とともに、「ソウルの女王。歌手の中の歌手。私の人生の中で最も偉大なシンガー、ミュージシャン。音楽界と公民権運動で発した声の力は、私や多くの人々のために扉を開けた」と書き込んだ。

       英国の歌手エルトン・ジョンさんも「アレサ・フランクリンの死は、本物の音楽を愛するすべての人にとって衝撃だ」と記した。「幸運にも彼女と多くの時間を過ごし、最後のパフォーマンスも見ることができた。明らかに調子が悪かったが、彼女は見事に歌い、演奏し、私たちは皆、涙した」と敬意を込めたメッセージを書き込み、その死を悼んだ。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20180817-118-OYTPT50252

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    4. aretha franklin
      https://www.youtube.com/results?search_query=aretha+franklin

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    5. 「公民権運動の賛歌」 フランクリンさん死去 キング牧師と親交
      2018年8月18日5時0分

       【ニューヨーク=橋本潤也】米国の音楽界を代表する歌手で16日に76歳で死去したアレサ・フランクリンさんは生前、黒人への差別撤廃を訴える公民権運動や女性解放運動を象徴する存在だった。

       フランクリンさんは米南部テネシー州メンフィスに生まれ、幼い頃にミシガン州デトロイトに移った。牧師だったフランクリンさんの父は公民権運動に参加し、著名な指導者のマーチン・ルーサー・キング牧師はフランクリン家をたびたび訪れたという。

       全米1位を記録し、「ソウルの女王」の地位を不動のものとしたのが、1967年のヒット曲「リスペクト」。軽快な口調で女性が男性に様々な要求をする歌詞の内容は、公民権運動や女性解放運動の「アンセム」(賛歌)と評された。

       2009年には、黒人初の大統領となったオバマ前大統領の就任式で歌声を披露。オバマ氏はフランクリンさんの死去を受け、ミシェル夫人と連名で発表した声明で「私たちは皆、彼女が歌うたびにのぞかせる神々しさに魅了された」と称賛し、「ソウルの女王、安らかに」と結んだ。歌手のマライア・キャリーさんはツイッターに「音楽界と公民権運動で発したあなたの声の力は、私や多くの人々のために扉を開けた」と書き込んだ。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20180818-118-OYTPT50190

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    6. 追悼 アレサ・フランクリン 吉岡正晴
      2018年8月23日5時0分

      ◇歌手の枠を超えた先導者

       「クイーン・オブ・ソウル」と呼ばれ、半世紀以上、アメリカ音楽界の第一線で活躍してきたアレサ・フランクリンが16日、死去した。76歳だった。米メディアは速報を流し、ゆかりの人を次々呼んで功績を紹介。衝撃は大きく、マイケル・ジャクソンの訃報ふほうに匹敵するのではないかと思われるほどの扱いだ。

       歌手の枠を超えた存在だった。彼女がアメリカに与えた影響の大きさをよく表したのが、オバマ前大統領のツイートだった。「アレサはアメリカ人が経験してきたことを明らかにしてくれた。その声には私たち自身のあらゆる歴史が感じられる。私たちの力と痛み、暗闇と希望の光、贖罪しょくざいの探求、そしてやっと手に入れたリスペクト(敬意)~そのすべてを」

       アレサの父は牧師で、教会でゴスペルを歌って喉を鍛えた。デビュー後、1960年代後半に音楽的方向性を米南部のR&Bにしたところ大ヒット。以後、グラミー賞を8年連続で獲得。シングルヒットは約100曲、アルバムも40枚以上を数える。

       彼女の最大の魅力はなによりその歌のうまさ、そして、ソウルやR&Bに限らず、あらゆるジャンルを類いまれな解釈力で自分のものにしたこと。

       さらに、60年代に活躍し始めたという時代性もあり、当時大きなうねりとなりだした黒人の公民権運動、性差別への反対運動などに対し積極的に発言し、黒人女性のオピニオンリーダー的存在にもなった。彼女のヒット曲「リスペクト」は、男性に向かって、「女のあたしにもちょっと敬意をもってよ」と歌ったが、次第に差別を受けるマイノリティーにとっても応援歌となった。アレサは「この曲が運動を後押ししたこともあるけど、最近のブラック・ライブズ・マター(=黒人差別への抗議活動)にもあてはまる。まだまだ道のりは遠い」と3年前にテレビで語っていた。

       飛行機嫌いのアレサは日本には来ないので、僕は91年9月13日、ニューヨークのラジオシティ・ミュージックホールまでライブを見に出向いた。彼女がステージに出てきた瞬間、さすがに頭の中が真っ白になり、特に「ナチュラル・ウーマン」が歌われたときには鳥肌が立った。その声はまさに神の声だった。 (よしおか・まさはる=音楽評論家)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20180822-118-OYTPT50468

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    7. [Styleアイコン]【アレサ・フランクリン】毛皮のコート 「女王」の貫禄
      2018年9月14日15時0分

       8月に76歳で亡くなったアレサ・フランクリンは、「ソウルの女王」と呼ばれる米国の国宝級の黒人歌手です。60年を超えるキャリアで、グラミー賞を何度も受賞し、2005年には民間人最高の栄誉とされる「大統領自由勲章」を授与されます。09年のオバマ大統領(当時)就任式でも歌声を披露するなど、伝説は枚挙にいとまがありません。

       オバマ前大統領が「アレサが歌う時、アメリカの歴史が浮かび上がる」と評し、涙したように、ソウルフルで天地を震わす歌声は、神の崇高な力さえ感じさせます。そして装いや態度もまた「女王」の呼称に多大なる貢献をしています。

       黒人差別の中でデビューした当時から、彼女は高い自尊心を持ち、自分に敬意を払うよう周囲に求めます。盗まれないようギャラを入れたバッグをステージに持ち込んだというエピソードは、彼女が過酷な環境で闘ってきたことをうかがわせます。

       時代に応じて髪形も装いも変化していますが、二の腕と胸元を露出したドレスに、毛皮のコートやジャケットを羽織る姿が女王のスタイルとして強烈に印象に残っています。

       量感のあるボディーを露出するドレス姿を批判されても、「露出の多いドレスを着るには十分すぎるボディーかもしれないが、不満をもったことはない」と一蹴いっしゅう。最近は「プラスサイズ」や、ふくよかな曲線の「カービーボディー」の美を認めよという運動が盛んですが、堂々と着たい服を着る手本を彼女が示していましたね。動物愛護団体から度々抗議を受けても毛皮の衣装を着続けました。

       15年にワシントンのケネディセンターで歌った時、クライマックスで毛皮のコートを脱ぎ捨てました。毛皮より私の存在にこそ価値がある、とほえるかのような熱唱に鳥肌がたちました。ボディーサイズの問題も毛皮への批判も、圧倒的な才能の元で吹き飛ばされたかのようでした。スターではなく、女王ですらなく、女神に見えた瞬間でした。(エッセイスト 中野香織)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20180914-118-OYTPT50146

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  65. アイコンとコンテンツ…

    シニフィアンとシニフィエ
    https://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%B7%E3%83%8B%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3+%E3%82%B7%E3%83%8B%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A8+%E3%82%BD%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB

    そして、ソシュール…
    https://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%BD%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB

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    1. 言語哲学だの記号論だのという立派な名前をつけてやっているらしいが、いわゆる堂々巡り堂々ってやつだな…

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  66. 世界的なシャンソン歌手 シャルル・アズナヴールさん死去
    2018年10月1日 21時33分

    世界的なシャンソン歌手で俳優としても知られる、フランスのシャルル・アズナヴールさんが、フランス南東部にある自宅で亡くなったことを、1日、広報担当者が明らかにしました。94歳でした。

    アズナヴールさんは先月来日し、東京や大阪のNHKのホールで公演していました。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181001/k10011654031000.html

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    1. 仏シャンソン界重鎮、94歳アズナブール氏死去
      2018年10月1日22時18分

       【パリ=作田総輝】AFP通信は1日、フランスシャンソン界の重鎮シャルル・アズナブール氏が南仏アルピーユの自宅で死去したと報じた。94歳だった。

       1924年、アルメニア系移民の子としてパリに生まれた。幼少期から俳優や歌手を志して舞台に立ち、20歳代前半で伝説的な仏女性歌手エディット・ピアフに認められ、脚光を浴びた。シャンソンの名曲「ラ・ボエーム」などでシンガー・ソングライターとしての才能を発揮した。多数の映画にも出演し、俳優としても活躍した。

       アズナブール氏は9月に来日公演を行ったばかりで、17日の東京公演では20曲以上をドラマチックに歌い上げた。公演終盤でもステージ上を元気に歩き回り、聴衆を沸かせた。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20181001-118-OYT1T50098

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  67. フランシス・レイ氏死去 仏映画「男と女」で作曲
    2018.11.8 11:36

     フランシス・レイ氏(フランスの作曲家)同国のメディアによると、7日までに死去、86歳。亡くなった日や死因は明らかにされていない。

     32年、フランス南東部ニース生まれ。シャンソンの作曲でキャリアを始め、「ダバダバダ」のスキャットで知られる映画「男と女」(66年)のテーマ音楽が大ヒット。その後もクロード・ルルーシュ監督と名コンビを組み、「白い恋人たち」など数々の映画音楽を作曲した。米映画「ある愛の詩」(70年)ではアカデミー作曲賞を受賞した。(共同)
    https://www.sanspo.com/geino/news/20181108/geo18110811360016-n1.html

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  68. 3度のアカデミー賞 作曲家のミシェル・ルグランさん死去
    2019年1月26日 19時26分

    映画「シェルブールの雨傘」の音楽を担当し、アメリカ映画界最高の栄誉とされるアカデミー賞に3度輝いたフランスの映画音楽の巨匠、ミシェル・ルグランさんが死去しました。86歳でした。

    ミシェル・ルグランさんは、フランスのパリで音楽一家に生まれ、名門、パリ国立高等音楽院で学び、10代の頃からジャズや映画音楽の分野で作曲活動を始めました。

    1964年のミュージカル映画、「シェルブールの雨傘」で音楽を担当し、カンヌ国際映画祭でグランプリを獲得すると、1969年には映画「華麗なる賭け」で作曲した主題歌で、アメリカ映画界最高の栄誉とされるアカデミー賞を初めて受賞しました。

    その後も映画「おもいでの夏」や「愛のイエントル」で、アカデミー賞に輝きました。

    独創性あふれるサウンドで知られるルグランさんの作品は、数々の映画監督や作曲家に支持され、映画音楽界の巨匠として大きな影響を与えたほか、日本のテレビコマーシャルにもたびたび使われました。

    親日派でも知られるルグランさんは、何度も来日していて、日仏友好160年を迎えた去年も日本での公演を行っています。

    ルグランさんは、ことし4月にも公演を行う予定で活動を続けていましたが、26日、代理人がフェイスブックでルグランさんが亡くなったと発表しました。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190126/k10011792581000.html

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    1. 仏作曲家のミシェル・ルグラン氏が死去
      2019年1月26日21時36分

       【パリ=作田総輝】AFP通信は26日、フランスを代表する作曲家ミシェル・ルグラン氏が死去した、と報じた。86歳だった。広報担当者が明らかにした。ミュージカル映画「シェルブールの雨傘」などの映画音楽をはじめ、ジャズ、クラシック、ポップスと縦横無尽に活躍。日本の音楽家にも大きな影響を与えた。

       パリ生まれ。父親も音楽家で、幼少期からピアノに親しんだ。パリ国立高等音楽院でクラシックの教育を受け、若くして映画音楽の仕事にかかわり、優美で気品ある旋律の楽曲は高い評価を得た。スティーブ・マックイーン主演の米映画「華麗なる賭け」の主題歌「風のささやき」で米アカデミー賞を獲得したほか、「ロシュフォールの恋人たち」や「おもいでの夏」などの音楽も手がけた。ジャズピアニストとしても知られ、マイルス・デイビスらと共演した。

       親日家としても知られ、手塚治虫原作の映画「火の鳥」の主題曲を手がけたほか、歌手の森山良子さんとも共演した。作曲を担当したミュージカル「壁抜け男」は劇団四季により日本でも上演された。来日も多く、昨年7月の東京公演でも華麗なピアノ演奏を披露した。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20190126-118-OYT1T50060

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    2. ミシェル・ルグランさん死去…86歳 「シェルブールの雨傘」作曲
      2019年1月27日5時0分

       【パリ=作田総輝】AFP通信は26日、フランスを代表する作曲家ミシェル・ルグラン氏が死去した、と報じた。86歳だった。広報担当者が明らかにした。ミュージカル映画「シェルブールの雨傘」などの映画音楽をはじめ、ジャズ、クラシック、ポップスと縦横無尽に活躍。日本の音楽家にも大きな影響を与えた。

       パリ生まれ。父親も音楽家で、幼少期からピアノに親しんだ。パリ国立高等音楽院でクラシックの教育を受け、若くして映画音楽の仕事にかかわり、優美で気品ある旋律の楽曲は高い評価を得た。スティーブ・マックイーン主演の米映画「華麗なる賭け」の主題歌「風のささやき」で米アカデミー賞を獲得したほか、「ロシュフォールの恋人たち」や「おもいでの夏」などの音楽も手がけた。

       ジャズピアニストとしても知られる。ジャズのアルバムには、マイルス・デイビスらが参加した。

       親日家で、手塚治虫原作の映画「火の鳥」の主題曲を手がけたほか、歌手の森山良子さんとも共演した。作曲を担当したミュージカル「壁抜け男」は劇団四季により日本でも上演された。来日も多く、昨年7月の東京公演でも華麗なピアノ演奏を披露した。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20190127-118-OYTPT50050

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    3. 追悼 ミシェル・ルグランさん…天賦の才と不断の努力 村井邦彦
      2019.2.7

       半世紀に近い交友を持ったミシェル・ルグランの死は僕にとって重いものだ。1971年の初来日の折に、僕の仕事場だった東京・三田東急アパートの一室で、ミシェルは声をあげて歌いながら作曲していたことを思い出す。ピアノがある部屋で仕事をしたいというので、僕の仕事場を提供したのだ。それ以来パリ、ロサンゼルス、東京などで食事をしながら音楽の話をしてきた。


       最後に一緒に食事をしたのは10年ほど前のことで、松濤しょうとうの僕のアパートで森山良子さんなど音楽仲間と一緒だった。その時、僕は書きかけていた曲をピアノで弾いてミシェルに聞かせたのだが、ミシェルはピアノのそばに来て「メロディーを歌わなきゃだめだよ」と言った。音楽は歌なのだということを再び教えてくれたのだ。

       映画「シェルブールの雨傘」の音楽をはじめ、ミシェルの実績は言うまでもなく偉大なものだ。その偉大さを分析すると3つのことが考えられる。

       1番目は受けた教育だ。名教師ナディア・ブーランジェがミシェルを鞭むち打つように、西洋音楽のすべてを教え込んだ。ミシェルは15歳から20歳になるまで遊ぶ時間がまったくなかったという。ナディアの教育が厳しかったおかげで、苦もなく作曲に打ち込めるようになったと自伝に書いている。努力の意味を叩たたき込まれた。

       2番目は、編曲者、指揮者としてモーリス・シュバリエやエディット・ピアフと共演した経験だ。フランス文化の粋を身につけた。3番目はジャズだ。ジャズの持つ即興性を大事にした。

       60年以上にわたって、絶え間なく、作曲、録音、コンサート、ジャズ演奏を続けてきた。晩年になって、ナディアの願いどおりクラシックのバレエ曲、チェロ協奏曲、ピアノ協奏曲などの作品を完成させた。天がミシェルに与えた才能を最後の一滴まで使い切っての死だった。尊敬の念はつのるばかりだ。(むらい・くにひこ=作曲家)

       

       歌手・森山良子さんのコメント

       昨年、ブルーノートの楽屋でお会いした時、共に過ごした日々を懐かしく思い出しました。音楽に真摯しんしに向かう姿勢は変わりませんでした。「今もプラクティス(練習)しているか?」と尋ねられました。大好きな、偉大なるミシェル・ルグランと沢山たくさんのライブで共に歌った時間は、私の人生の宝物です。きっと天国でもピアノを弾いていることでしょう。
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/20190206-OYT8T50143/

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  69. 世界的指揮者 アンドレ・プレヴィン氏死去
    2019年3月1日 5時15分

    世界的な指揮者として知られ、NHK交響楽団の首席客演指揮者もつとめたアンドレ・プレヴィンさんが、28日、アメリカ ニューヨークで亡くなりました。89歳でした。

    アンドレ・プレヴィンさんは、1929年、ドイツのベルリンで生まれ、1939年に家族とともにナチスの迫害を逃れて、アメリカ ロサンゼルスに渡りました。

    若くしてジャズピアニストとして頭角を現すとともに、ハリウッドの映画音楽の作曲を手がけ、オードリー・ヘップバーンが主演した「マイ・フェア・レディ」などでアカデミー賞を4度受賞しました。

    また、フランス人指揮者、ピエール・モントゥーに師事して指揮を学び、1968年からロンドン交響楽団の首席指揮者をつとめるなど、世界各国のオーケストラでタクトを振ってきました。

    プレヴィンさんは、2009年から3年間、NHK交響楽団の首席客演指揮者をつとめ、東日本大震災後にはニューヨークで犠牲者を追悼する曲の指揮もしています。

    プレヴィンさんは、28日、ニューヨーク・マンハッタンの自宅で亡くなったということです。

    プレヴィンさんが50年以上、指揮をしてきたロンドン交響楽団は、「ピアニスト、指揮者、作曲家として、ジャズ、クラシック、そして、映画音楽、どの分野でも秀でていた。今後も愛情を持って記憶され続けるだろう」とするコメントを出しました。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190301/k10011832301000.html

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    1. 米指揮者のA・プレビン氏死去
      作曲家・ピアニスト

      2019/3/1 10:37
      ©一般社団法人共同通信社

      死去したアンドレ・プレビン氏(ゲッティ=共同)

       【ニューヨーク共同】米国を中心に活動したピアニストで作曲家、指揮者のアンドレ・プレビン氏が2月28日、ニューヨーク・マンハッタンの自宅で死去した。89歳。死因は不明。米メディアが伝えた。

       1929年、ベルリンで裕福なユダヤ人家庭に生まれたが、ナチスによる迫害から逃れるため家族でドイツを離れ、39年にロサンゼルスに移住。ジャズピアニストとして頭角を現す一方、ハリウッドで映画音楽の作曲や編曲を手掛け、オードリー・ヘプバーン主演の「マイ・フェア・レディ」(64年)などでアカデミー賞を4度受賞した。
      https://this.kiji.is/474019193093276769

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  70. ボサノバの父 ジョアン・ジルベルト氏死去
    2019年7月7日 9時00分

    「ボサノバの父」とも呼ばれた歌手のジョアン・ジルベルトさんが、6日、亡くなりました。88歳でした。

    これはジルベルトさんの息子で音楽家のマルセロ・ジルベルトさんが6日、フェイスブックで明らかにしたものです。

    ブラジル出身のジョアン・ジルベルトさんは、いまから60年余り前に収録された「想いあふれて」という曲で、一躍、人気歌手となりました。

    この曲は、ブラジル発祥の音楽「ボサノバ」の始まりとされ、その後、ボサノバは、世界的に人気が広がりました。

    また1964年発表のアルバム「ゲッツ/ジルベルト」に収録された「イパネマの娘」はアメリカ音楽界最高の栄誉とされるグラミー賞の最優秀レコード賞を受賞し、ボサノバの不朽の名曲となりました。

    ジルベルトさんはボサノバの誕生から50年を記念して2008年に開かれた催しで歌声を披露しましたが、その後は体調を崩し、ステージに立つことはありませんでした。

    ブラジルの公共放送はジルベルトさんがリオデジャネイロの自宅で亡くなったと伝えています。88歳でした。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190707/k10011985191000.html

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    1. 「イパネマの娘」…ボサノバで旋風、ジルベルトさん死去
      3 時間前

       【リオデジャネイロ=田口直樹】ブラジルのメディアによると、ボサノバ音楽の創始者の一人として知られるブラジルの歌手ジョアン・ジルベルトさん(88)が6日、リオデジャネイロの自宅で死去した。死因は不明だが、数年前から体調を崩していた。

       1950年代後半、作曲家のアントニオ・カルロス・ジョビンらとともに生み出した音楽はポルトガル語で「新しい傾向」を意味するボサノバと呼ばれ、60年代に世界的な旋風を巻き起こした。

       代表曲には「想おもいあふれて」や「イパネマの娘」などがあり、米国のサックス奏者スタン・ゲッツとのアルバム「ゲッツ/ジルベルト」は米グラミー賞に輝いた。
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/20190707-OYT1T50099/

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    2. ヒットを狙うのに、英語でいくか、ポルトガル語でいくか、の葛藤…

      「イパネマの娘 アストラッド ジルベルト 英語」
      https://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%A4%E3%83%91%E3%83%8D%E3%83%9E%E3%81%AE%E5%A8%98+%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%89+%E3%82%B8%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88+%E8%8B%B1%E8%AA%9E

      「ボサノヴァ ポルトガル語 ジョアン・ジルベルト」
      https://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%9C%E3%82%B5%E3%83%8E%E3%83%B4%E3%82%A1+%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%AC%E3%83%AB%E8%AA%9E+%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88

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    3. 音楽は売れるかどうかよりも、「魂」のほうが大事…

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    4. 感情を揺さぶる「何か」がなかったら、人の心には届かない。

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    5. 【訃報】“ボサノヴァの神様” ジョアン・ジルベルトが死去
      https://www.2nn.jp/word/%E3%82%B8%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88

      https://news.yahoo.co.jp/search/?ei=UTF-8&p=%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%A2%E3%83%B3+%E3%82%B8%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88

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    6. 小野リサさん「ジョアンの魂を受け継ぐ」 追悼の談話
      7/7(日) 22:01配信 朝日新聞デジタル

       「ボサノバの神様」と言われ、6日に死去したジョアン・ジルベルト氏と親交があり、「ジョアンに捧ぐ」という曲を作ったボサノバ歌手の小野リサさんが、追悼の談話を寄せた。全文は次の通り。

       今朝、ブラジルの友人から連絡が来て、知りました。

       一心に、とても純粋に音楽を追究していた方でした。88歳というご年齢でお亡くなりになられて、とても残念に思うとともに、安らかにお眠りいただきたいと願っております。

       私だけではなく、ブラジルのボサノバを演奏する人たちは、その存在をとても大切に思っていたと思います。ボサノバというスタイルを確立した方で、私の音楽の軸となった方でもあり、とても尊敬しています。

       一番最初は電話で、リオデジャネイロと日本とでお話しさせていただきました。日本に公演でいらしたときにも電話をくださり、日本のオーディエンスの素晴らしさを語ってくださいました。「日本は素晴らしい」と何度も言っていました。

       (私がブラジルで)たまたまお金の両替でホテルに入ったとき、その前日に私がテレビで歌ったのを見ていたホテルマンが声をかけて来て、「昨日テレビに出ていた人ですね。ジョアンと話しますか」と言われました。そのホテルにはジョアンが住んでいて、ホテルマンがジョアンと電話をつないでくれました。ブラジルでは誰でも見ている番組でジョアンも見ていたそうで、大変ほめていただきました。「いつか日本に僕も行ってみたい」と話していました。

       いつもとても私をほめてくださるので、その感謝の思いから「ジョアンに捧ぐ」という曲を作りました。彼も(曲を)聴いて、とても喜んでくれました。「歌が生まれるときはとても平和な気持ちになり、心が喜びを感じているときに歌が生まれる」という内容の歌詞で始まり、「ジョアンの音楽を聴くと、自然にとても安らかな気持ちになる」という歌です。

       日本で初めてライブを見させていただいたのは、初来日の東京国際フォーラムでの公演でした。本当に安らかな気持ちになり、客席の全員の心が一つになったような、素敵なひとときでした。

       いつも家で一人でギターを弾いて、外にはあまり出かけず、一曲一曲にたくさんの時間をかけて仕上げていくと聞いていました。ジョアンのスピリットを受け継いで、私もこれからもずっと歌っていきたいと思っています。

       ご冥福を心からお祈りしております。(坂本真子)
      https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190707-00000080-asahi-musi

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  71. 「アントニオ・カルロス・ジョビン」
    https://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%93%E3%83%B3

    Antonio Carlos Jobim 「Wave」
    https://www.google.co.jp/search?q=wave+antonio+carlos+jobim

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  72. “歴史的ソプラノ” ジェシー・ノーマンさん死去
    2019年10月1日 8時44分

    アメリカの人気オペラ歌手、ジェシー・ノーマンさんが30日、敗血症などのためニューヨーク市の病院で亡くなりました。
    74歳でした。

    ジェシー・ノーマンさんはジョージア州オーガスタで生まれ、地元の教会や学校で歌の経験を積み、ラジオでオペラに親しみました。

    首都ワシントンのハワード大学や、ミシガン州のミシガン大学の大学院で音楽の教育を受けたあと、ヨーロッパに渡り、1969年にベルリン・ドイツ・オペラでワーグナーの「タンホイザー」のエリーザベト役を演じて「歴史的なソプラノ」などの高い評価を受け、1972年にはヴェルディの「アイーダ」でイタリア・ミラノのスカラ座で初舞台を飾りました。

    1970年代の中盤から後半はオペラの舞台から遠ざかりますが、80年代に復帰してからは古典から20世紀の作品までを幅広く演じ、世界で最も有名なソプラノ歌手の1人となりました。

    ノーマンさんの歌声はドラマチックで力強いだけでなく伸びやかな高音が特徴で、黒人霊歌やジャズなどのコンサートも開き、1996年に故郷のジョージア州で開かれたアトランタオリンピックの開会式で歌うなど、アメリカを代表する歌手として知られています。

    家族が発表した声明によりますと、ノーマンさんは30日、4年前のけがと関連する敗血症と多臓器不全のため、ニューヨーク市内の病院で亡くなったということです。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191001/k10012106651000.html

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    1. 「ジェシー・ノーマン」
      https://news.yahoo.co.jp/search/?ei=UTF-8&p=%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3

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  73. 米ジャズピアニスト マッコイ・タイナーさん死去
    2020年3月7日 13時19分

    モダンジャズの黄金期を築いたアメリカのジャズピアニスト、マッコイ・タイナーさんが6日死去しました。81歳でした。

    1938年、アメリカ東部のフィラデルフィアで生まれたタイナーさんは、13歳からピアノを習い始め、オルガン奏者のジミー・スミスやトランペット奏者のリー・モーガンら、その後アメリカのモダンジャズの時代をけん引したミュージシャンに囲まれて育ちました。

    タイナーさんは21歳のとき、サックス奏者、ジョン・コルトレーンのバンドメンバーとして加わり、「至上の愛」や映画「サウンド・オブ・ミュージック」の曲をアレンジした「マイ・フェイバリット・シングス」など数々の名演奏を生み出し、このバンドは「黄金のカルテット」と呼ばれるようになり、1960年代、モダンジャズの黄金期を築きました。

    その後もタイナーさんはみずからバンドを率いて、日本など世界各地で演奏活動を続けたほか、多くの作品を発表し続けファンを魅了してきました。

    AP通信などによりますと、タイナーさんは6日、アメリカ、ニュージャージー州の自宅で死去したということです。

    タイナーさんが過去に所属していたアメリカの名門ジャズレーベル「ブルーノート」は、「世界は偉大なジャズピアニストを失った。彼が奏でる音楽が私たちにとっていかに重要であるか、ことばで言い表すことができない」とその死を悼んでいます。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200307/k10012318951000.html

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    1. Ballads / John Coltrane Quartet
      https://www.youtube.com/results?search_query=john+coltrane+ballads

      演奏メンバー
      ジョン・コルトレーン - テナー・サックス
      マッコイ・タイナー - ピアノ
      ジミー・ギャリソン - ベース
      エルヴィン・ジョーンズ - ドラム
      レジー・ワークマン - ベース(on 7.)
      https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%89_(%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%A0)

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  74. 米ジャズピアニスト、エリス・マルサリス氏が新型コロナに伴う肺炎で死去
    2020/04/02 21:37

     AP通信によると、米ジャズピアニストのエリス・マルサリス氏(85)が米ニューオーリンズの病院で1日、新型コロナウイルスに伴う肺炎で死去した。ジャズ界を代表するトランペット奏者、ウィントン・マルサリス氏、サックス奏者のブランフォード・マルサリス氏の父として知られる。2012年、東日本大震災とハリケーン「カトリーナ」の復興支援のため、小曽根真さんとピアノデュオ作品を発表した。(ニューヨーク支局)
    https://www.yomiuri.co.jp/culture/20200402-OYT1T50252/

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  75. リトル・リチャードさん死去 ロックンロールの草分け的存在
    2020年5月10日 6時56分

    アメリカから世界に広がったロックンロールの草分け的な存在で、ビートルズなど多くのロックバンドやミュージシャンに影響を与えたリトル・リチャードさんが9日、亡くなりました。87歳でした。

    これはアメリカメディアがそろって伝えたもので、音楽誌「ローリングストーン」によりますと、リチャードさんが9日にがんのため亡くなったと、息子のダニー・ペニマンさんが明らかにしたということです。

    リトル・リチャードさん(本名リチャード・ウェイン・ペニマンさん)は1932年、アメリカ南部のジョージア州に生まれ、1950年代半ばにデビューしました。

    「のっぽのサリー」や「トゥッティ・フルッティ」などのヒット曲を出し、チャック・ベリーやバディ・ホリーなどとともに、ロックンロールの草分け的存在と言われています。

    ビートルズからプリンスまで、その後の多くのスターがリチャードさんの影響を強く受けたとされています。

    「ローリングストーン」誌は、訃報を伝える記事の中で「派手な衣装と、熱狂的な叫び声、そして当時の音楽の壁を打ち破った、偉大なロックの父だった」と評しています。

    大物ミュージシャンから追悼のコメント相次ぐ

    リトル・リチャードさんが亡くなったことを受けて数々の大物ミュージシャンが追悼のコメントを出しています。

    ビートルズのメンバーだったリンゴ・スターさんはツイッターで「音楽界の永遠のヒーローの1人、リトル・リチャードに神のご加護を。そして家族のみなさんに平和と愛を」とコメントし、リチャードさんとビートルズの4人のメンバーが一緒に写った若いころの写真を載せました。

    ローリング・ストーンズのミック・ジャガーさんは、ツイッターで「とても悲しい。一緒にツアーをしていたとき、毎晩、彼の動きを見てどう観客を楽しませるか学び、彼はいつも惜しみないアドバイスをしてくれた。リチャード、会いたいよ」とコメントし、その死を惜しみました。

    またアメリカのシンガーソングライター、ボブ・ディランさんはツイッターで「幼かったころ、彼は私の輝く星であり、手本だった。もちろん彼は永遠の存在だが、まるで人生の一部が失われてしまったようだ」と喪失感の大きさを表しました。

    さらにイギリスの歌手のエルトン・ジョンさんはツイッターに「彼は、音楽的にも、歌声でも、見せ方でも、間違いなく私に最も大きな影響を与えた。一緒にライブもしたが天国にのぼったような気持ちだった。多くの人に影響を与えたかけがえのない人で、真の伝説だ」などと数回に分けて書き込み、リチャードさんの死を悼みました。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200510/k10012423801000.html

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  76. 映画音楽の巨匠 エンニオ・モリコーネさん死去 91歳
    2020年7月6日 20時16分

    イタリア出身の世界的な作曲家で、映画「ニュー・シネマ・パラダイス」をはじめ、数々の映画音楽を手がけ、アカデミー作曲賞も受賞したエンニオ・モリコーネさんが死去しました。91歳でした。

    エンニオ・モリコーネさんは1928年、イタリアの首都ローマで生まれ、名門の音楽院で学んだあと、作曲家として数多くの映画やテレビの音楽を手がけました。

    映画に魅せられたイタリアの少年と、映写技師との心のふれあいを描いた「ニュー・シネマ・パラダイス」や、アメリカ・シカゴを舞台にギャングと捜査官との闘いを描いた「アンタッチャブル」などの音楽の作曲で知られ、4年前にはアメリカの西部劇、「ヘイトフル・エイト」でアカデミー賞の作曲賞も受賞しています。

    また、2003年にはNHKの大河ドラマ、「武蔵 MUSASHI」のテーマ音楽を担当し、映画音楽の分野で日本とイタリアの交流を深めたことなどから、去年、外国人叙勲で旭日小綬章を受章しました。

    イタリアのコンテ首相は、ツイッターで「私たちは巨匠、モリコーネ氏の芸術的な才能を多くの感謝とともにいつまでも忘れない」と述べて、その死を悼みました。

    地元メディアによりますと、モリコーネさんは数日前に倒れて大たい骨を骨折し、6日未明、入院先のローマの病院で亡くなったということです。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200706/k10012500011000.html

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    1. Ennio Morricone - Deborah's Theme
      https://www.youtube.com/watch?v=-CP_uwRtj0g
      https://www.youtube.com/results?search_query=ennio+morricone+deborah%27s+theme

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  77. トランペット奏者 近藤等則さん死去 71歳
    2020年10月19日 5時35分

    自由な即興演奏で知られ、国内外で活躍したトランペット奏者の近藤等則さんが、17日夜、亡くなりました。71歳でした。

    近藤さんは、愛媛県今治市の出身で、大学在学時からトランペット奏者としてジャズグループで活動し、昭和53年からはアメリカで演奏活動を続けました。

    その後、自身のバンドを日本で結成し、ロックやジャズなど幅広い音楽の要素を取り入れた演奏で高く評価され、ハービー・ハンコックさんや布袋寅泰さんなど国内外の著名なアーティストとも共演を重ねてきました。

    平成5年からは、「地球を吹く」と題した、世界各地の自然の中で即興演奏を行うプロジェクトを始め、イスラエルのネゲブ砂漠やペルーのマチュピチュなどでの演奏はNHKの番組としても放送されました。

    また、世界の平和をテーマにした音楽祭を広島県の厳島神社で開いたり、東日本大震災の翌年には奈良県の東大寺で震災で犠牲になった人たちの追悼のために作った曲をみずから演奏したりするなどしました。

    家族によりますと、近藤さんは18日夜も大阪でライブイベントに出演する予定だったということですが、17日夜に亡くなったということです。

    71歳でした。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201019/k10012670061000.html

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    1. なくなった原因がふせられているけど、メンタルがやられたかなあ、とか余計な疑心暗鬼を生むだけだと思われ…

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  78. ライル・メイズ(Lyle Mays、1953年11月27日 - 2020年2月10日)
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%82%BA

    https://www.google.com/search?q=%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%AB+%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%82%BA

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  79. チック・コリア氏、がんで死去 ジャズ界の巨匠
    2/12(金) 6:55配信 AFP=時事

    米ジャズピアニストのチック・コリア氏(2013年7月20日撮影)。【翻訳編集】 AFPBB News

    【AFP=時事】(更新)米国のジャズ作曲家で、エレクトリックキーボード奏者の草分けであるチック・コリア(Chick Corea)氏が今月9日にがんで死去していたことが、フェイスブック(Facebook)の公式ページで発表された。79歳だった。

     公式ページの発表によると、コリア氏はまれな種類のがんを患っていたことがごく最近になって発覚していた。発表文では、コリア氏が生前に残したメッセージも掲載された。

     同氏は「私と旅を共にし、音楽の火を明るくともし続けることに協力してくれたすべての人に感謝したい。私の願いは、演奏や制作、パフォーマンスなどをしたいという気持ちがある人には、それをしてほしいということ。自分のためでなくとも、ほかの人々のために。世界にはもっとアーティストが必要だというだけでなく、単に本当に楽しいものなのだから」とつづっている。

    「スペイン(Spain)」や「500マイルズ・ハイ(500 Miles High)」、「ラ・フィエスタ(La Fiesta)」といったジャズの名曲を世に送り出したコリア氏は、ハービー・ハンコック(Herbie Hancock)氏やキース・ジャレット(Keith Jarrett)氏と並んで20世紀を代表するピアニストの一人となった。米グラミー賞(Grammy Awards)受賞歴は計23回に上る。【翻訳編集】 AFPBB News
    https://news.yahoo.co.jp/articles/3390718c62d82ea19b5ec7d73b04afb58a525872

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    1. チック・コリアさんが死去 米ジャズピアニストの巨匠
      2/12(金) 7:40配信 共同通信

       【ニューヨーク共同】米ジャズピアニストの巨匠チック・コリアさんが9日、がんのため死去した。79歳だった。公式ホームページなどで11日、明らかにされた。亡くなった場所は不明。

       1941年6月、米東部マサチューセッツ州チェルシー生まれ。60年代からトランペット奏者の故マイルス・デイビスさんらと活動を共にし、ボサノバやクラシックも取り入れた幅広い楽曲を演奏した。日本人ピアニストの上原ひろみさんと日本武道館で共演するなど、晩年まで活躍した。
      https://news.yahoo.co.jp/articles/10102a92e3aca7b37f2531f7a93bec703798463b

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    2. チック・コリア『ぼくの音楽ぼくの宇宙』
      https://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%81%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AA%E3%82%A2+%E3%81%BC%E3%81%8F%E3%81%AE%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E3%81%BC%E3%81%8F%E3%81%AE%E5%AE%87%E5%AE%99

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    3. Chick Corea & Friedrich Gulda: The Meeting
      https://www.google.co.jp/search?q=chick+corea+friedrich+gulda+the+meeting

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    4. Friedrich Gulda plays Gulda: Aria
      https://www.google.co.jp/search?q=friedrich+gulda+aria

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    5. リターントゥフォーエバーからチックに入ったというよりは、グルダからチックに至ったという感じだったかなあ…

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    6. ジャズピアニスト チック・コリアさん死去
      2021年2月12日 11時36分

      ジャズピアニストや作曲家としてロックの要素を取り入れるなど、新たな分野を切り開いたチック・コリアさんが今月9日、がんのため亡くなりました。79歳でした。

      チック・コリアさんは1941年にアメリカ・マサチューセッツ州で生まれ、1960年代にはスタン・ゲッツやハービー・マンなどの有名ジャズミュージシャンとの共演で知られるようになりました。

      その後、ジャズトランペット奏者、マイルス・デイビスのバンドに加入して、フュージョンと呼ばれる音楽ジャンルの先駆けといわれる「イン・ア・サイレント・ウェイ」といった複数のアルバムの録音に参加しました。

      この頃からジャズに電子楽器を積極的に取り入れ始め、1971年に結成したバンド「リターン・トゥ・フォーエヴァー」は「ジャズ・ロック」と呼ばれる音楽の中心的な存在として、ジャズやロックのアーティストに大きな影響を与えました。

      その後も、作曲家やバンドリーダーとしてジャズの枠にとらわれない作品を次々と発表し、アメリカ音楽界で最高の栄誉とされるグラミー賞をこれまでに23回、受賞しています。

      コリアさんは去年3月まで演奏活動を行っていましたが、最近になってがんが見つかり、今月9日、亡くなったということです。

      コリアさんのウェブサイトにはコリアさんが生前に残した「音楽の炎を燃やし続ける旅路を支えてくれたすべての人に感謝します」というメッセージが掲載されています。
      https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210212/k10012862131000.html

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    7. そんなに分厚くない、チックの著作(翻訳本)が1冊あったはずなんだが、物置をあさっても見つからん… キースの分厚いデカい本はあった。(たぶんつんどく本だったはず)

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    8. Crystal Silence
      https://www.google.com/search?q=chick+corea+gary+burton+crystal+silence

      https://www.youtube.com/results?search_query=chick+corea+gary+burton+crystal+silence

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    9. チック・コリア氏死去 米ジャズピアノの巨匠、79歳
      2/12(金) 6:55配信 時事通信

      米ジャズピアニストのチック・コリア氏(EPA時事)

       【ニューヨーク時事】ジャズにロックやラテン音楽などを融合させるフュージョンの先駆者として知られる米ジャズピアニストの巨匠チック・コリア氏が9日、死去した。

       79歳だった。本人の公式フェイスブックで11日公表された。最近になって「珍しい型のがん」が見つかったという。

       東部マサチューセッツ州出身。幼少期からピアノやドラムを習い、ニューヨークのジュリアード音楽院に進学し、1960年代から演奏活動を始めた。トランペット奏者の故マイルス・デイビスのグループに参加。アルバム「イン・ア・サイレント・ウェイ」「ビッチェズ・ブリュー」でエレクトリックピアノを担当し、2作はフュージョンの先駆けとなった。

       70年代にバンド「リターン・トゥ・フォーエバー」を結成。今でも世界中でカバーされている「スペイン」などを作曲した。テナーサックス奏者の故スタン・ゲッツらと共演し、ジャズピアニストのハービー・ハンコック氏とライブ盤もリリースした。米音楽界最高の栄誉とされるグラミー賞を計23回受賞した。

       日本のジャズピアニスト、上原ひろみさんや小曽根真さんらとの共演でも知られ、近年まで来日公演を行っていた。 
      https://news.yahoo.co.jp/articles/2b7e8b7c595feacce99503b5facf9213b8b34667

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    10. ジャズピアニストの巨匠チック・コリアさん死去 上原ひろみ「受け入れるには時間がかかります」
      2/13(土) 6:00配信 スポーツ報知

       米ジャズピアニストの巨匠チック・コリアさんが9日、死去した。79歳だった。公式ホームページなどで11日に明らかになった。

       同ページによると、死因は「ごく最近見つかった珍しい形態のがん」としている。米メディアは南部フロリダ州タンパの自宅で亡くなったと伝えた。

       コリアさんは1941年6月、米東部マサチューセッツ州チェルシー生まれ。4歳でピアノを習い始め、60年代後半にトランペット奏者、マイルス・デイビスさん(享年65)の名盤「イン・ア・サイレント・ウェイ」「ビッチェズ・ブリュー」に参加。デイビスさんの説得で電子ピアノも演奏するようになり、ボサノバやクラシックも取り入れたフュージョンというジャンルを確立した。70年代にはバンド「リターン・トゥ・フォーエヴァー」で活躍し、「スペイン」は世界的なヒットとなった。

       2006年に米ジャズ界最高の栄誉とされる国立芸術基金(NEA)ジャズマスターズ賞を受賞。グラミー賞には今年3月の発表分も含め67回ノミネートされ、23回受賞した。NEAはコリアさんを「ハービー・ハンコック氏やキース・ジャレット氏と並ぶ卓越したピアニストの一人」と評した。

       40歳近く離れたピアニストの上原ひろみ(41)とはたびたび共演し、08年1月に連名のアルバム「デュエット」を発表。同年4月に日本武道館でピアノデュオ公演を披露するなど、晩年まで活躍した。コリアさんはホームページに「私と旅路を共にし、音楽を明るく燃やし続けるのを支えてくれた全ての人に感謝したい」というメッセージを残した。

       ■上原ひろみ「言葉が思いつきません」

       〇…上原は「(訃報は)あまりに突然で、このニュースを受け入れられる状況になく、何も言葉が思いつきません」とのみコメント。17歳の時、都内のレッスンスタジオを偶然訪れたコリアさんの前で演奏を披露。絶賛されると、翌日のコンサートで壇上から名前を呼ばれ、共演した逸話がある。後の米留学、デビューにつながる契機を与えられた存在だけに「まだ受け入れるには時間がかかります。ご容赦ください」と文面に悲しみをにじませた。
      https://news.yahoo.co.jp/articles/351620b103181bfa50c33092f9d564101a2cd5d9

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    11. 【追悼】「リズム好き」が生んだピアノへの情熱 ジャズ界の巨匠 気さくだった素顔 チック・コリアさん
      2/13(土) 18:01配信 時事通信

      「自分が楽しいと思うことをやって生活ができて、世界各国を回れる。何と恵まれた人生なのかと思います」と語るチック・コリアさん=2019年4月、東京都内

       米国出身の世界的なジャズミュージシャン、ピアニストで「スペイン」などの楽曲でも知られるチック・コリアさんが2月9日に79年の生涯を閉じた。

       幾度となく来日公演を開催し、生前のインタビューでは「日本のファンは演奏に礼儀を払って聴いてくれる」と話していた。その素顔はダイナミズムと優美さを兼ね備えた演奏同様、内に熱い情熱を秘めた穏やかなジェントルマンだった。(時事通信社編集委員・小菅昭彦)

       1941年生まれ。ジャズミュージシャンを父親に持ち、自身も幼い頃からピアノを始めた。数多くの有名ミュージシャンを輩出したジュリアード音楽院で学び、プロの世界に。ジャズをベースにしつつ、クラシックやロック、ラテンなどの要素も交えたクロスオーバーなサウンドで人気を呼んだ。

       本人いわく「もともとリズムが好き」で、ピアノに引かれたのも「弦楽器でもありながら、指でたたいて音を出すドラム的な要素を持っていたから」。「やり方によっては打楽器のような激しい音もモーツァルトのコンチェルトのようにリリカルな音も出せるし、歌うようなサウンドを出すことも可能。ピアノは全てを網羅できる楽器だと思う」とその魅力を熱く語っていた。

       一つのパターンにははまらず、多彩なサウンドを追求したのは「演奏するうちにお客さんの好みが千差万別であることに気づいたから」だった。「僕も一つのスタイルだけではなく、いろんな可能性に挑戦しようと思った」。ラテンバンドと出会い、彼らの音楽に対するオープンな姿勢や底抜けの明るさに触れたことも、音楽に対する柔軟な姿勢を培うことにつながったと述懐していた。

       プロとして50年以上のキャリアを築いたが、音楽そのものに対する思いは常に一貫していた。「技術や社会、政治的な変化はあっても、『何かを生み出したい』という内なる欲求や、音楽への愛、僕を音楽作りにかき立てるモチベーションは昔と全く変わっていない。いつも自分が音楽を創造する喜びを伝えたいと思って演奏している」と話していた。

       そんな人生哲学が、若々しさにも反映していたのだろう。筆者の取材時(2019年4月)には77歳だったが、その年の夏に開かれた「東京JAZZ」では、アコースティックとエレクトリックの二つのバンドを率いて登場、年齢を感じさせないパワフルな演奏を披露していた。それだけに、突然の死は信じられない思いだ。

       「大切なのはエンターテイナーと観客の間の生身の関係」と言い、ライブをこよなく愛した。理想は「お客さんとのコミュニケーションを取れるような形のライブ」で、演奏の際は自分の視界を遮るスポットライトは極力弱めて観客の姿が見えるように配慮していると教えてくれた。

       インタビューへの応対は終始にこやか。世界的アーティストの威圧感などは全く感じさせなかった。写真撮影では少々おどけたポーズの注文にも気さくに応じるなど、サービス精神も満点。別れ際の「僕に興味を持ってくれてありがとう」との言葉からは謙虚な人柄がうかがえた。ご冥福を祈りたい。 
      https://news.yahoo.co.jp/articles/02183405627eb10208b50af7284d3c16d9fa74d7

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    12. チック・コリア氏を悼む…小曽根真 ピアノ2台 即興演奏の思い出 
      2021/03/06 05:00

       突然の訃報ふほうに、今も呆然ぼうぜんとしている。今年秋には彼の80歳を祝う日本ツアーで共演する計画が進んでいただけに、それがかなわぬことが無念でならない。

       初めて会ったのは、僕が米バークリー音楽大学の学生だった1982年。大学主催コンサートの第1部で僕ら学生バンドが、第2部でチックが演奏することになっていた。会場でリハーサルをしていると、彼が現れ、「ピアノの調子はどう?」と聞くので、恐縮して、「弾いてみてください」と場所を譲ると、「いや、君の意見が聞きたいんだ」。

       この出会いが象徴するように、コミュニケーションを大切にし、発した言葉を正面から受け止めてくれる人だった。一緒に演奏していても、そういった音の会話をともに楽しもうとしていた。

      2018年10月のデュオ公演でのチック・コリア(右)と小曽根真(写真・樋川智昭/住友生命いずみホール提供)

       卒業後、僕はビブラフォン奏者のゲイリー・バートンのバンドに加入したが、ゲイリーとチックが親しかったこともあり、交流は続いた。96年に東京都内で開かれたジャズ・フェスティバルを手始めにたびたび共演する機会に恵まれ、家族ぐるみでつきあうようになった。家庭に問題を抱えた時には、親身になって相談に乗ってくれ、様々なアドバイスをもらった。でも決して「こうしなさい」と押しつけるようなことは言わない。本当に助けられたと思う。

       2002年、僕のアルバム「トレジャー」に参加してもらった。2台のピアノを置いたスタジオで、チックは「ゲームをしよう」と言って、何の打ち合わせもないまま、ピアノを弾き始めた。あとはお互いの紡ぐフレーズに触発されながら、即興演奏を続けるだけ。同アルバムには予定されていた2曲を収めたが、この即興をお蔵入りさせるのはもったいない。チックとの共演曲を集めた16年の「チック&マコト」に収録した。

       「音楽は自分の映し鏡」という哲学を持っていた。自身の奥底からにじみ出るものしか音にならない。だから音楽家は内面と真剣に向き合わなくてはならない。そんなことを丁寧に語ってくれたこともあった。

       1960年代から活動を始め、70年代にはフュージョン路線を先導し、ジャズを進化させた改革者。それ以上に、数々の珠玉の名曲を生み出した作曲家としての才にひかれる。僕自身、影響や刺激を受けたし、「スペイン」は多くの音楽家にカバーされている。その偉業に圧倒される。

       幻に終わった共演に代わり、追悼公演ができないか、考えている。ありがとう。どうぞ、やすらかに。そんな思いを込めて。(ジャズピアニスト、談)
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/20210305-OYT8T50102/

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  80. 世界的ソプラノ歌手 グルベローバさん死去 夜の女王役で抜てき
    2021年10月20日 9時27分

    華やかな歌声で半世紀にわたって世界的なソプラノ歌手として活躍したエディタ・グルベローバさんが亡くなりました。74歳でした。

    旧チェコスロバキア出身のグルベローバさんは、ブラチスラバで音楽を学び、1968年にデビューしました。

    その2年後にはウィーン国立歌劇場で上演されたモーツァルトの「魔笛」の夜の女王役に抜てきされ、「コロラトゥーラ」と呼ばれる華やかで技巧的な旋律で、世界にその名を知られるようになりました。

    その後、半世紀にわたって世界的なソプラノ歌手として各国で公演を繰り返し、日本もたびたび訪れて多くのファンを集めてきました。

    グルベローバさんが所属していたドイツの事務所などによりますと、74歳だったグルベローバさんは18日、スイスのチューリヒで亡くなったということです。

    グルベローバさんが700回以上舞台に立ったウィーン国立歌劇場は、ホームページで訃報を伝え「オペラ界の伝説を失った」とその死を悼んでいます。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211020/k10013314221000.html

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  81. オランダの世界的指揮者 ベルナルト・ハイティンクさん死去
    2021年10月23日 4時04分

    オランダの世界的な指揮者で、日本でも公演を重ねたベルナルト・ハイティンクさんが21日、自宅で亡くなりました。92歳でした。

    指揮者のベルナルト・ハイティンクさんは、1929年にオランダのアムステルダムで生まれ、ヨーロッパを代表するオーケストラの一つ、ロイヤル・コンセルトへボウ管弦楽団の首席指揮者を長年務めました。

    また、イギリス ロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスの音楽監督や、アメリカのシカゴ交響楽団の首席指揮者なども歴任し、世界的な指揮者として知られていました。

    ハイティンクさんは1962年以降、日本でも公演を重ね、2003年には、若手音楽家の育成を目的に北海道札幌市で開かれた国際的な音楽祭に参加し、指導にあたりました。

    ハイティンクさんは、おととしスイスで行われた音楽祭で公演したのを最後に引退していましたが、ロンドンの音楽事務所によりますと、21日、ロンドン市内の自宅で家族にみとられて亡くなったということです。

    92歳でした。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211023/k10013318281000.html

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  82. ギリシャ出身の音楽家バンゲリス氏死去「南極物語」など作曲
    2022年5月20日 12時31分

    映画「南極物語」や「炎のランナー」の音楽を手がけたことで知られるギリシャ出身の音楽家、バンゲリスさんが17日、亡くなりました。
    79歳でした。

    バンゲリスさんは、1967年にギリシャで起きたクーデターを機にフランスのパリに移住して音楽活動を本格化させ、当時まだ新しかったシンセサイザーを活用して注目を集めました。幻想的で印象に残る豊かな曲調が特徴で、映画「炎のランナー」で音楽を手がけてアカデミー賞の作曲賞を受賞しました。

    また、俳優の高倉健さんが出演した映画「南極物語」や、SF映画の名作「ブレードランナー」でもそれぞれ音楽を担当したほか、2002年のサッカー日韓ワールドカップで公式アンセムを作曲しました。

    事務所によりますと、バンゲリスさんは17日の夜、亡くなったということです。79歳でした。

    詳細は明らかにされていませんが、複数の海外メディアはフランスで新型コロナウイルスの感染症の治療を受けていたと伝えています。

    ギリシャのミツォタキス首相は、自身のツイッターに、「バンゲリス氏はエレクトロニック音楽の先駆者だった」と投稿し、功績をたたえました。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220520/k10013634761000.html

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  83. ボン・ジョヴィ創設メンバー ベーシスト サッチ氏 死去
    2022年6月6日 15時06分

    アメリカを代表するロックバンドの1つ、「ボン・ジョヴィ」の創設メンバーでベーシストとして活躍したアレック・ジョン・サッチさんが亡くなりました。70歳でした。

    サッチさんは、アメリカ ニューヨーク州出身で「ボン・ジョヴィ」の創設メンバーとして、1983年からベーシストとして活躍しました。

    サッチさんが所属していた1980年代後半から90年代にかけて、バンドは日本を含め、世界的に絶大な人気を博し、代表曲の1つである「リヴィン・オン・ア・プレイヤー」は、全米チャートで1位を獲得するなど、数々の名曲を生み出しました。

    その後、サッチさんは1994年のベストアルバムの発表を最後に脱退しました。

    「ボン・ジョヴィ」のボーカル、ジョン・ボン・ジョヴィさんは5日、公式のSNSに「親愛なるアレックが亡くなったと聞き、悲しみに満ちています。アレックは創設メンバーとしてバンドの結成には不可欠な存在でした」などと投稿し、追悼しました。

    サッチさんの死因や亡くなった日など、詳しいことは明らかにされていません。

    サッチさんは、70歳で亡くなりました。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220606/k10013659701000.html

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  84. 歌手のオリビア・ニュートンジョンさん死去 73歳
    2022年8月9日 5時38分

    「そよ風の誘惑」や「フィジカル」などの代表曲で知られる歌手のオリビア・ニュートンジョンさんが亡くなりました。73歳でした。

    オリビア・ニュートンジョンさんは1948年にイギリスで生まれ、移住したオーストラリアで友人らと音楽活動を始め、その後、ソロでも活躍しました。

    透明感のある伸びやかな歌声が特徴で、「そよ風の誘惑」や「愛の告白」、それに「フィジカル」などのヒット曲を次々と発表し、グラミー賞を4度、受賞しています。

    また、映画にも出演して女優としても活躍したほか、日本の音楽文化の発展と友好親善に貢献したとして、去年秋には旭日小綬章を受章しています。

    一方で、ニュートンジョンさんは30年以上にわたって乳がんで闘病していて、早期発見の重要性を訴える啓発活動なども行っていたということです。

    本人のSNSに投稿された親族の発表によりますと、ニュートンジョンさんは8日朝、家族や友人に見守られる中、亡くなったということです。

    73歳でした。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220809/k10013760931000.html

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  85. ポップスの巨匠 米作曲家 バート・バカラックさん死去 94歳
    2023年2月10日 14時49分

    1960年代から70年代を中心に「雨にぬれても」などのヒット曲を手がけ、ポップスの巨匠として知られたアメリカの作曲家、バート・バカラックさんが今月8日、ロサンゼルスの自宅で老衰で亡くなりました。94歳でした。

    AP通信などアメリカの複数のメディアによりますとバート・バカラックさんは1928年、アメリカミズーリ州のカンザスシティーで生まれニューヨークで育ち、母の影響でピアノを学びました。

    音楽業界に入ったあとは、カーペンターズの楽曲やミュージカル「プロミセス・プロミセス」の楽曲など500以上の作品を手がけました。

    このうち、アメリカの西部劇の名作「明日に向って撃て!」の挿入歌、「雨にぬれても」では、アカデミー賞を受賞するなど、アカデミー賞を3回受賞しました。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230210/k10013977251000.html

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  86. ジャズサックス奏者のウェイン・ショーターさん死去、89歳…フュージョンの先駆者
    2023/03/03 12:15

     【ニューヨーク=金子靖志】米国の世界的ジャズサックス奏者のウェイン・ショーターさんが2日、ロサンゼルスの病院で死去した。89歳だった。複数の米メディアが伝えた。

     ニュージャージー州出身。1959年、名ドラマー、アート・ブレイキー率いるジャズ・メッセンジャーズに加わり、注目されるようになった。同グループの一員として来日も果たした。

     64年にトランペット奏者、マイルス・デイビスのグループに参加。「ESP」「ピノキオ」など名曲を提供するとともに、60年代後半には電気楽器を導入したアルバム「イン・ア・サイレント・ウェイ」などで、ジャズの新しいスタイル作りに貢献した。

     70年代に入ると、キーボード奏者のジョー・ザビヌルとともにウェザー・リポートを結成。ラテンやアフリカ音楽の要素を取り入れたフュージョン路線を歩み、「ヘビー・ウェザー」などのアルバムをヒットさせた。

     陰影をたたえた神秘性と肉感的な躍動感を併せ持つ自在な演奏スタイルが人気を集め、作曲家としても高く評価される。ソロとしてもブラジル音楽に接近した「ネイティブ・ダンサー」、正統的なジャズ作品「アレグリア」など多彩なアルバムを重ね、グラミー賞をのべ12回獲得している。

     日本のファンも多く、80代になっても、たびたび来日公演も行った。
    https://www.yomiuri.co.jp/culture/music/20230303-OYT1T50069/

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    1. ジャズ界の巨匠 ウェイン・ショーターさん死去 89歳
      2023年3月3日 11時01分

      ジャズの即興演奏での多彩な表現に加え、新しい音楽の創造にも貢献した、アメリカのサックス奏者で作曲家のウェイン・ショーターさんが亡くなりました。89歳でした。

      1933年に、アメリカ東部のニュージャージー州で生まれたショーターさんは、1960年代、当時のジャズ界をけん引していたトランペット奏者マイルス・デイビスのバンドに参加したことで注目を集め、サックス奏者として、ジャズの即興演奏での表現の幅を広げていきます。

      そして、1970年代から1980年代には、フュージョンと呼ばれる音楽ジャンルを代表するグループ、「ウェザー・リポート」のメンバーとして活躍します。

      ロックやラテン音楽の要素を導入したサウンドは大きな注目を集め、グループは、アメリカ音楽界で最高の栄誉とされるグラミー賞も受賞します。

      その後も、ショーターさんはジャズ界の巨匠の1人として、世界各地で演奏を続け、日本での公演もたびたび行っていましたが、2日、ロサンゼルスで亡くなりました。89歳でした。

      マイルス・デイビスのバンドで一緒に演奏していたピアニストのハービー・ハンコックさんは、ソーシャルメディアに「彼はサックス奏者、作曲家として頂点にいました。寂しさを感じています」などと投稿しています。
      https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230303/k10013996941000.html

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    2. 渡辺貞夫さん「よく飲み明かした、本当に寂しい」…ウェイン・ショーターさん死去
      2023/03/03 18:22

      長年の盟友、ウェイン・ショーターの死去を悼んだサックス奏者の渡辺貞夫さん

       ジャズサックスの巨匠、ウェイン・ショーターさんが2日に死去したことを受け、サックス奏者の渡辺貞夫さん(90)は「1960年代の米国留学時に仲良くなり、留学先のボストンで公演があると彼は僕のアパートを訪れ、よく飲み明かした。普段は寡黙だが酒が入ると陽気になり、踊り出すこともあった」と振り返った。

      ジャズサックス奏者のウェイン・ショーターさん死去、89歳…フュージョンの先駆者

       80年代にはロックバンドのサンタナのコンサートに2人で飛び入りし、吹きまくった思い出もあるという。

      ウェイン・ショーターさん(AP)

       「曲作りの才にも、はっとする魅力的な演奏にも憧れていただけに、本当に寂しい」と、渡辺さんは悲痛な思いを語った。
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/music/20230303-OYT1T50181/

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    3. [追悼抄]唯一無二 ジャズに新風 ウェイン・ショーターさん ジャズ・サックス奏者…3月2日死去、89歳
      2023/04/20 15:00

       正統派ジャズからフュージョンまで、大きな足跡を残した巨匠だった。

       1959年に名ドラマー、アート・ブレイキー率いるジャズ・メッセンジャーズに加わり、注目されるように。作編曲もこなしバンドの中核的存在となり、和音進行に縛られない自由度の高い「モードジャズ」を導入した。64年にマイルス・デイビス(トランペット)のグループに参加し、「ESP」「ピノキオ」など名曲を提供。60年代後半には電気楽器を導入したデイビスの新たなジャズ創造に一役買った。

      日本公演の際、楽屋を訪ねた渡辺香津美さんと(1998年頃撮影)

       70年代にジョー・ザビヌル(キーボード)らと結成したウェザー・リポートでは、アフリカ音楽やラテン音楽などの要素を取り入れたフュージョン路線で絶大な人気を誇った。86年の解散後は主にソロとして活動。正統的なジャズを軸に、「アレグリア」など多くのアルバムを出した。先進性と大衆性を両立し、ジャズの表通りを歩んできた。

       60年代に留学先の米国でショーターさんと親交を持つようになったのが、サックス奏者の渡辺貞夫さん(90)。「僕の住むボストンで公演があると、アパートまで遊びに来て、夜通し酒を飲んだ。普段は寡黙だが、酔うと陽気になりよく踊り出していたよ」と語る。ある日、「君の曲を演奏したいので、何か書いてくれ」と電話がかかってきた。「日本橋」という曲を作って送ると、ジャズ・メッセンジャーズのコンサートで演奏してくれた上、その後出たアルバム「キョート」にも収録された。

       ギタリストの渡辺香津美さん(69)は、ショーターさんの音楽から多大な影響を受けた。「マイルスのグループの時代から追いかけていましたが、音の空間を生かした深遠な演奏は唯一無二。ウェザー・リポートのデビュー作を聴いた時には、ジャズはここまで来てしまったのかと驚くばかりでした」

       自分もその域に達したいと自身の音楽を突き詰めていた70年代半ば、旅先の飲食店で流れたショーターさんのソロ作「ネイティヴ・ダンサー」に、またもや音楽観を揺さぶられた。「まさに楽園のイメージ。自らの音楽を追究する過程で、音楽本来の楽しさや解放感を忘れていたことに気づかされたのです」

       いずれは共演したい。その願いは89年の自身のアルバム「キロワット」で実現した。2曲に参加してもらったのだ。「サックスだけ別 録ど りでしたが、曲を聴かせ、楽譜を見せると、ノートを取り出し、何かを書き連ねる。自分以外はわからない記号のようなものですが、それで納得したようにスタジオに入り、ソロを吹き始める。彼の演奏は、あのアルバムに歓喜の光を加えてくれました」と振り返った。(編集委員 西田浩)
      https://www.yomiuri.co.jp/national/20230420-OYT1T50093/

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  87. 「イパネマの娘」歌手 アストラッド・ジルベルトさん死去 83歳
    2023年6月7日 10時22分

    ブラジルの音楽「ボサノバ」の名曲「イパネマの娘」の歌手として知られるアストラッド・ジルベルトさんが亡くなりました。83歳でした。

    これはジルベルトさんの家族が5日、SNSで明らかにしました。

    ブラジル出身のアストラッド・ジルベルトさんは、1940年北東部のサルバドルで生まれました。

    サンバにジャズの要素を加えてボサノバを生み出したことで「ボサノバの父」とも呼ばれたブラジル出身の歌手、ジョアン・ジルベルトさんと結婚し、その後、アメリカに移り住みます。

    1964年ジョアンさんなどとともに発表したアルバムでは、「イパネマの娘」を英語で歌い世界中でヒットとなりました。

    そして、翌年アメリカ音楽界の最高の栄誉とされるグラミー賞の最優秀レコード賞を受賞しました。

    ジルベルトさんの柔らかでささやくような独特な歌声は多くの人に親しまれ、「ボサノバの女王」とも呼ばれました。

    現地のメディアなどによりますと、ジルベルトさんは5日、アメリカ東部ペンシルベニア州フィラデルフィアにある自宅で亡くなりました。

    83歳でした。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230607/k10014092201000.html

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  88. 世界的ピアニスト、マウリツィオ・ポリーニさん死去…82歳
    2024/03/23 23:18

     現代クラシック界を代表するイタリアのピアニスト、マウリツィオ・ポリーニさんが死去した。82歳だった。日本の音楽関係者が23日、明らかにした。

    マウリツィオ・ポリーニ氏(2002年11月15日)

     ミラノに生まれ、10代から国際コンクールで頭角を現した。1960年のショパン国際ピアノ・コンクールで1位となり、卓越した技巧は審査委員長だった大ピアニストのルービンシュタインから称賛された。

     60年代末から本格的な活動を始め、研ぎ澄まされたタッチと楽譜を深く読み込んだ解釈で名声を確立した。レパートリーはバッハ、ベートーベンからショパン、シューマン、ドビュッシーまで幅広く、ブーレーズなど第2次大戦後の現代作品も得意とした。正確無比で優れた録音にも定評があった。

     74年以来、たびたび来日公演を行い、自ら企画したシリーズ演奏会を行うなど多くのファンに親しまれたが、2018年の来日が最後となった。
    https://www.yomiuri.co.jp/culture/music/20240323-OYT1T50184/

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    1. マウリツィオ・ポリーニ氏死去 82歳 伊の世界的ピアニスト
      2024年3月24日 6時31分

      卓越した技術で知られるイタリアの世界的なピアニスト、マウリツィオ・ポリーニ氏が亡くなりました。82歳でした。

      ポリーニ氏はイタリア北部のミラノ出身。

      ミラノの音楽院でピアノを学び、18歳の時には世界で最も権威があるとされる「ショパン国際ピアノコンクール」で審査員の全員一致で優勝しました。

      そのときの審査委員長は「わわれれ審査員の誰よりもうまい」と評しました。

      その後、50年以上にわたってヨーロッパやアメリカなど世界各地で演奏活動を行い、卓越した技術に裏打ちされた正確な演奏で、現代最高のピアニストの1人ともされてきました。

      ポリーニ氏は1974年の日本での初公演以降、たびたび来日していて、2010年には「高松宮殿下記念世界文化賞」を受賞しました。

      また、浮世絵や漆器など、日本文化にも造詣が深いことで知られています。

      地元メディアによりますと、ここ数年は健康状態が悪く、公演をキャンセルすることも相次いでいたということで、23日、自宅で亡くなったということです。

      ポリーニ氏がデビュー以来、160回以上の演奏を行ったミラノのスカラ座は23日、声明を発表し「ポリーニ氏は長年、国際的な舞台の絶対的な主人公であり、ショパンやドビュッシー、ベートーベンなどの作曲家に対する認識を一変させることができる、演奏家だった」と述べて、その功績をたたえました。
      https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240324/k10014400811000.html

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