2024年2月19日

「ウソにもおおいなる腕前が要る。才能のある者ほどこの道を行く。」


《もっとも、日本人は根が正直だから、なんにもないところにウソばなしを作ろうとはしない。かならず何かもっともらしい根拠を探す。はじめからしまいまでのハッタリ尽くしは国民性にあわない。マコトのうえに、或いはマコトと思われている何かのうえに、豪華絢爛のウソを積む。

ウソにもおおいなる腕前が要る。才能のある者ほどこの道を行く。力のかぎり飾りたてる。しかし、架空のハナシをつくる人の宿命は、どれほど綺麗に塗りあげても、まだ加工が足りぬのではないかと不安になることで、これでもかこれでもかと、衣装の重ね着と厚塗りに走るから、つい、やりすぎ、そこから自然に綻びが生じる。

完璧な不在証明(アリバイ)を持つ奴が犯人である。なぜそれほどまでに見事なアリバイが必要なのか。名探偵はそこから推して行く。人間は、どこか欠けているのが常態である。人の世に、完璧、全智全能、文武両道、私行清純、万人あこがれのマト、欠くるところなく傷なく歪みなくマイナス面なし、というような人が奇蹟的にあらわれたら、おつきあいを求めますか。それとも尻に帆かけて逃げだしますかな。富士は遠くから眺めるのがよいという。》

谷沢永一『聖徳太子はいなかった』 p.11-12)
http://koibito.iza.ne.jp/blog/entry/443615/
http://koibito.iza.ne.jp/blog/entry/568221/



聖徳太子はいなかった (新潮新書)

https://www.amazon.co.jp/dp/4101035296/
http://www.amazon.co.jp/dp/4106100622
http://www.shinchosha.co.jp/book/103529/
http://www.shinchosha.co.jp/book/423109/





(書きかけ)






自分が存在しないと信じ込ませるのは悪魔の最大の芸術. 
The greatest trick the Devil ever pulled was convincing the world he didn't exist. 
シャルル・ボードレール "The Generous Gambler" (Feb. 1864).
悪魔 - Wikiquote


バイオテロリズム
www.jsvetsci.jp/05_byouki/prion/pf63.html‎



まったく実在しないものをあたかも存在すると信じ込ませるのは医科様科学手品師衆の最大の幻惑(笑)。



いまや、異次元おカルト国家ニッポンの科学研究界隈は、
ほとんどウソつき競争の様相(笑)。
http://koibito2.blogspot.jp/2016/04/blog-post_19.html




この世はウソでできている
池田清彦/著 
  

TVでは放送されないホンマでっか!? な話。

がん検診、禁煙外来、健康診断、国民皆年金制度、国民皆保険制度、青少年健全育成条例、ダイオキシン法、大麻取締法、大規模地震対策特措法、地球温暖化防止条約、レバ刺し規制……。現代社会は「健康のため」「安全のため」「環境のため」という大義名分を掲げて人びとをだましコントロールする法律や規則であふれている。
https://www.shinchosha.co.jp/book/423109/
http://www.amazon.co.jp/dp/4104231096



財部誠一「役人の仕事は嘘をつき続けること


いまや御用な学者研究者たちの仕事も役人に右倣えしてウソをつき続けること…


>教授は部下に「こういうストーリーだったら良いなあ」という話をする…



(2013年9月29日)(追記9/30)(追記10/4)(追記4/6 2014)

126 件のコメント:

  1. 「豪華絢爛 おおいなる腕前 架空のハナシをつくる人」
    https://www.google.co.jp/search?q=%E8%B1%AA%E8%8F%AF%E7%B5%A2%E7%88%9B+%E3%81%8A%E3%81%8A%E3%81%84%E3%81%AA%E3%82%8B%E8%85%95%E5%89%8D+%E6%9E%B6%E7%A9%BA%E3%81%AE%E3%83%8F%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%82%92%E3%81%A4%E3%81%8F%E3%82%8B%E4%BA%BA
     

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  2. 主役はカモとブタ - Science Portal
    https://www.google.co.jp/search?q=%E4%B8%BB%E5%BD%B9%E3%81%AF%E3%82%AB%E3%83%A2%E3%81%A8%E3%83%96%E3%82%BF
     

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  3. 「本末転倒」には騙されるな 「ウソの構造」を見抜く法
    池田清彦 (著)

    内容紹介
    社会や世間に出ている「本末転倒のウソ」を見抜き、影に隠れている「真実」や「矛盾」を解き明かす。『原発は本当に安上がりなエネルギーだったのか』『地球は温暖化どころか小氷河期に向かっている』『原発事故後、被爆限度を引き上げる政府の厚かましさ』『CT検査でガンになる』 等

    内容(「BOOK」データベースより)
    社会の矛盾に疑問を感じているビジネスマン、経営者、そしてこれから社会に出る学生は、世の中の「本末転倒のウソ」と「ウソの構造」を知っておいたほうがいい。「原発」「エネルギー」「放射能」「医療」「環境問題」「ボランティア」「マスメディア」「道徳倫理」「政府」「官僚」の本当の姿がみえてくる。
    http://www.amazon.co.jp/dp/488142565X
     

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  4. >そもそも黒を白というのが役人の仕事である。理路整然と嘘をつく能力こそ、役人に求められる力である。皮肉ではない。霞が関には「無謬性の原則」という冗談が本気でまかり通っており、役所は絶対に間違いを犯さないことになっている。つまり役所の大原則自体が「嘘」なのだ。

    >人間は年がら年中間違える。間違えてこそ人間だ。ところが役所は絶対に間違えないという大嘘の上に成り立っている。無謬性の原則は結局のところ役所に都合が悪いところは「嘘をつき通せ」ということに他ならない。だから役人の仕事は嘘をつき続けることになる。
    (財部誠一)
    http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20091130/198060/?P=2
    http://koibito.iza.ne.jp/blog/entry/2999131/
    https://www.google.co.jp/search?q=site:blog.livedoor.jp/dendenmussy+%E5%BD%B9%E4%BA%BA%E3%81%AE%E4%BB%95%E4%BA%8B%E3%81%AF%E5%98%98%E3%82%92%E3%81%A4%E3%81%8D%E7%B6%9A%E3%81%91%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8 

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  5. >「特定秘密」の範囲は防衛、外交、特定有害活動、テロリズムの4分野…
    http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51879612.html
     

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  6. 「強要」はテロリズムなのか
    2013年12月04日09:09 池田信夫 blog
    http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51880257.html

    ほんまもんの「テロ」ってのは、けっしてダイナミックなものではなく、静かに深く広く浸透させることを目的でなされる、いたってスタティックでステルスなもの…

    それはだれも気づかぬうちに着実に進行しているもの…

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  7. テロリズムの本態は、「ウソ」を広く信じ込ませるところにある…
     

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  8. 原発には「商品テスト」ができるのか? 黒川 創
    津野海太郎『花森安治伝―日本の暮しをかえた男―』
    http://www.shinchosha.co.jp/nami/backnumber/20131127/

    >「ボクは、たしかに戦争犯罪をおかした。言い訳をさせてもらうなら、当時は何も知らなかった、だまされた。 (略) これからは絶対だまされない、だまされない人たちをふやしていく」
     

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  9. >国家神道という国定宗教をでっち上げ、靖国神社をその中心にしたのは明治政府である。この奇妙なカルトが、天皇制を支えた。
    http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51882442.html
     

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  10. 「国民国家とはなにか」(p.158)

    >天皇陛下が姿をあらわせば、それは日本の歴史そのもの
    >日本が簡単に国民国家に転換できた理由はなにか

    岡田英弘『歴史とはなにか』(文春新書)
     

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  11. 「嘘つきは泥棒の始まり」
    https://www.google.co.jp/search?q=%E3%81%86%E3%81%9D%E3%81%A4%E3%81%8D%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%82%8D%E3%81%BC%E3%81%86%E3%81%AE%E3%81%AF%E3%81%98%E3%81%BE%E3%82%8A

    「ウソつき競争は科学者の集まり」
    https://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%A6%E3%82%BD%E3%81%A4%E3%81%8D%E7%AB%B6%E4%BA%89%E3%81%AF%E7%A7%91%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%81%AE%E9%9B%86%E3%81%BE%E3%82%8A

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  12. >日本ウソツキクラブ

    「うそは常備薬、真実は劇薬」
    https://www.google.co.jp/search?q=%E3%81%86%E3%81%9D%E3%81%AF%E5%B8%B8%E5%82%99%E8%96%AC%E3%80%81%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E3%81%AF%E5%8A%87%E8%96%AC
     

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  13. 河合隼雄『こころの処方箋』|新潮社
    http://www.shinchosha.co.jp/book/125224/
     

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  14. 地球の深部にも水が存在か 愛媛大が解明
    2月3日 5時13分

    地球の中心核に近い地下2900キロのマントルの最深部にも水が存在する可能性があることを、愛媛大学の研究グループが実験を元に初めて解明し、地球の成り立ちを探るうえで貴重な研究成果として注目されています。

    鉱物に閉じ込められた地表の水は、プレート運動によって、硬い岩盤で形成されているマントルの中を地下深くに運ばれていますが、深くなればなるほど高圧・高温で鉱物が分解されて水分が蒸発してしまうため、一定の深さを超えると水は存在しないと考えられてきました。
    愛媛大学の研究グループは、特殊な装置を使って「蛇紋石」と呼ばれる水を含む代表的な鉱物を、深さ1400キロの場所に当たる50万気圧、1000度という、超高圧高温の状態にすることに世界で初めて成功しました。
    その結果、この状態では鉱物は分解せず、新しい構造に変化し、さらに水が保たれたままであることが分かったということです。
    研究グループは、鉱物が周りにあるアルミニウムを取り込むことで強固になり、理論上、地下2900キロのマントルの最深部の130万気圧でも分解しない強さになっているとして、水が鉱物に閉じ込められた形で、地球の中心核に近いマントルの最深部まで広く分布している可能性があるとしています。
    愛媛大学地球深部ダイナミクス研究センターの入舩徹男センター長は、「地球の内部にどれだけ水があるのかなど、地球の成り立ちや構造を知る新たな材料だ」と話しています。
    この研究成果は日本時間の3日、イギリスの科学雑誌「ネイチャージオサイエンス」の電子版に発表されました。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140203/k10014963851000.html

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  15. 霞ヶ浦 磁石使いアオコ除去を
    2月3日 12時28分

    茨城県や千葉県に飲み水を供給している茨城県の霞ヶ浦で、夏場に悪臭をもたらすアオコを減らそうと、磁石を使ってアオコの原因となる水中のリンを取り除く全国でも初めての浄化実験が始まりました。

    琵琶湖に次いで国内で2番目に広い霞ヶ浦では、毎年、夏場になると大量のアオコが発生して、悪臭の原因となっています。
    このため茨城県は、例年アオコの発生が特に多い土浦市の港に、去年、磁石の力を利用した新しい浄化施設を全国で初めて建設し、アオコが発生する季節を前に、本格的な実証実験を始めました。
    新しい施設では、湖から取り入れた水に鉄の粉と薬品を混ぜて、アオコの原因となる水中のリンを固めたうえで磁石で引きつけて取り除きます。
    アオコ対策としてはこれまで、直接すくい取ったり、1か所に集まらないよう拡散させたりする対策が取られてきましたが、今回の方法では処理効率が大幅によくなって3分程度で完了するため、1日に最大1万立方メートルの水を浄化できるということです。
    茨城県環境対策課水環境室の野尻智治室長は、「この技術を使って霞ヶ浦をきれいにして、たくさんの人に訪れてもらえる場所にしたい」と話していました。
    茨城県はこの浄化施設を今後3年間、稼働させて、効果を検証することにしています。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140203/t10014969851000.html

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  16. 強制的に爆気(エアーレーション)して、水中の二酸化炭素を逃がしてあげればいいだけ…

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  17. 捏造、不正論文 総合スレ 18
    http://uni.2ch.net/test/read.cgi/life/1342400368/618

    618 :名無しゲノムのクローンさん:2012/08/14(火) 15:24:48.88
    教授は部下に「こういうストーリーだったら良いなあ」という話をする。
    出世したい部下(院生の直接の指導教官)は、教授の意思を汲み取り、院生に「こういうデータを出すように」と伝える。
    しかし、教授の妄想でしかないので、当然結果は出ない。
    それでも、指導教官は、自身の出世のため、教授の信頼を勝ち取るため、その実験を院生に続けさせる。
    全く結果が出ないため学生は疲れてくる。博士過程4年になると心身ともに疲弊してくる。

    そんな時、指導教官が「この抗体で免染をすれば染まるよ」 と言って、ある抗体を使うように院生に提案してくる。
    聞けば、研究室で伝統的に使われている「お助け抗体」だと言う。
    実は、その抗体はノンスペだらけで、コントロールも同様に染まってしまうため、本来、全く使い物にならない。
    しかし、切羽詰った院生には、そういう判断ができない。
    これを受け入れれば楽になれると考える。
    さらに、そこでタイミングよく指導教官が「コントロール用の写真にはこれを使ったらどう?」と提案してくる。
    薄く染まった全く別の実験のコントロール写真だ。
    背中を押された院生は、たいがいそれで全てを悟り、諦めて受け入れる。

    あとは、指導教官の思いのままだ。
    例えば、他の実験で「再現性が出ません」とその院生が言えば、「そのサンプルで3回電気泳動すれば3回やったことになるよね?」と提案してくる。
    10回中1回だけたまたま都合よく出たサンプルを3回使ってデータを出せという露骨にアブナイ指示だ。
    それはさすがにマズいのではと意見しても、「君は今までの苦労を無駄にするのか?」と猛烈に脅しをかけてくる。
    時には、指導教官だけでなく、既に忠実な下僕となった院生数人も一緒になって、数時間にわたり吊るし上げる。まるでどこかの宗教団体のようにだ。
    もはや院生には抗う術はない。

    今や、教授自身も、自分の手を汚さなくて済むこのシステムを有効利用している。
    このシステムで卒業した院生は過去5年で5人以上に達した。
    今年も2~3人は同様にして学位を取って卒業していくだろう。
    内部からの軌道修正はもはや不可能だ。
    いつか天罰が下って欲しいと切に思う。

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  18. 捏造、不正論文 総合スレ 15
    http://uni.2ch.net/test/read.cgi/life/1333152967/763

    763 :名無しゲノムのクローンさん:2012/05/05(土) 12:15:28.07
    捏造は大体「理論そのものは間違っていないのだから、実験データは多少それに合うように
    修正しても構わない」というところから始まる。タイラーズも最初はそうだった。
    そのうちに積極的に理論に合わせるようになり、新しいデータに色気が出るようになり、
    気がついたら実験そのものの捏造をするようになってくる。

    ------------------------
    科学捏造
    http://ai.2ch.net/test/read.cgi/life/1390043647/77

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  19. >科学ってのは

    1.仮説が立てられる
    2.仮説を裏付ける実験結果が得られる
    3.第三者が追試して同じ結果が得られる
    4.他の科学者が否定を試みるが未だ明確な否定に至らない

    こういう事をもって、「現時点での事実」とする学問。
    ---------------------------------------------------
    http://uni.2ch.net/test/read.cgi/rikei/1284136489/259
    https://www.google.co.jp/search?q=%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%AE%E3%81%AF+%EF%BC%91%EF%BC%8E%E4%BB%AE%E8%AA%AC%E3%81%8C%E7%AB%8B%E3%81%A6%E3%82%89%E3%82%8C%E3%82%8B+%EF%BC%92%EF%BC%8E%E4%BB%AE%E8%AA%AC%E3%82%92%E8%A3%8F%E4%BB%98%E3%81%91%E3%82%8B%E5%AE%9F%E9%A8%93%E7%B5%90%E6%9E%9C%E3%81%8C%E5%BE%97%E3%82%89%E3%82%8C%E3%82%8B+%EF%BC%93%EF%BC%8E%E7%AC%AC%E4%B8%89%E8%80%85%E3%81%8C%E8%BF%BD%E8%A9%A6%E3%81%97%E3%81%A6%E5%90%8C%E3%81%98%E7%B5%90%E6%9E%9C%E3%81%8C%E5%BE%97%E3%82%89%E3%82%8C%E3%82%8B+%EF%BC%94%EF%BC%8E%E4%BB%96%E3%81%AE%E7%A7%91%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%81%8C%E5%90%A6%E5%AE%9A%E3%82%92%E8%A9%A6%E3%81%BF%E3%82%8B%E3%81%8C%E6%9C%AA%E3%81%A0%E6%98%8E%E7%A2%BA%E3%81%AA%E5%90%A6%E5%AE%9A%E3%81%AB%E8%87%B3%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84+%E3%81%93%E3%81%86%E3%81%84%E3%81%86%E4%BA%8B%E3%82%92%E3%82%82%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%80%81%E3%80%8C%E7%8F%BE%E6%99%82%E7%82%B9%E3%81%A7%E3%81%AE%E4%BA%8B%E5%AE%9F%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%81%99%E3%82%8B%E5%AD%A6%E5%95%8F%E3%80%82

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  20. 《論文で捏造をするのならば、バレないように捏造するべきだ。バレてしまえば、元も子もないからだ。これまでに築いてきたすべてを失う。それはリスクが高すぎる。だから、捏造をするならば、バレないように、上手に捏造をするべきだ。

     では、どうすればいいか? その方法を具体的に教えよう。》
    http://openblog.meblog.biz/article/22783192.html

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  21. NHKスペシャル「調査報告 STAP細胞 不正の深層」
    https://twitter.com/search?q=STAP%E7%B4%B0%E8%83%9E%20%E6%B7%B1%E5%B1%A4&src=typd

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  22. ミニスカートの妻、前かがみ…「盗撮したやろ」
    2014年09月11日 11時52分

     妻にミニスカートをはかせて誘惑し、盗撮した男性を恐喝するなどしたとして、大阪府警曽根崎署は10日、同府茨木市の会社員崎村一郎(31)と妻、風吹(21)ら3容疑者を恐喝容疑などで逮捕したと発表した。

     崎村容疑者は容疑を認め、「相手にも非があるので警察に届けないと思い、20回ほどやった」と供述しているという。

     他に逮捕されたのは夫婦の知人で、大阪市西淀川区の不動産業田中大樹容疑者(30)。容疑を否認している。

     同署によると、3人は共謀。7月6日午後2時40分頃、JR大阪駅前の家電量販店で、風吹容疑者のスカート内をスマートフォンで盗撮した会社員男性(29)に頭突きをして脅し、示談金50万円を要求、うち1万円を奪うなどした疑い。

     犯行時、風吹容疑者は太ももまでの長さのワンピース姿で、前かがみの姿勢を取っていたという。近くにいた崎村容疑者は盗撮を確認し、男性に「警察行くんか、示談するんか」などと迫り、田中容疑者はボディーガード役だったという。
    http://www.yomiuri.co.jp/national/20140911-OYT1T50009.html

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  23. 人を罠にはめるときのいたってシンプルな構造、元型…

    ささいな人の欲求や願望につけこむ…

    おとり役、訴求役、調停役…役割分担も的確に…

    人を騙すときはたいていそういう「構造」をもってとりかかる…

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  24. ほほ笑む聖徳太子…救世観音菩薩立像を特別公開
    2015年10月25日11時45分

     奈良県斑鳩町の法隆寺夢殿で22日、寺を創建した聖徳太子の姿を写したとされる秘仏・救世観音菩薩立像くせかんのんぼさつりゅうぞう(国宝)の特別公開が始まった。

     11月22日まで。

     飛鳥時代の木造で、高さ約1.8メートル。午前8時から、大野玄妙管長らが法要を営み、厨子ずしの扉を開くと、金箔きんぱくが施され、ほほ笑みをたたえた像が姿を現した。

     参拝者らは扉の金網に顔を近づけてじっくりとながめたり、手を合わせたりしていた。18年前から毎年、訪れているという岡山県玉野市のうどん店経営吉山なりこさん(62)は「神々しいお姿に、今日も力をいただきました」と話した。

     像は明治時代半ばまで、厨子の中で白布に包まれていた。現在は、毎年春と秋に期間限定で公開されている。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20151023-118-OYT1T50064

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    1. 「聖徳太子」…実在ではなく、あくまでも物語上の架空想像上の人物…

      どこのだれが、それが実在であるとハクをつけてしまったものやら…

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    2. もちろん、物語が成立したもとになった実在の人物がいたであろうことまでは否定するつもりはないが…

      削除
  25. 【社会】官僚「頭がいいから陰湿」なイジメ 公務員「ホワイト」だけじゃない現実
    http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1447153365/

    「官僚」に関連するニュース一覧
    http://www.2nn.jp/word/%E5%AE%98%E5%83%9A

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  26. 「お試し」教材、返金せず…数億円被害か
    2015年12月29日10時10分

     小中高生向け学習教材を販売する東京都町田市の会社が、保護者らに「代金は返金する」と言って教材を販売しながら、11月末から連絡が取れないことがわかった。

     保護者は支払いのためにクレジット契約を結ばされており、信販会社から今後請求される可能性がある。首都圏など150人以上に数億円の被害が生じるとみられ、東京と神奈川、北海道の各地で被害対策弁護団が結成された。

     問題の会社は、「エフォートカンパニー」。学習塾を運営し、塾への生徒の勧誘のほか、電話勧誘などで教材も販売している。

     弁護団などによると、同社は、教材を購入した保護者らに「お試しのモニター契約」とうたって別教材を宣伝。保護者は信販会社と契約して別教材の代金をクレジット払いするが、サービスの一環として「当社が返金する形で全額負担する」などと説明していたという。しかし、返金が10月頃から滞り始め、エフォート社は11月末、事務所のドアに「事情によりしばらく休業します。後日必ず連絡いたします」と貼り出した後、連絡が取れない状態だという。

     弁護団によると、保護者らの多くは同社から200万円以上の返金が滞っていると訴えている。400万円分の教材を購入して間もないケースもあるといい、保護者がクレジット分を返済しなければ、信販会社から請求される恐れもある。

     エフォート社の男性社長(49)は28日、読売新聞の電話取材に対し、「この夏から資金繰りが悪化し、破産申し立ての手続きを進めている。返金できないのは申し訳ないが、だます意図はなかった」と説明している。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20151229-118-OYT1T50059

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  27. 「詐欺バスター」で撃退 長野県警などが開発
    1月5日 16時16分

    詐欺の電話を撃退するために、ボタンを押すと「悪いことはやめて正しく生きてください」などとメッセージが流れる装置を長野県警などが開発し、今月下旬から販売を始めることになりました。

    この装置は詐欺を撃退する意味を込めて「詐欺バスター」と名付けられ、「詐欺の電話にどう対応すればいいのか分からない」というお年寄りからの相談を受けて、長野市の長野中央警察署と地元の防犯協会が作りました。
    装置は縦11センチ、横5センチの大きさで、受話器の口元に持ってきてボタンを押すと「この電話の内容をすべて録音しています」とか「警察に相談させていただきます」などと振り込め詐欺の犯人に対する12種類の音声が流れます。中には「悪いことはやめて正しく生きてください」と改心を求めるメッセージも入っていて、怪しい電話がかかってきたら、ボタンを押すだけで簡単に音声を流すことができます。
    長野中央警察署は「怪しいと思ったときにこの機械で詐欺を撃退してほしい」と呼びかけています。
    この装置は一つ990円で、今月下旬から長野中央警察署の中にある防犯協会でおよそ3000台を販売するということです。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160105/k10010361551000.html

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  28. 「iPS細胞」に関連するニュース
    http://www.2nn.jp/word/iPS%E7%B4%B0%E8%83%9E

    「京都大学」に関連するニュース
    http://www.2nn.jp/word/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%A4%A7%E5%AD%A6

    「京大」に関連するニュース
    http://www.2nn.jp/word/%E4%BA%AC%E5%A4%A7

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  29. 2月25日 編集手帳
    2016年2月25日3時0分

     室町時代の歌謡集『閑吟集』にある。〈梅花は雨に/柳絮りゅうじょは風に/世はただ虚うそに揉もまるる〉。梅の花は雨に散る。柳の綿毛は風に舞う。人の世は嘘うそでもみくちゃにされる、と◆梅や柳が雨風に翻弄されるのは仕方がないが、先生が生徒の心を嘘でもみくちゃにしてはなるまい。姫路市立中学校の男性教諭(58)が停職6か月の懲戒処分を受けた。いじめにより胸部骨折の重傷を負った男子生徒について「病院では階段で転んだことにしろ」と指示したという◆教諭は県教委の調査に、「警察に通報されれば大きな問題になると思った」と説明している◆いじめが原因で児童や生徒が自殺に至る最悪のケースもあることを知らないはずはなかろうに、いじめを受けた生徒を守ること以上に優先すべき何があるというのだろう。“問題”の大小を計量する秤はかりが理解できない◆英語で教師を【teacher】という。「t」と「ch」をうっかり間違えると、困った別人【cheater】(ごまかす人、詐欺師)になってしまう。その生徒が先生に寄せていた信頼の花びらは、心ない嘘に揉まれて散り果てたことだろう。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20160225-118-OYTPT50074

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  30. 聖徳太子 史料検討の不足 実像明かす東アジア仏教の視点
    2016年3月12日15時0分

     聖徳太子ほど時代によってイメージが変わった人物はいない。戦国時代には物部守屋の軍勢を打ち破った戦の神として武士に信仰され、江戸時代の国学者には神国日本に外国の野蛮な仏教を持ち込んだ大悪人と非難され、不平等条約に苦しめられた明治時代には大国である唐と対等の外交をした偉人という評価が生まれた。この数年は、大震災や原発事故を予言していたという噂うわさが都市伝説風に語られている。聖徳太子は時代を映す鑑かがみなのだ。

     その太子については、「聖徳太子はいなかった。実在したモデルは、勢力がなかった厩うまや戸ど王だ」という説が広まりつつある。「聖徳太子(厩戸王)」や「厩戸王(聖徳太子)」などと表記する教科書も出てきた。しかし、「厩戸王」という名は、従来のイメージに縛られずに客観的に研究しようとした広島大学の小倉豊文氏が、1960年代初頭に仮に用いたものであり、現存史料にはまったく出てこない名だ。

     つまり、聖徳太子については、史料の検討が不十分なままあれこれ論議されているのが実状なのだ。「憲法十七条」にしても、第一条冒頭の「無忤むご(怒らず、対立して争わない)」は、出典不明とされてきた。この無忤は、梁りょうや陳など中国南朝の僧尼たちが重視した徳目だった。このことは、筆者自身、作成とインターネット公開に長年携わった仏典のデータベース(SAT)によって判明した。

     聖徳太子が著したとされる『三経義疏さんぎょうぎしょ』については、後代偽作説や中国からの輸入説が有力だったが、これも筆者がコンピュータ分析を試みたところ、誤りと分かった。つまり、梁の三大法師と言われた6世紀初めの南朝の学僧たちの注釈を略抄し、自分の解釈を和風漢文で記したもので、断定はできないが、太子が書いた可能性がある。その梁の初代の皇帝は、中国史上最も仏教熱心で「菩薩ぼさつ天子」「救世大悲」と称された武帝であり、武帝は学僧の指導を受けつつ経典の講義をし、注釈を著していた。日本に仏教を伝えた百済が手本としていたのは、その梁の仏教だ。

     太子にまつわる史料で、出典が分からず、正確に読めていなかったのは、『日本書紀』に見える厩での誕生や守屋合戦の記述、法隆寺金堂の釈迦三尊像銘、天寿国繍しゅう帳銘、伊予の湯岡碑文などの場合も同様だ。十人の訴えを同時に聞いたなどというのは、むろん、経典の記述を利用して大げさに述べたものだ。

     天寿国繍帳銘に見える天寿国については、阿弥陀仏の極楽だとか弥勒みろく菩薩のいる兜率天とそつてんだといった様々な説があった。実際には、釈尊の孝行ぶりを説いた中国の偽経に基づき、亡くなって天に生まれていた母に説法するため釈尊がおもむいた天を考えているらしい。

     この銘文の前半は、太子と、后きさきの橘大郎女たちばなのおおいらつめと、太子の母が、欽明天皇と蘇我稲目の血を継いでいることを示す系譜であり、皇族である后が、他の妃きさきに対して自らの高貴さを誇ったものだ。釈迦三尊像は、氏族の娘であった妃とその子などが誓願して建立しており、その銘でも同じ偽経が利用され、太子の母が尊重されていた。

     このように、東アジア仏教の視点から再検討すると、これまでとは違った聖徳太子の姿やその伝説化の様子が見えてきた。太子に関する本格的研究は、まさにこれからだ。

      いしい・こうせい  1950年生まれ。駒沢大仏教学部教授。専門は、アジア諸国の仏教と文学・芸能。著書に『華厳思想の研究』(春秋社)、『聖徳太子 実像と伝説の間』(同)など。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20160312-118-OYTPT50207

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  31. [ほんの散策]「微笑」なき二項対立社会…編集委員 鵜飼哲夫
    2016年7月4日15時0分

     いんちき、見せかけ、虚報、偽造する――これを意味する英語【fake】は、一般に許されない行為である。だが、○と×の間に△があるように、実と虚、善と悪の間には様々な段階がある。ゴーストライター騒動で糾弾された佐村河内守氏のその後を追った森達也監督「FAKE」は、○×式の二項対立でものごとを見る風潮に、△という形で疑問を投げかけたドキュメンタリー映画である。

     “現代のベートーベン”とメディアにもてはやされた男は、本当は耳が聞こえるのか? 作曲能力はあるのか? 映画は、佐村河内氏の予期せぬ姿を登場させ、夫婦愛のシーンで会場を盛り上げるが、答えを宙づりにしたまま、いきなりエンドマークが出る。結論の先送りを物足りなく感じる人もいるだろう。が、そこには、せっかちに結論を求める社会への抗議がある。

     そもそも、一口に耳の不自由といっても、聞き間違いがあるレベルから、各単語の半分ほどしか正しく聞こえないレベル、耳元の大声ですらよく聞こえない高度難聴などまで幅広い。「ビッグコミックスペリオール」に月1ペースで連載中の吉本浩二「淋しいのはアンタだけじゃない」(第1巻は小学館から発売中)は、聴覚障害の現状に、自らも登場人物の一人となって迫る、同じくドキュメンタリーの漫画である。耳が聞こえない人が、漫画の静寂場面で「シーン」と書いてあるのを見て、「誰もいないところの音ってこんなのなんだ!」と勘違いする現実がある。耳が聞こえないのは必ずしも静かな世界ではなく、ジェット音のような激しい耳鳴りに悩む人もいる。見た目だけではわからない障害の多様な実相を克明に描写する漫画を読むと、聞こえる、聞こえない、という二分法の不正確さが、よくわかる。

     手話通訳を通して、障害者と和やかに意見交換する作者が、「皆さんの笑顔いいなぁ、なんて明るいんだろう」と思わず語った際、抗議を受ける場面は圧巻だ。耳の不自由な人たちにとって、健常者に警戒しないでほしいという合図の一つが笑顔、というのだ。作者は、自らの肉を切って、「聴覚障害者たちにとって、それ(笑顔)が生きる手段」という現実を伝える。

     今日の社会は、「結局は」「要は」と結論を急ぎ、○×を決めたがる。EU離脱の賛否もしかり。しかし○×の議論で、双方の理解が深まることはまれで、むしろ対立が深まり、寛容から遠ざかるのは、原発や基地問題も同じだ。日大教授(日本思想史)の先崎彰容著『違和感の正体』(新潮新書)は、過激な二項対立で、怒号とスローガンが飛び交い、〈社会全体から「微笑」が奪われつつある〉現状を憂える評論集だ。

     今回の芥川賞候補には、この二項対立社会に生きづらさを覚える人たちを主人公にした小説も並んだ。崔実チェシル「ジニのパズル」(「群像」6月号、群像新人文学賞受賞作)は、今日のヘイトスピーチに代表される、声を荒らげ、「微笑」を失った社会によって、行き場を失われた在日の少女の叫びを鮮烈に描いている。

     村田沙耶香「コンビニ人間」(「文学界」6月号)は、社会の常識が理解できず、コンビニでマニュアルに沿った仕事をすることで、なんとか社会との接点を持つことができる、30代半ば、独身、恋愛経験なしの女性が主人公。この「普通」の生き方が苦手の女性が、マニュアルを外れたときの社会のプレッシャーを描くことで、「普通」が中心に居座る社会のグロテスクさを、ユーモアをもって描く。

     お笑いコンビ、オードリーの若林正恭さんが司会のトーク番組「ご本、出しときますね?」(BSジャパン)で、作家の角田光代さんは「本当に悪いだけの人も、いいだけの人もいない。それをうまく配分するのが小説」と6月17日の放送で語っていた。角田さんの好きな作家、太宰治に『正義と微笑』(新潮文庫『パンドラの匣』に収録)がある。正義をなすときは、せめて恥じらいの微笑があった方がいい。

     (次回は8月8日掲載予定)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20160704-118-OYTPT50196/

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    1. 「さらば二極思考」
      https://www.google.co.jp/search?q=%E6%97%A5%E5%9E%A3%E9%9A%86+%E3%81%95%E3%82%89%E3%81%B0%E4%BA%8C%E6%A5%B5%E6%80%9D%E8%80%83+%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%95%8F%E9%A1%8C%E9%9B%86

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  32. 受動喫煙防止 飲食店 原則禁煙に…五輪へ厚労省案 悪質違反に罰則
    2016年10月13日5時0分

     厚生労働省は12日、2020年東京五輪・パラリンピックなどに向けて検討している受動喫煙防止対策のたたき台を公表した。飲食店内やホテルのロビーなどを原則禁煙とし、悪質な違反者に罰則を科すことなどが柱だ。今月末にも業界団体から意見聴取したうえで新たな法案を作成し、来年の通常国会への提出を目指す。

     たたき台は「多数の人が利用する施設」と位置づけた官公庁や社会福祉施設、大学などは建物内を禁煙とし、未成年者や患者がいる医療機関や小中学校、高校は、より厳しく敷地内を禁煙とした。

     また、「利用者が他の施設を選択することが可能」と位置づけた飲食店やホテルのロビー、駅、空港などは建物内を原則禁煙とした上で喫煙室の設置を認める。喫煙室は、煙が外部に流出しないことが条件となる。個人の住宅やホテルの客室などは、規制の対象外とする方針だ。違反者には、勧告や命令を行い、それでも喫煙をやめない場合は罰則を適用する。ただ、罰則の内容など詳細は「今後、検討する」とした。

     国際オリンピック委員会(IOC)は「たばこのない五輪」を掲げており、少なくとも08年の北京大会以降の開催国や都市は、罰則を伴う受動喫煙防止対策を講じている。たたき台には「日本の受動喫煙防止対策を五輪開催国と同等の水準とする」との方針も明記した。

     日本では03年施行の健康増進法で「多数の者が利用する施設」での受動喫煙防止を明記したが、施設管理者に必要な措置を講じるよう求める努力規定にとどめていた。

     厚労省は、罰則規定を設けるなど実効性の高い制度にしたい考えだが、立法化に向けた業界団体との協議は難航が予想される。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20161013-118-OYTPT50105

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    1. 受動喫煙防止、飲食店は原則禁煙に…厚労省案
      2016年10月12日22時23分

       厚生労働省は12日、2020年東京五輪・パラリンピックなどに向けて検討している受動喫煙防止対策のたたき台を公表した。

       飲食店内やホテルのロビーなどを原則禁煙とし、悪質な違反者に罰則を科すことなどが柱だ。今月末にも業界団体から意見聴取したうえで新たな法案を作成し、来年の通常国会への提出を目指す。

       たたき台は「多数の人が利用する施設」と位置づけた官公庁や社会福祉施設、大学などは建物内を禁煙とし、未成年者や患者がいる医療機関や小中学校、高校は、より厳しく敷地内を禁煙とした。

       また、「利用者が他の施設を選択することが可能」と位置づけた飲食店やホテルのロビー、駅、空港などは建物内を原則禁煙とした上で喫煙室の設置を認める。喫煙室は、煙が外部に流出しないことが条件となる。個人の住宅やホテルの客室などは、規制の対象外とする方針だ。

       違反者には、勧告や命令を行い、それでも喫煙をやめない場合は罰則を適用する。ただ、罰則の内容など詳細は「今後、検討する」とした。

       国際オリンピック委員会(IOC)は「たばこのない五輪」を掲げており、少なくとも08年の北京大会以降の開催国や都市は、罰則を伴う受動喫煙防止対策を講じている。たたき台には「日本の受動喫煙防止対策を五輪開催国と同等の水準とする」との方針も明記した。

       日本では03年施行の健康増進法で「多数の者が利用する施設」での受動喫煙防止を明記したが、施設管理者に必要な措置を講じるよう求める努力規定にとどめていた。

       厚労省は、新法に罰則規定を設けるなど実効性の高い制度にしたい考えだが、喫煙室を設置しているホテルや飲食店は少ないとされており、立法化に向けた今後の業界団体との協議は難航が予想される。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20161012-118-OYT1T50134

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    2. 【社会】病院、学校を全面禁煙、飲食店には喫煙室 受動喫煙対策で厚労省
      http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1476267631/

      「禁煙」のニュース
      http://www.2nn.jp/word/%E7%A6%81%E7%85%99

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  33. 内容紹介
    ウソは巨大で組織的なほど見破ることが難しい。地球温暖化からがん検診、果てはレバ刺し禁止まで。「民主主義」というお題目の下、過剰な法規制を敷くことで利益誘導を狙う国家のやり口や、怪しい「科学」を世界の常識にすりかえ、金儲けを企む巨大利権の巧妙な手段を、人気生物学者が次々喝破! 利便や健康の語に踊り、自己家畜化の道を進む現代人に覚醒を促す挑発の社会時評。

    内容(「BOOK」データベースより)
    ウソは巨大で組織的なほど見破ることが難しい。地球温暖化からがん検診、果てはレバ刺し禁止まで。「民主主義」というお題目の下、過剰な法規制を敷くことで利益誘導を狙う国家のやり口や、怪しい「科学」を世界の常識にすりかえ、金儲けを企む巨大利権の巧妙な手段を、人気生物学者が次々喝破!世間の通説に踊らされ、自己家畜化の道を進む現代人に覚醒を促す挑発の社会時評。
    https://www.amazon.co.jp/dp/4101035296/

    ウソは巨大で組織的なほど見破ることが難しい。地球温暖化からがん検診、果てはレバ刺し禁止まで。「民主主義」というお題目の下、過剰な法規制を敷くことで利益誘導を狙う国家のやり口や、怪しい「科学」を世界の常識にすりかえ、金儲けを企む巨大利権の巧妙な手段を、人気生物学者が次々喝破! 世間の通説に踊らされ、自己家畜化の道を進む現代人に覚醒を促す挑発の社会時評。

    目次

    はじめに――「健康のため」「安全のため」「環境のため」というウソ

    第1章 民主主義のウソ
    「民主主義は人の自由を尊重する制度である」のウソ
    「ダメ。ゼッタイ。」? 大麻取り締まりのウソ
    「健康」を盾にした喫煙者いじめ
    コンプライアンスのウソ
    大学の数はなぜ減らないか
    学校に通知表は要らない
    自分で自分の首を絞めているクレーマーたち
    学問の世界にまでどうでもいいコントロールの網がかかっている
    他人をコントロールするために持ち出されるもっともらしい理由
    法律が増えれば増えるほど税金も借金もどんどん増える
    法秩序を守ろうとするコントロール欲が生み出した冤罪
    「愛国」と天皇制
    「愛国」のコスト
    多大なコストをかけてまで無人島を守って得られるものは何?
    「山河破れて国体あり」?
    英語至上主義のウソ
    青少年健全育成条例のウソ

    第2章 ウソの道具としての科学
    「人の役に立つことで金儲け」から「人を脅かして金儲け」へ
    インチキな科学的言説で人をだました典型例「ダイオキシン法」
    レバ刺し規制のウソ
    「国民の健康のため」というキャンペーンのウソ
    地球温暖化をめぐるウソをいまだに信じ続ける人々
    自然エネルギーのウソ
    「外来種が日本固有の在来種を滅ぼしている」というウソ
    がん治療をめぐる言説のウソ
    健康調査や健康診断という、おためごかし
    煙草と肺がんの関係をめぐるウソ
    煙草バッシングの背景にあるもの
    iPS細胞をめぐるウソになぜ人々がだまされたのか?
    地震予知のウソ
    科学と金儲け

    第3章 世界を動かすウソのからくり
    ウソがホントを支配している貨幣経済
    グローバル・キャピタリズムの源泉
    鎖国が可能な国とは
    国民国家の理念強化は何のため?
    国民皆保険制度と国民皆年金制度のウソ
    「少子化は困る」のウソ
    社会保障の拡充よりベーシック・インカムのほうがマシ

    第4章 現代人はどんな「ウソ」にだまされるのか
    他人をコントロールしたいという欲望の始まり
    自己家畜化が進む現代人
    近代化とクレーマーの増加
    自己家畜化した人間はコントロールされやすい

    おわりに――絶望の先の希望、希望の先の絶望
    エネルギーが枯渇した世界
    すべてが「つくりもの」の世界

    解説 松原隆一郎
    http://www.shinchosha.co.jp/book/103529/

    がん検診、禁煙外来、健康診断、国民皆年金制度、国民皆保険制度、青少年健全育成条例、ダイオキシン法、大麻取締法、大規模地震対策特措法、地球温暖化防止条約、レバ刺し規制……。現代社会は「健康のため」「安全のため」「環境のため」という大義名分を掲げて人びとをだましコントロールする法律や規則であふれている。
    http://www.shinchosha.co.jp/book/423109/

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  34. 加熱たばこ、競走激化…英BATが年内にも参入
    2016年10月26日17時20分

     上場たばこ会社で世界2位の英ブリティッシュ・アメリカン・タバコ(BAT)が、「加熱たばこ」の販売を年内にも日本で始めることが分かった。

     国内では世界首位のフィリップ・モリス(PM)と、3位の日本たばこ産業(JT)が加熱たばこを投入済みで、大手3社による販売競争が激化しそうだ。

     加熱たばこは、火を使わずに専用機器でたばこ葉を加熱し、発生した蒸気とともにニコチンを吸引する。煙が出ずにおいが少ないのが特徴だが、ニコチンを体内に取り込むのは紙巻きたばこと同じため、健康への影響には注意を要する。

     BATはルーマニアなどで加熱たばこを販売しているが、日本では従来品とは異なる新商品を12月以降、仙台市などで販売し、順次エリアを拡大する方針だ。

     国内のたばこ販売数量が減少する中でも、加熱たばこは人気を集めている。PMの「iQOS(アイコス)」は今年4月に全国販売を開始。加熱器など専用機器の累計販売台数は200万台に上る。JTも3月から「プルーム・テック」を福岡市などで販売しており、品薄状態が続く。JTは数百億円を投じて生産設備を増強し、2017年以降、東京などの大都市圏でも販売予定だ。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20161026-118-OYT1T50063/

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  35. 【健康被害】喫煙が日本経済に与えるコストは年間7兆円・・・世界保健機関(WHO)
    http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1477206434/
    http://toyokeizai.net/articles/-/140513?page=2

    「WHO」のニュース
    http://www.2nn.jp/word/WHO

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  36. [メディア]取材せず逸話捏造…「貧困」連載 中日新聞が検証
    2016年10月31日5時0分

     子供の貧困をテーマにした中日新聞の連載記事で捏造ねつぞうなどがあった問題で、同紙は社内調査に基づく検証記事を30日付朝刊に掲載した。記者が少女本人に取材せずに貧困のエピソードを捏造し、上司らが問題を軽視していたことなどが明らかになったが、識者は検証の不十分さも指摘している。

     

    識者「事実への姿勢甘い」

      ■写真「自作自演」

     問題となったのは、5月17、19日付の朝刊社会面に掲載された連載「新貧乏物語」第4部の1回目と3回目。同紙は10月12日、「おわび」を掲載して捏造の事実を明らかにし、記事や見出し、写真を削除した。今回の検証記事は、編集局から独立した「紙面審査室」が担当し、有識者4人の見解とともに30日付の特集2ページで掲載した。

     検証記事によると、2本の記事はいずれも、名古屋本社社会部の取材班に地方から加わった男性記者(29)が担当し、登場する少年や少女は仮名だった。

     1回目では、パンの移動販売で生計を立てる母子の姿を描いたが、記者は少年に関係者宅の前に立ってもらい、自らドアを内側から開けてカメラマンに撮影させた。検証ではこの写真が「自作自演」だと認めた。

     3回目では、中学3年の少女が、教材費や部活の合宿代を払えないなど3点のエピソードを捏造した。また、「欲しいものを買ってもらえなくても我慢してきた」などと少女の心情を記述しているのに、少女本人に取材していなかった。

     記者は調査に対し、「貧しくて大変な状態だというエピソードが足りないと思い、想像して話をつくった。自分が取材した家庭が連載で採用されなかったらと思うと怖くなった」と説明。同紙はこの連載を新聞協会賞に応募しており、それが重圧になったとも、記者は話したという。

     元共同通信記者の春名幹男・早大客員教授は「事実の積み重ねから記事は生まれるのに、ノルマを達成しようという思いが先に立ったのだろう。記事にどれだけ反響があろうと、捏造一つで新聞の信頼は失われることを若い記者にも徹底しないといけない」と語る。

     

      ■「ぎりぎりセーフ」

     1回目の紙面の印刷開始後、取材班のキャップは記者から写真撮影の経緯を初めて聞かされ、取材先など関係者に謝罪するよう指示した。記者は「いい記事をありがとう。写真は問題にしていない」と電話で言われたと報告したが、実際には電話していなかった。

     さらに、キャップらは3回目の原稿を再度チェックする必要があると考え、事実関係を一つ一つ記者に確認したが、「問題ない」と答えたため、捏造を見抜けなかった。連載は、中日新聞社発行の東京新聞などでも6月に掲載。「自作自演」の写真は別の写真に差し替えられたものの、捏造記事はそのまま掲載された。

     写真の問題が発覚した後も、編集幹部からは「イメージ写真としてぎりぎりセーフでは」との声が上がったという。大石泰彦・青山学院大教授(メディア倫理)は「事実に対する姿勢が甘いと言わざるをえない。貧困というテーマありきで臨んだ結果、細かい事実の加工を容認する空気が生まれたのではないか」と、組織的な問題点を指摘する。

     

      ■チェックの方法触れず

     検証記事では、記者の入社年次や普段の仕事ぶり、原稿のチェックの具体的な方法などは触れられていない。大石教授は「少女本人への取材ができていないのに、なぜ上司が原稿を通したのかといった構造的な問題に踏み込んでおらず、不十分だ」と疑問を示す。

     音好宏・上智大教授(メディア論)も、「検証記事は再発防止策に触れておらず、全体として認識が甘い印象を持った」とし、「捏造を防ぐには二重、三重のチェックが必要だ。どんなトレーニングで記者の資質を今後確保していくかを明らかにすることが、今回の問題で新聞全体への信頼を失わせた中日新聞の責任ではないか」と話している。

     

    編集局長ら処分

     中日新聞社は、捏造などを行った男性記者を停職1か月、臼田信行・名古屋本社編集局長を役員報酬減額、寺本政司同本社社会部長と社会部の取材班キャップをけん責とする懲戒処分(11月1日付)を決めた。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20161031-118-OYTPT50071

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    1. [メディア]仮名記事 チェック課題…中日新聞、連載で捏造
      2016年10月13日5時0分

       中日新聞が子供の貧困をテーマに掲載した連載記事で、エピソードの捏造ねつぞうがあったことが、12日付の同紙朝刊に掲載された「おわび」で明らかになった。執筆した記者は想像で取材メモの一部を作成したといい、人物が仮名で描かれる記事の危険性や、チェック態勢の課題が浮かび上がった。

      記者、架空の取材メモ

      ■貧困を強調か

       問題となったのは、1月から同紙が連載している「新貧乏物語」の第4部で、5月17日付と同19日付の朝刊社会面に掲載された記事。「おわび」では、19日付記事のうち、病気の父を持つ中学3年の少女が教材費や部活の合宿代を払えないなどと記述した三か所が「事実ではない」とした。

       「10歳 パンを売り歩く」との見出しが付いた17日付の記事は、マンションの玄関前に立った少年の後ろ姿の写真に「知らない人が住むマンションを訪ね歩く」という説明が付いていたが、実際には販売現場ではなく少年の関係者の自宅前だったという。

       同紙は8月末に少女の家族からの指摘を受けて調査。取材班の記者1人が架空の取材メモを作成し、写真撮影も記者がカメラマンに指示していたことが判明した。社内調査に対し、記者は「原稿を良くするために想像して書いてしまった」と話しているという。

       メモの捏造は過去にもあった。2005年8月、朝日新聞長野総局の記者が、田中康夫・長野県知事(当時)に取材したとする架空のメモを作成し、これに基づいて新党結成の舞台裏に関する記事が掲載された。この記者は調査に対し、「功名心だったかもしれない」などと話した。

       今回は、記者が貧困を強調しようとしてエピソードを創作した可能性がある。大石泰彦・青山学院大教授(メディア倫理)は、「テーマに沿ったドラマチックな話に仕立てようとしたのではないか。記者は取材対象を脚色可能な『材料』と見るのではなく、謙虚な姿勢を持つべきだ」と語る。

      ■匿名・仮名の危険

       問題の記事は取材対象者が仮名で登場しているのも特徴だ。服部孝章・立教大名誉教授(メディア法)は、「貧困を扱った連載で仮名を選択したのは妥当」としつつ、「実名でないと、誤りを外部から指摘されにくいため、事実がおろそかにされやすい」と指摘する。

       14年5月に放映されたNHKの「クローズアップ現代」は、多重債務者がブローカーと会談するシーンを「隠し撮り」として放映したが、実際には記者が同席していた。ブローカーらは匿名で登場しており、NHKは調査報告書で「匿名性は事実の捏造につながる危険性をはらんでいる」とし、「真実性の確認は匿名の場合は通常より厳しく求められる」と言及していた。

      ■「検証して公表を」

       今回のケースでは、チェック態勢の課題も浮き彫りになった。中日新聞の取材班キャップやデスクらは、記者が書いた記事だけをチェックし、取材メモは記事掲載時点で見ていなかった。メモ自体が虚偽でも、内容に不自然さなどがあれば、掲載前に記者を問いただせた可能性はある。

       読売新聞は14年12月、編集局に「適正報道委員会」を設置した。ベテラン記者が、調査報道やスクープなどの重要な記事について、第三者的な立場から担当者の聞き取りやメモの確認を行い、取材が尽くされているかを記事掲載前にチェックする組織だ。連載記事が対象になることもある。

       中日新聞は問題発覚後も、記事のどの記述が事実と異なるのかなどを、「関係者に迷惑がかかる」として明示していない。元共同通信記者の春名幹男・早大客員教授は、「記事がどのように掲載されたのかを詳しく検証し、結果を公表することが重要だ」と指摘する。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20161012-118-OYTPT50611

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    2. 中日新聞 記事捏造…記者「想像して書いた」 連載「新貧乏物語」
      2016年10月12日15時0分

       中日新聞は12日、5月に掲載した連載記事2本に誤りがあったとして、同日付朝刊社会面で「おわび」を掲載し、記事や見出し、写真を削除すると明らかにした。架空のエピソードを盛り込んだ記者の取材メモをもとに記事が書かれたことが原因としている。今後、この記者や編集幹部を処分し、同じ記者が書いた連載以外の記事についても調査する方針。

       誤りがあったのは、5月17日付と19日付の朝刊社会面に掲載された連載「新貧乏物語 第4部 子どもたちのSOS」。

       おわびでは、19日付の記事について、「教材費や部活の合宿代も払えない、などとした三か所の記述が事実でないことを確認した」としている。病気の父を持つ中学3年の少女が、「教材費も払えない」「バスケ部の合宿代一万円が払えず」などと記述した部分を指すとみられる。

       また、17日付の記事には、10歳の少年がパンを売るために「知らない人が住むマンションを訪ね歩く」などとした説明を添えた写真が掲載されたが、この写真は実際の販売現場ではなく、少年の関係者の自宅前で撮影したものだったという。

       同紙によると、8月末に少女の家族からの指摘を受けて調査した結果、取材班の記者1人が架空の取材メモを作成し、写真も記者がカメラマンに指示して撮影していたことが判明した。記者は「原稿を良くするために想像して書いてしまった」と話しているという。取材班のキャップやデスクらは、記者が書いた記事をチェックしたものの、メモは記事掲載時点で誰も見ていなかったという。

       臼田信行・名古屋本社編集局長は、おわびの中で、「記者が事実と異なることを自ら知りながら書いたことは到底許されません。深くおわび申し上げます」と謝罪した。この連載が6月に掲載された中日新聞社発行の東京新聞などでも当該の記事を削除する。

       ただ、おわびでは、19日付の記事で誤りがあったという「三か所の記述」が明示されていない。平田浩二・編集局次長は読売新聞の取材に対し、「関係者に迷惑がかかるので、これ以上は明らかにできない。デスクなど上司による圧力などがあったとは認識していない」と話した。問題の記者の所属や年次なども明らかにしなかった。

       連載は1月に始まり、第6部まで掲載。中日新聞は、今年度の新聞協会賞の編集部門にこの連載を応募していた。同紙は、ほかの記事に問題はないとし、連載を継続する方針。

       碓井広義・上智大学教授(メディア論)の話「子供の貧困問題に斬り込む連載の趣旨に沿って悲惨さを強調しようとしたのだろう。記者のメモの虚偽を見抜くのは難しいが、デスクを含めた取材チーム全体でメモや原稿を入念にチェックし、表現や事実関係の妥当性を検討すべきだったのではないか。新聞全体の信頼を損なう深刻な捏造ねつぞう行為といえる。『おわび』で、事実でない記述を明示していない点も、読者の混乱を招くことになり、不適切だ」

      記者による捏造 過去にも

       記者らが事実と異なる記事や映像を意図的に作成したケースは過去にもある。

       2005年8月、朝日新聞長野総局の記者が、田中康夫・長野県知事(当時)に直接取材したかのような虚偽のメモを捏造ねつぞうし、同紙がこのメモに基づく記事を掲載していたことが発覚した。メモは、「田中知事が亀井静香・元自民党政調会長と長野県内で会談した」との情報を田中知事への取材で得たとする内容だったが、田中知事が記者会見でこれを否定。社内調査に対して記者は、メモが虚偽だったと認めたうえで、「『田中知事からこれぐらいのことは聞けるんだ』というのを上司に見せたかったのかもしれない」などと話した。

       テレビ報道では、NHKが14年5月に放送した「クローズアップ現代」で、多重債務者がブローカーと会談するシーンを、近くのビルから「隠し撮り」した映像として放送したが、実際には記者が同席していたことなどが発覚。NHKは、「過剰演出があった」とする調査報告書をまとめ、15年11月、放送倫理・番組向上機構(BPO)は、「事実を歪曲わいきょくした」とする意見を公表した。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20161012-118-OYTPT50298

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    3. 中日新聞記事に捏造、記者「想像して書いた」
      2016年10月12日13時10分

       中日新聞は12日、5月に掲載した連載記事2本に誤りがあったとして、同日付朝刊社会面で「おわび」を掲載し、記事や見出し、写真を削除すると明らかにした。

       架空のエピソードを盛り込んだ記者の取材メモをもとに記事が書かれたことが原因としている。今後、この記者や編集幹部を処分し、同じ記者が書いた連載以外の記事についても調査する方針。

       誤りがあったのは、5月17日付と19日付の朝刊社会面に掲載された連載「新貧乏物語 第4部 子どもたちのSOS」。

       おわびでは、19日付の記事について、「教材費や部活の合宿代も払えない、などとした三か所の記述が事実でないことを確認した」としている。病気の父を持つ中学3年の少女が、「教材費も払えない」「バスケ部の合宿代一万円が払えず」などと記述した部分を指すとみられる。

       また、17日付の記事には、10歳の少年がパンを売るために「知らない人が住むマンションを訪ね歩く」などとした説明を添えた写真が掲載されたが、この写真は実際の販売現場ではなく、少年の関係者の自宅前で撮影したものだったという。

       同紙によると、8月末に少女の家族からの指摘を受けて調査した結果、取材班の記者1人が架空の取材メモを作成し、写真も記者がカメラマンに指示して撮影していたことが判明した。記者は「原稿を良くするために想像して書いてしまった」と話しているという。取材班のキャップやデスクらは、記者が書いた記事をチェックしたものの、メモは記事掲載時点で誰も見ていなかったという。

       臼田信行・名古屋本社編集局長は、おわびの中で、「記者が事実と異なることを自ら知りながら書いたことは到底許されません。深くおわび申し上げます」と謝罪した。この連載が6月に掲載された中日新聞社発行の東京新聞などでも当該の記事を削除する。

       ただ、おわびでは、19日付の記事で誤りがあったという「三か所の記述」が明示されていない。平田浩二・編集局次長は読売新聞の取材に対し、「関係者に迷惑がかかるので、これ以上は明らかにできない。デスクなど上司による圧力などがあったとは認識していない」と話した。問題の記者の所属や年次なども明らかにしなかった。

       連載は1月に始まり、第6部まで掲載。中日新聞は、今年度の新聞協会賞の編集部門にこの連載を応募していた。同紙は、ほかの記事に問題はないとし、連載を継続する方針。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20161012-118-OYT1T50066

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  37. 作文得意なだけの、小説家にもなれない中途半端な才能…

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    1. っていうか、組織としての「捏造」体質が元からあるんじゃないのかな…

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  38. 受動喫煙防止対策、業界団体から反対相次ぐ
    2016年10月31日13時58分

     厚生労働省は31日午前、2020年東京五輪・パラリンピックに向けて検討している受動喫煙防止対策に関し、都内で業界団体から意見聴取を行った。

     12日に厚労省が公表した飲食店内や駅、空港などの建物内を原則禁煙とする対策案に対し、団体側からは反対意見が相次いだ。

     意見聴取には、規制の内容によっては影響が出る可能性のある外食チェーン、ビジネスホテル、船舶など10団体が出席。日本内航海運組合総連合会は「現存する船では喫煙室を設けるスペースがない。現状のまま運用できないか」と主張し、厚労省案の修正を求めた。

     政府は、今後数回にわたって業界団体から意見聴取し、年内に対策の内容を決定する方針だ。早ければ来年の通常国会への法案提出を目指す。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20161031-118-OYT1T50056

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    1. 受動喫煙防止に罰則 消費者団体や業界から賛否の声
      10月31日 15時36分

      他人のたばこの煙を吸い込む受動喫煙を防ぐため、罰則つきの規制を導入することについて、厚生労働省が開いた検討会では、消費者団体が賛成した一方で、飲食店などの団体からは「喫煙客が離れる」などと、反対意見が相次ぎました。

      受動喫煙は、脳卒中や肺がんなどのリスクを高めるとされ、厚生労働省は不特定多数の人が出入りする施設を中心に喫煙を規制し、違反した場合は管理者と喫煙者に罰金を科す方向で検討を進めています。
      31日は、厚生労働省などが都内で検討会を開き、消費者や飲食業界など10の団体から意見を聞きました。

      このうち消費者団体は「受動喫煙は、健康への影響が大きく対策を進めるべきだ」などと全面的に賛成しました。
      その一方で、飲食店の団体は、建物内を原則禁煙とする規制の方向について「経営が厳しい中、喫煙客が離れて経営が打撃を受ける」などと、自主的な分煙の取り組みにとどめるよう求めました。
      また、敷地内を全面禁煙にする方向で検討が進められている病院の団体からは「病棟によっては、建物内の禁煙にとどめて欲しい」という声が上がるなど反対の意見が相次ぎました。

      厚生労働省は、今後も業界団体などと協議を進め、早ければ来年の通常国会に必要な法案を提出する方針です。
      http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161031/k10010750701000.html

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  39. ラスコー洞窟壁画を精密に復元し展示 あすから東京で
    10月31日 16時51分

    今からおよそ2万年前に描かれたとされ、保全のために見学することができない、フランスのラスコー洞窟の壁画を精密に復元した実物大の壁画が、11月1日から東京で公開されます。

    フランス南西部のラスコー洞窟には、今からおよそ2万年前の旧石器時代に、クロマニョン人が描いたとされる馬や牛、鹿などの壁画が残され、世界遺産にも登録されていますが、見物客が押し寄せたことなどから状態が悪化し、現在は保全のために公開されていません。

    この貴重な洞窟壁画を紹介する特別展が、東京・上野の国立科学博物館で開かれることになり、31日に内覧会が開かれました。

    会場には、壁画の一部を洞窟の壁ごと実物大で復元したコーナーが設けられています。
    壁画は3次元レーザースキャンなどを使って計測したあと、当時の絵の具を用いて手作業で描かれ、1ミリ以下の精度での復元を実現させたということです。
    巨大な黒い牛や躍動感あふれる馬などを間近に観察することができ、動物の輪郭部分に石器を使って施された「線刻」も忠実に再現されています。

    展示を監修した、国立科学博物館人類史研究グループ長の海部陽介さんは「実物大で再現された壁画を近くで見ることができ、とても迫力があります。クロマニョン人の魅力を知ることができる、とても楽しい展示です」と話していました。

    「世界遺産ラスコー展」は、11月1日から来年の2月19日まで、国立科学博物館で開かれ、その後、宮城県と福岡県に巡回します。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161031/k10010750831000.html

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  40. 受動喫煙の場所は飲食店が4割余 対策を強化へ
    11月20日 4時43分

    他人のたばこの煙を吸い込む受動喫煙を経験した場所について厚生労働省が調査したところ、「飲食店」と回答した人が4割余りで最も多かったことがわかりました。厚生労働省は健康被害を防ぐため、受動喫煙の対策を強化する検討を進めています。

    厚生労働省は受動喫煙などの状況を調査するため、2年に1度、アンケート調査を行っていて、去年11月に全国のおよそ3500世帯から回答を得ました。

    この中で、過去1か月の間に受動喫煙を経験した場所について複数回答で聞いたところ、「飲食店」と回答した人が41.4%で最も多く、次いで「遊技場」が33.4%、「職場」と「路上」がともに30.9%でした。さらに、医療機関や行政機関、それに学校という回答もそれぞれ5%前後あったということです。

    また、受動喫煙の対策を強化してほしい場所を聞いたところ、「飲食店」が35%と最も多く、次いで「路上」が34.8%、子どもが利用する「公園」や「通学路」が28.2%となっています。

    厚生労働省は、受動喫煙による健康被害を防ぐため不特定多数の人が集まる施設を中心に原則として建物内を禁煙とし、違反した場合は罰金を科すなど対策を強化する検討を進めています。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161120/k10010775611000.html

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    1. 「受動喫煙」のニュース
      http://www.2nn.jp/word/%E5%8F%97%E5%8B%95%E5%96%AB%E7%85%99

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    2. 受動喫煙嫌煙ファシズムに邁進する、どこぞの異次元おカルトな役人組織のなかのひとびと…

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  41. [本よみうり堂]「ひとり」の哲学 山折哲雄著
    2016年12月4日5時0分

    生と死を追体験する旅

      評・納富信留 ギリシャ哲学研究者・東京大教授
     「人はひとり死ぬであろう」(パスカル)「生ぜしもひとりなり、死するもひとりなり」(一遍)

     孤独死や独居老人など、単独であることが不幸や悪であるかのように言われる一方で、常に誰かと繋つながっていないと不安という過剰な他者依存、非自立も社会問題となっている。それは本当の「ひとり」が確立できていないからではないか。宗教学を専門とする著者は、この状況に警鐘を鳴らしつつ、日本の歴史にあるべき姿を求める。

     日本で「ひとり」という人間のあり方を打ち立てた時代があった。それは「軸の時代」とも呼ぶべき13世紀の思想家たちである。親鸞、道元、日蓮の3人を中心に、彼らに先立つ法然、最後を飾る一遍を取り上げ、その生き様や思想をふり返る。それぞれの仕方で葛藤しつつ、「ひとり」で歩む生き方を作り上げた人々の姿がそこにある。

     著者はその哲学に出会うため、現代に彼らの足跡を辿たどる旅に出る。旅と言っても、鎌倉時代に先人がひたすら歩いた道を、レンタカーと高速であっという間に走破してしまう。だが、車中や史跡で去来する想念が、過去と現在、私たちと仏教者たちの「こころ」を交差させる。そこには、著者自身の辿ってきた人生や人々との出会いが混じり合う。著者とともに空想と追体験に身をまかせる旅が、私たちもまた「ひとり」になる道なのであろう。

     「ひとり」となるとはどのようなことか。非僧非俗や座禅や異端や捨聖すてひじりといった特異な形で、死を受け入れながら生きる覚悟、その境地を開いたのが彼ら鎌倉仏教者であった。その姿が屹立きつりつする。

     歴史や宗教の意識が希薄になっている現代、私たちは寄る辺のない社会を嘆きがちである。だが、人間は誰しも、一人で生まれ、一人で死ぬ。その原点に立ち返るべきであろう。老齢に立った著者の姿にもまた、私たちが学ぶべき「ひとり」を見る思いがする。

     ◇やまおり・てつお=1931年、米サンフランシスコ生まれ。宗教学者、評論家。国際日本文化研究センター名誉教授。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20161203-118-OYTPT50429

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    1. しったか顔で『「ひとり」の哲学』を語る学者風商売人…

      商売のテダレが「ひとり」の哲学を語れるのかという素朴なギモン…

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    2. こいつはオウムのときも商売が上手だったぜ(笑)。

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  42. 肺癌学会員の2割が「勤務地、全面禁煙でない」
    2016年12月24日7時26分

     肺がんの診療に携わる日本肺癌がん学会の会員の2割近くが、勤務先の医療機関が敷地内全面禁煙になっていないと回答したことが、同学会の調査で分かった。

     国は受動喫煙防止対策として、医療機関の敷地内全面禁煙を打ち出したが、対応の遅れが明らかになった。

     同学会の禁煙推進小委員会が昨年11月から今年8月にかけて、全会員を対象に禁煙に関するアンケートを実施。14%にあたる1044人から回答があった。

     勤務する医療機関の禁煙対策について、80%が「敷地内全面禁煙」としたが、10%は「屋内のみ禁煙」、6%が「(建物内に)喫煙区画あり」と答えた。肺がん患者の喫煙には85%が「吸うべきでない」とする一方、学会員を非喫煙者に限ることに「賛成」としたのは75%だった。

     調査をまとめた高野義久医師(熊本県八代市)は、「禁煙についての医学教育が遅れている。たばこと関連が深い肺がんを日常的に診ている会員こそ、禁煙にもっと高い意識を持つべきだ」と話している。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20161223-118-OYT1T50091

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  43. 状況はもうとっくに「禁煙ファシズム」真っ只中…

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  44. 受動喫煙対策 飲食店内 原則禁煙…法改正案概要 喫煙室 認める
    2017年1月16日15時0分

     非喫煙者もたばこの煙を吸い込む「受動喫煙」への対策を盛り込んだ健康増進法改正案の概要が16日、明らかになった。飲食店内は原則禁煙とするが、喫煙室の設置を認め、悪質な違反者には過料を科すことなどが柱になっている。政府は20日召集の通常国会に改正案を提出する方針だ。

    悪質違反に過料

     改正案では、医療機関や小中学校などは敷地内を全面禁煙とした。大学や官公庁は屋内を全面禁煙としたが、屋外での喫煙は容認した。飲食店や駅構内なども屋内原則禁煙としたが、喫煙室の設置を認めた。

     不特定多数の人が利用する官公庁や公共交通機関などの施設管理者に、〈1〉喫煙禁止場所であることを掲示する〈2〉喫煙が禁止されている場所に灰皿などを置かない〈3〉禁止場所で喫煙した人に中止を求めるよう努める――などの責務を課すことも明記する。違反した喫煙者や施設管理者には、都道府県知事などが勧告や命令などを出し、改善しない場合は過料を科す。

     受動喫煙対策は、2020年の東京五輪・パラリンピックなどに向け厚生労働省が検討している。国際オリンピック委員会(IOC)は10年、世界保健機関(WHO)と「たばこのない五輪」を実現することで合意。厚労省によると、10年のバンクーバー大会以降の開催地では、学校や官公庁、飲食店などで屋内禁煙を義務化した。いずれも施設管理者には罰則を科している。改正案は、近年の五輪開催地の受動喫煙防止策を調査し、屋内を全面禁煙とするなど最も規制が厳しい英国と、屋内に喫煙室設置を認めるなど最も規制が緩やかな韓国の混合型になった。

     改正案は、厚労省が昨年10月にたたき台として公表した受動喫煙対策の原案に沿った内容となっている。同案に対しては、売り上げ減少を懸念する飲食店などの業界団体が反対しているが、医療関係者らからは分煙では受動喫煙を防げないとして禁煙規制を強めるよう求める声も出ている。今後、与党内の調整で内容が修正される可能性もある。

     たばこの葉を電気で温めて蒸気を吸う「加熱たばこ」については、規制対象にするかどうか、厚労省で検討している。紙巻きのたばこのような煙は出ないが、蒸気も煙と同じように周囲に届くからだ。ただ、これまで健康被害などについての研究は少ないことから、同省は調査を進めている。

     ◆受動喫煙=室内などで他人のたばこの煙を吸わされること。厚生労働省は、受動喫煙を原因とする死者は年間1万5000人を超えると推計しており、「健康への悪影響は明確」としている。現行の健康増進法では、受動喫煙防止策を講じるよう求めているが、努力義務にとどまっている。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170116-118-OYTPT50231

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  45. JT「わかば」「エコー」など6銘柄値上げへ
    1月27日 17時44分

    JT=日本たばこ産業は「わかば」や「エコー」など、6つの銘柄のたばこで、ことし4月から30円の値上げを財務省に申請したと発表しました。

    JTの発表によりますと、値上げの申請を行ったのは「わかば」、「エコー」、「ウルマ」、「バイオレット」、「しんせい」、「ゴールデンバット」の6つの銘柄です。

    いずれも1箱当たり30円値上げするとしていて、「わかば」の場合、290円から320円に値上げする予定です。

    6つの銘柄の値上げ幅について、JTでは、これまで特例として、ほかより低くなっていた税率が段階的に引き上げられていること、それに値上げに伴う需要の減少を見込んだ結果だとしています。

    JTは財務省の認可を得たうえで、ことし4月1日から値上げを実施することにしています。

    これらの銘柄では、来年4月以降も税率が引き上げられるため、JTでは市場の動向を見極めながら、さらなる値上げを決定していきたいとしています。
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170127/k10010855301000.html

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    1. JTのたばこ販売、最少更新…昨年1062億本
      2017年1月29日16時53分

       国内でのたばこの消費が減っている。

       社会の少子高齢化や健康志向の高まりで、喫煙者の数が減少していることが要因だ。

       日本たばこ産業(JT)によると、2016年の紙巻きたばこの販売数量は前年比2・8%減の1062億本だった。前年割れは3年連続。販売数量は東日本大震災によりたばこ製品が一時出荷停止となった11年以来、過去最少を更新した。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170129-118-OYT1T50008

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  46. バーやスナック 喫煙OK…子供・妊婦 利用少なく
    2017年2月8日15時0分

     政府は、非喫煙者がたばこの煙を吸い込む「受動喫煙」対策を盛り込んだ健康増進法改正案について、小規模な飲食店のうち、酒類を提供するバーやスナックなどを例外とする方針を固めた。

    30平方メートル以下 受動喫煙策例外

     政府は2020年東京五輪・パラリンピックに向けて、受動喫煙対策を強化する改正案を今国会に提出する予定だ。当初はすべての飲食店を建物内禁煙とし、喫煙室の設置を認める方向だったが、客離れを懸念する飲食業界から反発があり、厚生労働省が例外措置を検討していた。

     厚労省の案によると、例外とするのは、調理場を含む延べ床面積30平方メートル以下の飲食店のうち、酒類を提供するバーやスナック、キャバレーなど。受動喫煙による健康被害が大きい子供や妊娠中の女性の利用が少ないため、店頭に喫煙可能と表示することなどを条件に喫煙を認める。

     一方、ラーメン屋やそば屋、すし屋などは原則通り禁煙とする。子供や妊婦を含め、不特定多数の利用が想定されるためだ。家族連れや外国人客が多い居酒屋や焼き鳥屋などを例外に含めるかどうかや、店舗の規模などについては政府・与党内で引き続き調整する。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170208-118-OYTPT50293

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    1. バーやスナック、喫煙OK…受動喫煙対策で例外
      2017年2月8日15時53分

       政府は、非喫煙者がたばこの煙を吸い込む「受動喫煙」対策を盛り込んだ健康増進法改正案について、小規模な飲食店のうち、酒類を提供するバーやスナックなどを例外とする方針を固めた。

       政府は2020年東京五輪・パラリンピックに向けて、受動喫煙対策を強化する改正案を今国会に提出する予定だ。当初はすべての飲食店を建物内禁煙とし、喫煙室の設置を認める方向だったが、客離れを懸念する飲食業界から反発があり、厚生労働省が例外措置を検討していた。

       厚労省の案によると、例外とするのは、調理場を含む延べ床面積30平方メートル以下の飲食店のうち、酒類を提供するバーやスナック、キャバレーなど。受動喫煙による健康被害が大きい子供や妊娠中の女性の利用が少ないため、店頭に喫煙可能と表示することなどを条件に喫煙を認める。

       一方、ラーメン屋やそば屋、すし屋などは原則通り禁煙とする。子供や妊婦を含め、不特定多数の利用が想定されるためだ。家族連れや外国人客が多い居酒屋や焼き鳥屋などを例外に含めるかどうかや、店舗の規模などについては政府・与党内で引き続き調整する。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170208-118-OYT1T50080

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    2. 受動喫煙対策 強化に異論…政府案 与党との調整難航も
      2017年2月10日5時0分

       非喫煙者がたばこの煙を吸い込む受動喫煙への対策として、飲食店内を原則禁煙とする政府案に異論が出ている。政府は健康増進法改正案を3月に国会へ提出する方針だが、飲食業界からは客離れを懸念する声も上がっており、与党との調整は難航が予想される。

      飲食業界 客離れ懸念

       受動喫煙対策の強化は、2020年の東京五輪・パラリンピックなどに向け、厚生労働省が検討している。医療機関や小中学校などは敷地内を全面禁煙、大学や官公庁は屋内を全面禁煙にする。飲食店も原則として建物内を禁煙(喫煙室は設置可能)とするが、30平方メートル以下のバーやスナックは店頭に喫煙可能と表示することなどを条件に、喫煙を認める方向だ。

       自民党が9日開いた厚生労働部会では、出席者から対策強化に異論が噴出した。渡嘉敷奈緒美部会長によると、「五輪のためなら、東京だけ規制を強化すればいい」といった批判的な意見が「90%以上を占めた」という。ただ、部会では「海外と比較して日本の受動喫煙対策は遅れている」として、規制強化に向けて前向きに議論すべきだとの意見も出た。

       飲食店や外食チェーンなどには、客離れや喫煙室設置によるコスト増への懸念もある。外食チェーンなどで構成する「日本フードサービス協会」の菊地唯夫会長は1月12日、東京都内で開いた規制反対の集会で「受動喫煙規制は多様性のある外食産業の魅力を損なう可能性がある」と述べ、喫煙や禁煙の判断は事業者に委ねるべきだとの考えを強調した。

       外食チェーンの多くは、すでに分煙対策を取っているが、厚労省の規制案では喫煙スペース内で飲食できなくなるため、「対策を再検討しなくてはならない」(タリーズコーヒージャパン)との声も出ている。

       特に影響が大きいとみられているのは、比較的規模が小さい喫茶店や居酒屋だ。限られたスペースで営業しているため、喫煙室の確保が難しいケースも多いという。東京都千代田区で喫茶店(約85平方メートル)を営む曽我正勝さん(72)は「客の7割はたばこを吸っている。禁煙となれば客足は減るかもしれない」と語る。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170210-118-OYTPT50067

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  47. 小中で「鎖国」消える…聖徳太子は「厩戸王」に
    2017年2月15日9時57分

     「鎖国」が消える――。

     文部科学省が14日に公表した次期学習指導要領の改定案では、小中学校の社会科で「鎖国」の表記をやめ、「幕府の対外政策」に改める。文科省は中学歴史でも、「聖徳太子」が没後100年以上たって付いた呼称だとして、「厩戸王うまやどのおう」に変える。

     文科省によると、江戸幕府は長崎でオランダや中国との交易を許し、薩摩(鹿児島県)、対馬(長崎県)、松前(北海道)でも外交と貿易が行われていた。完全に国を閉ざしていたわけではないため、当時の実態に即して表記する。

     「鎖国」は1801年、ドイツ人医師の著書の一部が和訳され、「鎖国論」と名づけられたことから広まったといい、文科省の担当者は「幕府の政策に関し、鎖国という言葉は使われていなかった」としている。これに対し、「開国」という語は、欧米諸国との関係を表す際に使われていたため、現状のまま残す。

     また、中学歴史の現行指導要領にある「聖徳太子」は、「厩戸王(聖徳太子)」に改める。ただ、人物に焦点を当てる小学校では、なじんでいるとの理由で「聖徳太子(厩戸王)」の表記にする。実際の教科書では、すでにこうした表記の変化が表れている。

     一方、小中学校の体育などでは「不安や悩み」「ストレス」への対処法を学ぶと新たに明記された。今後、深呼吸して気持ちを落ち着かせる「呼吸法」や、体をリラックスさせる方法などが指導要領の解説書に盛り込まれる見通しだ。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170214-118-OYT1T50142

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    1. よみうり寸評 2月15日
      2017年2月15日15時0分

       書店のビジネス書の棚に時々、「要約力」と書かれた本の背表紙をみかける◆簡潔に物事を説明する能力のことだろう。悩んでいる人が多いのかもしれない。きちょうめんが高じ、あれもこれも説明しようなどと考えていると、かえって要点が伝わらず相手の時間をむだにしてしまうことがある◆その点からすると、もったいなくてしかたない。【鎖国】の表記が小中学校の社会科から消えるという。次期学習指導要領の改定案である。元々は江戸期に訪れた独人医師の著書から逆輸入した言葉とされる◆「長崎のほか、鹿児島や北海道で交易が行われており、実態に合わないため」(文部科学省)という。授業では幕府の渡航禁止令などを具体的に教えることになるのだろうが、やや不満を禁じえないでいる。たぶん【鎖国】という言葉が海外の宗教や文化への恐れ、拒否感を実に簡潔に言い得ているからだろう◆それにしても、この医師、見事な要約力である。長崎・出島に住んだエンゲルベルト・ケンペルという人らしい。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170215-118-OYTPT50317

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  48. 聖徳太子ゆかりの太子道を歩く

    聖徳太子の命日とされる22日、太子の亡きがらが運ばれたとされる、斑鳩町から大阪・太子町までの古代の道、「太子道」を歩く催しが開かれました。
    この催しは、聖徳太子の遺徳をしのぼうと、太子ゆかりの斑鳩町の法隆寺が、毎年、開いていて、今年は、奈良や大阪などからおよそ120人が参加し、太子の像をのせた、こしを先頭に寺を出発しました。太子道は、太子の亡きがらを斑鳩町の住まいから、大阪・太子町の墓まで運んだとされるおよそ20キロの道です。
    一行は、途中、太子の一族が葬られているとも言われる藤ノ木古墳や、法隆寺を建立する際に、どこに建てるのかお告げを受けたとされる龍田神社に立ち寄り、研究者から説明を聞いて、太子の遺徳をしのんでいました。
    参加した60代の女性は、「太子道が、日本遺産に申請されたと聞いて参加しました。歴史が好きなので勉強になりました」と話していました。
    02月22日 15時40分 NHK奈良放送局
    http://www3.nhk.or.jp/lnews/nara/2053578051.html

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  49. 2017.3.7 20:55 産経ニュース
    「聖徳太子」守れ つくる会が次期指導要領案で要望 「日本主体の古代史ストーリーが崩壊する」

     文部科学省が2月に公表した小中学校の次期学習指導要領改定案について、「新しい歴史教科書をつくる会」(高池勝彦会長)は7日、現行の「聖徳太子」を「厩戸王(うまやどのおう)」との併記とした歴史用語の変更を取りやめるよう求める文書を文科省に提出した。

     文書では、「厩戸王の呼称になれさせようとしている」と指摘。「律令国家形成の出発点となった聖徳太子を抹殺すれば、日本を主体とした古代史のストーリーがほとんど崩壊する」と批判している。

     改定案では、人物に親しむ小学校で「聖徳太子(厩戸王)」、史実を学ぶ中学で「厩戸王(聖徳太子)」に変更。文科省は、歴史学では「厩戸王」が一般的としている。
    http://www.sankei.com/life/news/170307/lif1703070042-n1.html

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    1. お話(物語)と「史実」をごっちゃにしないほうがよいと思われ…

      まるで古代版「赤穂事件」「忠臣蔵」混同案件…

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    2. 「聖徳太子」は、実在のモデルを下敷きにした「創作もの」の可能性が大…

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  50. [時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦 84<1>はじまりは東京裁判
    2017年3月14日5時0分

     日本の近現代史を実証主義的な立場から研究してきた秦郁彦さん。当事者のヒアリングや1次資料を駆使して、満州事変以降の戦争史や、慰安婦問題などの実像に迫ってきた。秦さんに歴史家人生を振り返ってもらう。

    (編集委員 笹森春樹)

     私が近現代史の研究を始めた昭和20年代、歴史的資料を自由に使える時代が到来しました。東京裁判がきっかけです。この裁判については、勝者が事後法で裁いたのは不当として否認する見方が強まっています。しかし東京裁判で、明治以来80年間の日本近代史の隠されていた部分が一挙に公開されました。それはスリリングな体験でした。

     ただ、東京裁判でも隠し通された部分があると私は感じていました。それを解明し、昭和初年の歴史におよその筋道をつけたいというのが、私が歴史家の道へ踏み出した動機です。その目標はほぼ達成できたような気がします。60年の歴史家生活を振り返ると、幸運に恵まれたと思います。

     私はよく、実証主義的歴史家と言われます。しかし本来、歴史が実証的なのは当たり前で、雨漏りをしない家を建てた大工さんをほめそやすような話です。私が実証主義者と言われるのは、そうでない人が少なくないからでしょうか。

     私が歴史研究に取り組み始めた頃、歴史学界は、マルクス主義の影響を強く受けていました。今も特定のイデオロギーに基づく歴史観は珍しくありません。しかし、歴史家は宮大工たれ、というのが私の持論です。宮大工は、細部にこだわりつつ堅牢けんろうな建物を組み立てていく。日本文化の精髄を内外に見せてやりたい、というような野心は持ち合わせない。でも、作るものは信頼ができるし、後世の評価にも堪えられる。歴史家も、徹底して史実にこだわるべきで、イデオロギー先行の歴史家は困ります。

     歴史家は定年のない職業と言われますが、現場に足を運び、関係者を探し出し、対話を重ねる私の手法は、相当のエネルギーを要します。最近、頭に浮かぶのは、マッカーサー元帥の「老兵は死なず。ただ、消えゆくのみ」という金言です。私も84歳の老兵となり、間もなく第一線から去っていく身です。

     とはいえ、まだ残った仕事があります。米国の出版社から、自著「慰安婦と戦場の性」の英語版刊行を予定しています。韓国などが昨年、日本軍の慰安婦の資料をユネスコの世界記憶遺産に登録申請しました。今秋、登録の採否が決まる見通しですが、それまでに間に合えばと思っています。

     (この連載は、月~木曜と土曜日に掲載します)

         ◇

     はた・いくひこ 1932年(昭和7年)、山口県防府市生まれ。東大在学中、元戦犯から満州事変の謀略の実態を聞き出すなど、近現代史の実証的研究を始めた。大蔵省に勤務し、戦後財政史を編さん・執筆。法学博士。「昭和史の謎を追う」(菊池寛賞)、「明と暗のノモンハン戦史」(毎日出版文化賞)など著書多数。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170313-118-OYTPT50417

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    1. [時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<2>大本営発表に疑問抱く
      2017年3月15日5時0分

       1941年12月8日、太平洋戦争が始まります。私が小学校3年生の時で、朝、父親に起こされて、開戦を知りました。

       勝った、勝ったのニュースが連日流れる。私は大本営発表を新聞記事で読み、ノートに書き写すようになりました。子供だから、書き写すと、記憶に残る。戦中の主な出来事の日付、場所、戦果は、今でも忘れません。

       戦後、大本営発表はうその代名詞のように言われます。私も書き写していて、疑問に感じることがありました。例えば、真珠湾攻撃に特殊潜航艇で参加し、戦死した「九軍神」。2人乗りの特潜が5隻だから、10人のはずなのに、なぜ9人なのか。実際は酒巻和男少尉が捕虜になったため、その存在を隠して発表していたわけですね。

       ラバウル航空戦もよく記憶しています。例えば201機撃墜の戦果。空中戦としては、大本営発表で最大の戦果でしょう。戦後、実数は19機と判明します。43年11月2日のことです。

       《ラバウル(ニューブリテン島)は、日本陸海軍の航空隊が集中し、南太平洋の一大航空拠点だった》

       しかし、子供ながら不思議だなあと思いましたよ。翌日もまた、前日と同じ数の米軍機がラバウル攻撃にやってくる。それを日本の戦闘機が迎え撃ち、派手な戦果を発表しますが、「落としても落としても減らない物量攻勢」と解説しているうち、ラバウル航空隊は撤退してしまいます。

       それでも日本が負けている予感はありませんでしたが、変だなと思ったのは、終戦の前年、44年の暮れです。大本営は毎年末になると、その年1年間の総合戦果を発表するのですが、44年に限って総合戦果の発表がなかったのです。

       大本営発表で、何月何日、米艦何隻が沈んだと書き写しておいたのを私なりに集計してみると、44年は30隻か40隻くらいの米空母が撃沈されているはずでした。米軍にそんなに多くの空母はないから、バツが悪かったのでしょうか、総合戦果の発表を控えたのです。

       大本営の誇大な戦果発表として悪名高いのが、同年10月の台湾沖航空戦です。米空母11隻撃沈と発表されました。逆転のチャンス到来と大喜びした国民に、政府が酒の特配をしたくらいです。ところが、数日後、日本の偵察機は、米艦隊が健在であることを発見します。実際には、空母撃沈はゼロでした。

       その直後のフィリピン戦は、天王山と言われ、私の父もルソン島で鉄道建設に当たっていたので重要な関心事でした。

       戦闘の実態はどうだったのか。戦後、大本営発表と米軍発表の食い違う二つの数字をつきあわせ、それを機に戦史研究へのめりこみます。今となっては、歴史の虚実を肌身に感じた良い教訓だったと思います。

       ついでに、米国も必ずしも戦果を正直に発表していない事実を知りました。自国に不利な情報を出したくない気持ちは、共通の心理なのでしょう。

       (編集委員 笹森春樹)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170314-118-OYTPT50343

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    2. [時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<3>戦前期日本の「本音と建前」
      2017年3月16日5時0分

       日本歴史における最大級の虚構は、「日本紀元二千六百年」説でしょう。

       「紀元は2600年」と歌にもなりました。日本の歴史は西暦より600年長い。日本がいかに古い立派な国か、それが教育の核心になるわけですね。

       《1940年11月、紀元(皇紀)二千六百年を記念する奉祝行事が全国で行われた。建国神話を元に、神武天皇の即位から2600年になるとされた》

       小学校で日本史を初めて習ったのは4年の時でした。教科書の巻末に、歴代天皇の名前、在位期間、生没年が書いてある。当時の小学生は、歴代天皇の名前を暗唱するのが義務とされました。神武天皇から124代の今上天皇、つまり昭和天皇までです。あの年頃は覚えが早く、私もすぐに覚えました。

       ところが、疑問を持ちましてね。最初期の天皇がそろって長命なんです。140歳とか、120歳とか。15代目を過ぎた頃から普通の寿命になるんですね。

       私は、サバを読んでいるのではないかと察しました。ただ、先生に聞いても困惑するだろう。小学生でも、そうした知恵が働くんですね。同じような疑問を持ったのは、私だけではないでしょう。

       軍部独裁国家というか、そういう体制の下では、真実は国民に知らされないことが多く、知ったとしても、うかつにそれを口に出せない。そういう気配りを、小学生レベルから強いられる体験をしたんですよ。戦争に負けたとたんに、600年くらいサバを読んでいるのではという推測は、その通りと分かったわけです。

       その意味で、本音と建前を使い分けることが、戦前の日本で生きていくには重要だったんですね。うまく使い分ける人がエリートの座に就く。

       戦前から尊皇論者は、天皇に「玉ぎょく」という隠語を使い、思うままになってくれないと怒るんです。天皇制は大事だが、個々の天皇に対する敬意はあまりない。昭和天皇が生物学のご研究をしていたことが気に入らない軍人連中もいた。「そんな暇があるなら、馬の稽古でもされたらどうだ」と参謀本部で叫ぶエリート将校がいたそうです。

       内務官僚出身の増田甲子七かねしち(戦後、吉田内閣官房長官)も回想録に書いています。2・26事件の頃に、陸軍中将の柳川平助が「不適任なら、別の人と替えてもよいのだ」と放言したので、増田は「あなたは逆賊だ」と反発したそうです。

       つまり、顕教と密教の使い分けなんです。将軍たちが「承詔必謹しょうしょうひっきん」、天皇の命令は絶対と訓示します。これは顕教です。ところが、密教の部分では、天皇にいかに裁可の判子を押してもらうか、そのテクニックがないと出世できない。

       軍人に限らず、政治家や官僚も政治をやっていく上で、顕教だけじゃ回っていかない。そうかと言って、密教の部分をうかつに公言すると、特高警察に捕まる。憲兵がやってくる。今も世界で似たような国があるんじゃないでしょうか。

       (編集委員 笹森春樹)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170315-118-OYTPT50388

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    3. [時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<4>国鉄マンだった父 戦死
      2017年3月18日5時0分

       父は国鉄の技術者でした。九州の宮崎、出水(鹿児島県)、若松(北九州市)の順で機関区長をしています。転勤が多く、私は小学校を5回転校しました。いじめにあったこともあります。

       陸軍は毎年、各地で大演習をしていました。それを統監する天皇のお召し列車が来るときは、関係者は大変です。天皇が下車する所に赤じゅうたんが敷いてある。そこにぴたっと停車しないといけない。

       だから、半年前から一番優秀な機関士が指名され、練習を重ねます。私が覚えているのは、父の部下の機関士が、きれいに止めることができ、その晩、機関士を上座に据えてみんなでお酒を飲んでいた光景です。

       小学校5年に進級する前、父がフィリピンに行くことになり、広島市の父の実家に、母、妹2人とともに引っ越しました。1943年3月のことです。私は毎朝、今の原爆ドームの横を通り、護国神社まで走るのを日課にしていました。

       幸い、私たちは翌年秋、母の実家の山口県防府市に引っ越したため、被爆を免れています。

       父方の親族も、郊外にいたり、兵役で外地にいたりして、原爆で死んだ人はいません。

       戦後、何年かたって、広島に行き、生き残った同級生から、誰それは死んだということを聞きましたが、全貌は分かりませんでしたね。何人か仲が良かった友達の幼顔は、今でも目に浮かびます。

       陸軍司政官としてフィリピンに行った父は、ルソン島のカガヤン鉄道の建設に携わりました。

       《日本軍は国防資源確保を主目的に東南アジアの占領地に軍政を敷いた。日本の官公吏や技術者、会社員らが占領地行政に徴用された》

       父は、終戦1か月前の45年7月に戦死しました。ルソン島の奥地に、山下奉文ともゆき将軍の第14方面軍司令部があり、米軍に追いつめられた日本軍は、そこへ通じるルートを逃げていったわけですね。日本軍の死者は、半分以上が餓死か病死でしょう。父のいた鉄道部隊も、どこでどう死んだか分からない人がいます。

       父は自決したらしいです。マラリアにやられたのかな。動けなくなったんでしょうね。「足手まといになるから」という言葉を残して。それを報告した人も、すぐに亡くなったそうです。だから、目撃証人はいないんです。

       後の話ですが、63年、私は米国留学に行く途中、父が戦死した場所近くまで行ってみました。乗り合いタクシーの同乗客に、父がフィリピンで死んだことを話すと、険悪な雰囲気になりましてね。「自分の家族はサンチャゴ監獄で日本の憲兵に処刑された」と言われました。これはやばいなと思いましたよ。

       ところが「私の父は、戦闘ではなく、カガヤン鉄道を建設するために来た技術屋なんだ」と言うと、空気が一変しました。「俺のうちに来て泊まれ」と。それは謝絶しましたが。

       (編集委員 笹森春樹)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170317-118-OYTPT50374

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    4. [時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<5>あだ討ちの心情消えた
      2017年3月20日5時0分

       小学6年生のとき、母の実家の山口県防府市に引っ越しました。1944年9月です。翌春、県立中学に入学するつもりでしたが、45年3月の西日本空襲で、入学試験は中止され、内申書だけの選考になり、私は転校したばかりだったせいか、不合格。急きょ、私立の多々良中学に願書を提出し、入学しました。

       授業は、4、5月は一通りきちんとありましたが、やがて休止状態になりました。この学校は、当時珍しい鉄筋コンクリートで、呉海軍工廠こうしょうの分工場に使われることになり、生徒はモッコ担ぎの勤労奉仕をやらされました。

       でも、その後、私は防空監視哨しょうを仰せつかりましてね。空襲の警報が出ると、伝令役をするのですが、何もないときは、裏山の木陰で寝転がって下校時まで過ごすのです。授業はなく、労働もせずにすごせるのは天国みたいだと思いました。だから終戦になって、授業が再開になると、いささかがっかりしました。

       《45年8月15日、終戦。軍部の戦争継続の主張を、昭和天皇が2度の聖断で抑え込んだ末だった》

       自宅で昭和天皇の玉音放送を聞きましたが、雑音でよく聞こえませんでした。割に性能のいい米国製のラジオだったのですが。

       私は、母や先輩たちの終戦のエピソードをさんざん聞いてきたので、それが自分の経験と錯覚する部分があるのかなと思うんです。

       母は8月15日の夜は、灯火管制をしなくて済み、ほっとしたと言っていました。おそらく全国みんなそうなのでしょう。母の場合、終戦で父が戻ってくるかどうかが気になったはずです。父の戦死の公報が届くのは2年後のことです。

       授業はすぐ再開されました。民主主義の時代へ百八十度の転換です。よく、価値観が大きく変わったことのトラウマみたいなものが話題になりますが、私の場合はあまりなかったですね。12歳という年齢は、古い観念が体に染みついているとは言いにくいし、新しいものに対する免疫もないわけです。

       それでも負けたのは悔しかったですよね。市立図書館で「原子の話」という本を借りだし、何回も読みました。日本は原子爆弾に負けたんだと思いこみ、原子物理学を学んで、あだ討ちしてやろうと考えたんです。科学技術で日本が敗れたという認識は、国民全般の常識だったと思います。

       しかし、あだ討ちの気持ちはすぐに消えました。それは米軍の占領政策が成功したからだと言えます。

       徹底抗戦を主張し、反乱まで起こした中堅将校の一団がいますね。中心は、阿南あなみ陸軍大臣の義弟の竹下正彦中佐。彼は戦後、自衛隊に入りますが、米国流の民主主義が思ったより悪くないと実感するようになった、と書いています。幕末の攘夷じょうい思想が開国へ急転したのも、似たような反応だったのかもしれません。

       (編集委員 笹森春樹)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170319-118-OYTPT50286

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    5. [時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<6>朝鮮戦争 恩師の洞察
      2017年3月21日5時0分

       一時、理科系に傾いた私ですが、やがて文学に興味を持ち、中学3年の時、文芸部を創立し、ミステリー小説や評論を書きました。好きな作家はビクトル・ユゴー、トーマス・マン、ブロンテ姉妹などです。

       我々の世代は、マルクス主義の影響が大きく、高校生でも、信奉者が結構いました。世界にはソ連や中国などマルクス主義を実践している国がある。1949年には、米軍占領下なのに、日本でも「9月革命」の流言が広がり、共産党を首班とする閣僚名簿がひそかに出回ったりしています。

       私も人並みに関心を持ち、「資本論」は難しくて手が出ませんが、マルクス主義系の文献をかなり読みました。一方で、小泉信三さん(元慶応義塾長)たちのマルクス主義批判を読んで、啓蒙けいもうされました。

       マルクス主義にかぶれた同級生に、私が両方を並べて比較論評すると、彼らは「不まじめだ。一直線で行かなければ駄目なんだ」と怒りましたよ。

       大本営発表はうそが多かった。それと同じで、私は教祖マルクスやレーニンといえども、間違いを犯しているようだと気づいたのです。そうすると、関心は冷戦体制のなか、共産主義と修正資本主義のどちらが勝利するかに移りました。

       その間、朝日新聞山口支局が主催した高校生の討論大会に出て優勝したこともあり、私は米国流のプラグマティズムに傾斜します。しかし、私が好きになったディベートは、日本には定着しませんでしたね。

       私が幸運だったのは、校長の田中俊英先生から、個人教育の形で育ててもらったことです。田中先生は、曹洞宗の寺の住職でもありましたが、東大の哲学科出身で、仏教を理解するには西洋哲学の手法で入っていくべきだと言い、道元の思想を注入されました。

       田中先生は時事問題の授業を持っていました。50年6月、朝鮮戦争が始まりますが、その数日後の授業は今も鮮明に覚えています。

       先生は「これは北(北朝鮮)が南(韓国)へ侵攻したんだ」と明快に告げました。証拠は北朝鮮軍が、開戦初日に、38度線の南40キロの東海岸に位置する江陵などに上陸したからだ、というんです。開戦前から準備しなければ、初日に上陸作戦はできません。先生は目立たぬ数行の新聞記事に着目し、戦争の性格を見抜いたんですね。

       その後、朝鮮戦争については、南北のいずれが攻勢を発動したのかをめぐり、「先攻論争」が起きます。金日成、毛沢東、スターリンの合作による北の侵攻と確定するまで、20年以上を要しました。大ニュースに紛れ込んでいて、誰も気づかない小さな事実。それを読み解く田中先生の洞察力に、私は感動しました。

       その影響もあってか、私の歴史研究は、謎解きの比重が大きいのです。細部にとらわれて、大局を見失うなと強調する人は多い。しかし、「神は細部に宿りたまう」という金言もある。細部にまで目を光らせ、大局と結びつけるのが重要だと思っています。

       (編集委員 笹森春樹)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170320-118-OYTPT50214

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    6. [時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<7>白眉 丸山真男の分析力
      2017年3月22日5時0分

       1951年、東京大学教養学部文科1類に入学します。法学部か経済学部に進むコースでした。

       本来は文学部志望でしたが、父が亡くなっているので、一家を経済的に支えなくてはならない。実務の世界で働くことを考え、卒業後の就職に有利な法学部への進路を選んだのです。

       文学は世の中で必要とされているのか、という疑問もありました。昭和初年、日本の作家たちの間で、自分たちは社会の「余計者」だという意識があったらしいと知り、私も「余計者」になりたくはないなあ、と思ったのです。

       東大に入って、まず影響を受けたのが丸山真男先生です。西荻窪に住んでいた丸山さんのお宅をたびたび訪れました。

       《丸山は「超国家主義の論理と心理」などの論文で、日本軍国主義の構造を鋭く分析し、戦後の思想界に大きな影響を与えた。60年安保で思想的リーダーになるが、70年安保の頃に、東大の権威主義に反発する全共闘の過激派学生から糾弾された》

       丸山教授は政治思想史が専門です。1世紀に1人出るかどうかの、すごい研究者ですよ。その分析力とレトリックに、逆立ちしても追いつけないなと思いましてね。私は思想史の領域では丸山さんを超えられないと悟り、一般の歴史学に切り替えました。

       私が丸山さんを多とするのは、18歳の少年に対し、対等に相手をしてくれたことです。私が臆面もなくつっかかると、丸山さんも正面から反論するんですよね。そういう先生というのは、他に会ったことがない。学生と張り合っても仕方がないと、適当にいなして終わるのが普通でしょう。

       丸山さんはクラシックの愛好家で、レコードをたくさん持っていましてね。解説付きで随分聞かせてもらいました。

       丸山さんの目線は、他の先生とは違っていました。女子工員の集まりや労働組合の若手の勉強会には、遠いところでも、無条件で出かけて行く。学界仲間の討論などにはあまり参加しない。ただ、丸山さんは、途中から政治的行動に参加するようになり、祭り上げられていきます。

       丸山さんの親衛隊みたいな先輩たちが周りを取り囲んでいて、私のような若輩の一匹狼おおかみは、仲間に入れてくれない。先生を利用する輩やからがいたら困るから、それを追っ払うという感覚だったのでしょうか。

       法学部に進学したら、丸山ゼミに入るという約束になっていたのですが、丸山さんは肺結核が再発して2年間休職したため、入れませんでした。その代わりに入ったのが、日本政治外交史の岡義武先生のゼミです。メンバーは大学院生も加わり12~13人で、緒方貞子さん(元国連難民高等弁務官)もいました。岡先生は、30年たたないと歴史学の対象にはしない、という信条の持ち主でした。

       ただ私は、法学部へ進む前に1年間休学し、A級戦犯を含む軍人たちのヒアリングに没頭します。

       (編集委員 笹森春樹)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170321-118-OYTPT50378

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    7. [時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<8>巣鴨の戦犯 意外な横顔
      2017年3月23日5時0分

       戦犯ら軍人へのヒアリングを始めたのは、東京裁判で被告や関係者が隠し通した部分を明らかにしたかったからです。一種の謎解きですが、実際にやってみると面白い。集中したほうが効率的なので、1年間、休学して取り組みました。1953年のことです。

       前年に日本は独立を回復したので、関係者が口を開きやすいだろう、との期待もありました。

       《東京裁判は48年11月、A級被告25人の有罪を宣告。うち東条英機元首相ら7人が死刑になった。Aは犯罪区分で、侵略戦争など「平和に対する罪」を意味した。住民や捕虜の殺害など通常の戦争犯罪(B)、「人道に対する罪」(C)を合わせてBC級と呼ばれる》

       戦犯が服役していた巣鴨拘置所(プリズン)の管理は、連合国から日本政府に移っており、かなり緩やかになっていました。面会は自由だし、元企画院総裁の鈴木貞一・元中将(A級戦犯で終身禁錮)からは、「週末、俺の家に来て、メシを食わんかね」と誘われ、訪れると目黒区駒場の大邸宅でした。

       拘置所にはBC級戦犯もいました。その中には、家族を養うため、夕方から、大塚駅前でおでん屋をやり、拘置所に寝に帰るという人もいたんです。

       今村均・元大将(オーストラリア軍の裁判で禁錮10年)は、鉄格子の向こう側に、獄衣で現れました。ほかの戦犯は応接室で会うのですが、おそらくオーストラリアから注文がついていたのでしょう。今村さんはBC級では一番の大物。開戦初頭、第16軍司令官として石油獲得のための蘭印作戦を指揮し、その後、ラバウルの第8方面軍司令官を務めた人です。マヌス島(ラバウル沖)での服役から帰国し、残る刑期を巣鴨で過ごしていました。

       非常に親切な人で、「その点は何々君のところへ行ってごらんなさい。たぶん、しゃべってくれると思いますよ」と助言をくれるんです。もったいをつけず、きちんと答えてくれました。

       橋本欣五郎・元陸軍大佐(A級戦犯で終身禁錮)は、いくつものクーデター計画に連座した暴れ者でした。3、4人の右翼と一緒の場面で、「おう、君も革命をやらんか」とハッパをかけられた時は、驚きました。彼は「三つ子の魂」で、何も変わっていないんです。

       私が「革命もいいですが、三月事件(31年に起きたクーデター未遂事件)のことを、もう少しお聞きしたいんですが」と言うと、取り巻きの男へ、「これから大事な話をするんだ。今日は帰れ。また出直してこい」と命じていました。

       佐藤賢了・元陸軍省軍務局長(終身禁錮)は最年少でA級戦犯になった人物です。帝国議会の審議で、議員に「黙れ」と一喝して有名な人ですが、本人は「A級に指名されたのは光栄だ」と喜んでいました。

       当時の一般的な風潮として、戦犯に限らず、軍人は悪党ばかりとの思いこみが強く、学生が話を聞きにくることなど意外だったんでしょうね。彼らはそろって好意的でした。(編集委員 笹森春樹)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170322-118-OYTPT50413

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    8. [時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<9>柳条湖事件 30年の探索
      2017年3月25日5時0分

       ヒアリングを始めたときに、まず究明したかったのが、満州事変の起点となった柳条湖事件です。

       《1931年9月18日夜、中国・奉天(現・瀋陽)郊外の柳条湖で、日本権益の満鉄線が爆破された。関東軍は自作自演の陰謀にもかかわらず、中国軍の仕業だとして攻撃を開始、満州占領へと拡大させた》

       柳条湖事件は、東京裁判で決定的な証拠が出されたわけではありません。事変の中心人物だった2人の関東軍参謀、石原莞爾かんじと板垣征四郎(A級戦犯で刑死)はもちろん、検察側証人として日本軍の「罪悪」を次々と暴露した田中隆吉(元兵務局長)も、柳条湖事件については口を濁しました。

       真相を告白したのは、当時、奉天の特務機関にいた花谷はなや正・元中将が最初です。私のヒアリングに、彼は次のように話しました。

       陰謀計画は、花谷を含む現地の7、8人に、参謀本部の橋本欣五郎ロシア班長ら中央の同志数人が加わり、建川美次作戦部長、陸軍省の永田鉄山軍事課長らにも伝えられた。当初決行は9月28日の予定だった。

       しかし、情報を耳にした幣原外相が閣議で話題にしたため、南陸相が中止させるよう建川を現地へ派遣した。だが、建川に本気で止める気はなく、彼が奉天入りした9月18日の夜、鉄道爆破は決行された――。

       花谷氏はその後、河出書房(当時)の雑誌「別冊知性 秘められた昭和史」(56年)に「満州事変はこうして計画された」という手記を寄せてくれました。雑誌の企画は私が立てました。

       鉄道爆破については、59年頃、川島正という現場の中隊長だった人から聞きました。ただ彼は、爆破の火柱を見定め、兵を率いて中国軍兵営に攻め込んだのですが、爆破現場にいたわけではありません。

       探索作業は続きます。実際に鉄道爆破を実行したという河本末守中尉を探しましたが、戦時中に病死していたと分かり、戦友会に連絡し、彼と行動をともにしていた部下を2人見つけました。うち1人は、仙台でそば屋をしている元上等兵でした。79年のことです。

       元上等兵は次のように証言しました。「レールの両側を、5、6人が同行した。河本中尉が立ち止まり、『あっちを向いていろ』と言うので、皆、他の方向を向いた。すると、ごそごそやっていた河本中尉が『伏せろ』とどなった。伏せたら、10メートルぐらい後方で爆発が起きたのです」

       私が「爆破したのは河本中尉ですね」と聞くと、「そうだと思うが、私は向こうを向いていたから、その瞬間は目撃していません」と答えました。

       国鉄の鉄道技術研究所にも、鉄道爆破の効果を解析してもらいました。柳条湖事件の爆破自体は小規模で、片側レールが80センチくらい飛んだ緩いカーブを、直後に急行列車が通過している。転覆せずに通過できるのか。解析結果は「可能」という答えでした。

       学生時代にヒアリングを始めてから約30年で、やっと柳条湖事件の全貌をほぼ明らかにできたと思っています。(編集委員 笹森春樹)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170324-118-OYTPT50423

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    9. [時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<10>元少将さいなむ同僚の亡霊
      2017年3月27日5時0分

       田中隆吉・元少将=写真=からは、第1次上海事変(1932年)の謀略を聞き出しました。

       《陸軍省兵務局長だった田中隆吉は、東京裁判で検察側証人として、張作霖爆殺事件(28年)から日中戦争(37年勃発)に至る陸軍の謀略の数々を証言した》

       上海事変は、上海で寒行中の日蓮宗僧侶が殺され、在留日本人が排日団体に殴り込みをかけたことから、日中間の戦闘に発展したものです。それは、田中が中国人を買収して僧侶を殺害させたのが真相でした。

       そもそもは、柳条湖事件の直後、関東軍の板垣征四郎参謀から、32年3月に予定している満州国建国への列国の関心をそらすため、上海で事を起こしてくれと頼まれたというんですね。

       この話は東京裁判では明かされず、私のヒアリングで初めて口を開いたものです。私は、田中隆吉の話を「上海事変はこうして起こされた」という手記にまとめ、花谷手記とともに、「別冊知性 秘められた昭和史」に収録しています。

       田中隆吉は、他にも相当あくどい謀略をやった人物です。関東軍が内蒙を中国から分離しようとした綏遠すいえん事件の工作も、彼が担当しています。A級戦犯にならなかったことを、誰もが不思議がりました。

       その理由は、米国流の司法取引で検察側に協力したからです。証言台に立った田中を、元外相の重光葵まもる(A級戦犯で禁錮7年)は、「証人が被告の席を指さして 犯人は彼と云ふも浅まし」と歌に残しています。指をさされたのは、開戦時に軍務局長だった武藤章・元中将(A級戦犯で刑死)でした。

       田中隆吉に言わせると、どうせ死刑になるに決まっている人に罪をかぶせ、天皇を救うのが第一の目的だった。そのために東条英機たちには死んでもらう戦術だったというのです。

       ただ、武藤に対しては、微妙なものがあったようです。田中のほうが陸軍士官学校では1期下ですが、同僚でもあり、ライバルでもありました。

       港区青山の彼の家に行くと、昼間でも、暗くした部屋にこもっていましてね。この人、どういう心境なんだろうかと思っていると、「武藤の亡霊が時々出てくるんだ」と口走るんです。

       昔の陸軍の仲間から裏切り者と非難する声が高まり、半ばノイローゼになっていました。彼は裁判が終わったのち、米国に亡命するつもりでいた。キーナン首席検事の口約束があったのに、守られなかったんです。

       私のヒアリングに対しても、口を閉ざしているかと思えば、どんどん自虐的にしゃべったりと、波があるんです。だから時間を置いて聞き直さないと危ない。何でも俺がやったんだよという話になりがちだからです。そこの所を重箱の隅をつつくように聞いていく。また、他の人の所へ行って、裏付けも取る。そういうヒアリングのコツを覚えました。

       (編集委員 笹森春樹)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170326-118-OYTPT50212

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    10. [時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<11>陸軍 対米戦の知恵乏しく
      2017年3月28日5時0分

       日本が米国との戦争を決意する過程を主導したのは誰か。主役であるはずの海軍は自信がなくて、最後までふらふらしていました。その結果、陸軍のタカ派が突出します。軸になったのが、参謀本部の田中新一作戦部長=写真=、服部卓四郎作戦課長、辻政信班長のトリオなんですね。

       私が田中新一・元中将をヒアリングして感じたのは、主敵を米国と見定める意識が希薄だったということです。外交と政治の次元での強硬論であって、米国とどう戦うかという戦略戦術上の知恵は乏しかった。

       それはある意味では当然でした。明治以来、陸軍の仮想敵はソ連であって、米国ではない。そのうえ、中国との泥沼戦争が続いていた。対米戦は、海軍の戦争だという意識なんです。

       田中へのヒアリングで一番印象に残ったのは、1941年12月8日という開戦日は、翌年に対ソ戦を発動する時期から逆算して決めた、という点です。表向きは12月中旬になると、マレー半島沖の海が荒れ、上陸作戦が困難になるので、その頃が米英と開戦する期限だったといわれますが、どうもそうじゃないんです。

       田中の願望では翌年春には、対ソ戦を始めたかった。南方作戦を終え、兵力を再び満州に戻す都合を考えれば、前年12月の対米英戦開始が適切だった、というのです。南方占領地の防衛は1、2個師団もあれば十分で、兵力の大半を満州に戻しシベリアに打って出るつもりだった、と。もちろん海軍には表だって言わないけれど、腹づもりはそうだったと言うんですがね。

       41年6月に独ソ戦が勃発し、これを機に日本は、翌7月、関東軍特種演習(関特演)を実施し、ソ連に攻め込む構えを見せます。田中はそのときの最強硬派でした。しかし8月に入り、冬が来るまでにソ連軍を打倒するのは無理と判断し、一応中止したのです。それは、田中にとっては延期したという意識なんですよ。

       《ドイツの侵攻で始まった独ソ戦で、ヒトラーは日本に対ソ参戦を求めた。日本は満州に70万人を動員して関特演を実施。陸軍や松岡洋右外相は参戦を主張したが、松岡は更迭され、対ソ戦も見送られた》

       日本が「清水きよみずの舞台から飛び降りる覚悟」(東条英機)で始めた戦争の第1段が真珠湾攻撃とマレー作戦。成功で有頂天になったが、第2段作戦は詰めていなかった。次はどこへ行くか、慌てて議論を始めます。重慶へ行こう、インドを攻めよう、豪州へ向かおう……と舞い上がりました。

       田中も目移りしたのか、「ドイツのロンメル将軍がスエズ運河をめざし、北アフリカを東進しているから、相呼応して握手したい」と言い出す。しかし、42年夏、米軍のソロモン諸島侵攻で夢物語は消えました。

       陸軍の教育が、対ソ戦法から対米戦法に転換するのは43年秋になってからです。教育総監が各学校長を集めて告げると、「誰が教えるのか」と声が上がった。そういう状況で日本は米国と戦争を始めたのです。

       (編集委員 笹森春樹)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170327-118-OYTPT50453

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    11. [時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<12>公務員試験 独学で挑む
      2017年3月29日5時0

       1年間休学して戦犯らのヒアリングをした後、大学に復帰し、法学部の政治コースに進みました。学部長でもあった岡義武教授のゼミに入りましたが、私は申し込みが遅れ、初回は出席できませんでした。初めて出席した時、岡先生から「どういうつもりか知らないが、参加したいというので加わってもらった」と辛辣しんらつな紹介を受けました。

       ゼミ生には「明治の政治家たち」という大テーマの下で対象人物が割り振られ、番外の私には、大浦兼武、清浦奎吾、平田東助という、山県有朋系の官僚兼政治家3人が与えられました。

       《岡は吉野作造の後を継いで東京帝大の政治外交史を担当。時流に流されない歴史認識を特徴とし、岡の指導を受けた丸山真男は、「ニヒリズムとスレスレのリアリズム」ながら、根底にヒューマニズムがあったと評している(『丸山真男座談セレクション』)》

       岡先生はゼミ生の報告に対するコメントが実に的確で無駄なことは言わない。怖い存在で、皆、ぴりぴりしていました。先輩によると岡先生の姿勢は、昭和初年に助教授になって以来、変わらないというんです。時めいていた戦後民主主義の風潮にはむしろ横を向いていました。私は後になるほど岡さんを偉い先生と思うようになりました。

       大学4年の夏、国家公務員試験を受けました。事務系志望なら、法律職、経済職、行政職のいずれかを選択します。行政職は採用が少なく、法学部なら法律職、経済学部なら経済職で受ける学生が多い。私は法学部でも政治コースだから、法律職では、終日、法律を勉強してきた連中に太刀打ちできないと考えました。

       では、経済職はどうか。その頃の東大経済学部はマルクス主義全盛。私は、経済職の試験委員が全員、一橋大の先生であることに気づきました。一橋大は近代経済学が主流です。そこで近代経済学を独力で学び、経済職を受けました。多分に功利的な選択でしたね。

       おかげで、試験の成績は悪くなく、大蔵省、通産省、自治庁から内定をもらいました。大蔵省を選んだのは、面白そうな職場が見つかれば、移りやすいと思ったからでもあります。

       朝日新聞も受けましたが、落ちました。受験会場はふだん講義を受けている東大の教室。試験は、事件のてんまつをスピーカーで流し、それを要約させるものでした。政治コースの連中だけで十数人受けましたが、東大は全員が不合格です。そのうち数人は10年もしないうちに、執筆者として朝日新聞紙上に登場しました。

       就職も内定し、翌年4月に入省するまで時間があります。私は出版社のアルバイトをやりました。『別冊知性 秘められた昭和史』もその一つで、ヒアリングしたものを残しておこうと思ったのです。河出書房の担当者から、「全部まかせるから、あなたが企画を立ててくれないか」と言われました。数冊分に相当する目玉手記を一挙に掲載したので、もったいないと言われました。今でも古本屋で値がついています。(編集委員 笹森春樹)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170328-118-OYTPT50408

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    12. [時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<13>旅館から車で初登庁
      2017年3月30日5時0分

       1956年4月、大蔵省に入省します。当時、私は出版社のプロジェクトで、旅館に缶詰めになり、明け方近くまで仕事をしていましてね。出版社が出してくれた車で初登庁したのを覚えています。

       『週刊新潮』の創刊もこの頃で、大宅壮一さん(評論家)たちとの座談会に出たこともあります。編集者兼ジャーナリストの仕事は、魅力的で収入も多いし、そのまま転身しようかと考えたこともありました。

       大蔵省の配属先は為替局でした。今の財務省国際局です。行政官の仕事は非常に面白いと思いましたね。

       1、2か月もたつと、大蔵省代表で各省会議に出席するんです。上役の課長補佐から、「君、今度は一人でいいだろう」と言われました。どうやら、大蔵省の立場は何でもとりあえずはノー。予算がかかりそうな話は、適当な理由をつけて一応、反対すればいい。それがわかっているな、ということなんですね。

       各省が集まった会議で、入省したての私が、もっともらしく反対の理由を述べるわけです。すると、司会をやっている外務省の課長が、私の上司の課長に苦情を言ってきたんです。

       これに対し上司は、「うちは各省会議に出る時は、他省よりランクを一つ落として出すことにしているんだ。それが慣例なんだ」との調子で突っぱねるんです。横で見ていて、豪胆な人だなと思いましたよ。

       その後、中国財務局に1年、名古屋国税局に1年半、行きました。地方の財務局と国税局の仕事を経験させる習慣があったんです。

       これはあまり面白くなかったですね。上司に本省からのキャリアはいらないという哲学の持ち主がいて、意地悪をされたり。

       名古屋国税局の法人税課では、何係か忘れましたが、私の席次は第5席。そのうちに、中学卒の16歳のかわいい女性が第6席として加わりました。

       管内に48の税務署があるのですが、私が紙に48の枠を書き、隣の第4席が枠の中に数字を入れる。そんな仕事が主体でしたが、税務調査に同行し、二重帳簿を見つけたこともあります。

       名古屋時代には伊勢湾台風に遭いました。

       《59年9月の伊勢湾台風は、東海地方を中心に犠牲者5000人超の被害をもたらし、災害対策基本法制定(61年)の契機となる》

       国税局には、愛知県全映画館パスというのが置いてあるんです。土曜日などはそのパスで、はしごしていました。台風が襲来した夜、映画館にいたら、停電になり、「大変ですよ、外は」と言われましてね。出られなくなり、そのまま泊まり込みました。

       住んでいた寮は冠水です。学生時代のヒアリングノート数十冊も泥水につかり、その後、苦心して乾かし、8割以上を何とか復元しました。私が死んだ噂うわさが流れたらしく、東京から弔慰金が届き、そのお金で衣服を全部新調しました。(編集委員 笹森春樹)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170329-118-OYTPT50411

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    13. [時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<14>歴史の女神に魅入られて
      2017年4月1日5時0分

       名古屋国税局で悶々もんもんとしていた私に、日本国際政治学会の「太平洋戦争への道」プロジェクトから声がかかり、参加することになりました。月1回の研究会に出席するときは、泊まりがけで上京しました。

       《日本国際政治学会は1959年、太平洋戦争原因研究部を設置し、開戦にいたる政治外交史の研究に着手。62~63年、『太平洋戦争への道』全7巻と資料編にまとめ、朝日新聞社から刊行した。英訳版が米コロンビア大から出版された》

       プロジェクトのチーフは国会図書館の幣原文庫長だった角田つのだ順さん(のち青山学院大教授)。メンバーは14人で、20代の私は最若年でした。他の人たちは大学教授、助教授が多いのですが、角田さんが私の書いた論文を見て、引っ張ってくれたんです。

       それまでに私は、「梅津・何応欽かおうきん協定」「綏遠すいえん事件」「盧溝橋事件」といったテーマの論文を学会誌に発表していました。

       随分、手間と経費をかけたプロジェクトで、研究会を3年間に数十回やっています。執筆メンバーには毎月かなりの手当が出ていました。資金は角田さんが財界から調達していました。

       関係者からのヒアリングもしますが、元軍人の多くは、以前、私がヒアリングした人たちです。場所は、外務省の敷地にあった日本国際問題研究所の会議室を使いました。

       この間、私は経済企画庁に出向しています。ある時、角田さんから「そろそろ東京に戻る時期じゃないか?」と聞かれ、「そうです」と答えると、「それじゃ、僕が幹部に頼んで、暇なところに配置してもらうようにするから」と言われましてね。角田さんの旧制第一高等学校時代の同級生が、大蔵省の幹部にいたんです。

       経企庁に移ったのは60年9月。半ば大蔵省公認でプロジェクトに加わったわけで、万事が鷹揚おうようで、ゆとりのある時代でした。

       経企庁の仕事は、国民所得の集計が2年間、貿易政策が1年間。二足のわらじをはいたわけですが、はからずも歴史家として自立する土台を固めた時期だったと思います。自分では、そういうつもりがなくても、いや応なしに歴史の女神(クリオ)に引っ張られていく感じでした。

       私は『太平洋戦争への道』で、「日中戦争の軍事的展開」と「仏印進駐と軍の南進政策」の2編を書いています。また、この間に、『日中戦争史』(河出書房新社、61年)、『軍ファシズム運動史』(同、62年)の2冊を出版しました。初めての単著です。

       《『日中戦争史』の序文に、信夫清三郎・名古屋大教授は「精密な資料調査と厳格な資料批判にもとづいて書かれた本書は、昭和の戦争史にはじめて科学の光をあてたものである。今後いかなる昭和政治史の研究も、本書をとおらなくては不可能である」と書いた》

       2冊の単著は、米国で日本近代史を研究している人たちの間で話題になり、後に米国に留学するきっかけとなります。 (編集委員 笹森春樹)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170331-118-OYTPT50444

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    14. [時代の証言者]実証史学への道 秦 郁彦<15>「国家ヲ強引」した石原莞爾
      2017年4月3日5時0分

       満州事変における石原莞爾かんじ(当時、関東軍作戦参謀)の構想を裏付ける資料を私が引き出したのも、「太平洋戦争への道」プロジェクトに参加していた最中です。石原の没後、山形県酒田市近くに住む石原夫人と弟さんが大事に保管していました。

       「謀略ニヨリ機会ヲ作製シ軍部主動トナリ国家ヲ強引スルコト必スシモ困難ニアラス」のくだりで知られる「満蒙問題私見」(1931年5月22日)など、日中戦争期にかけての重要文書ばかりです。東京の角田つのだ順さんに連絡したら、マイクロフィルムの撮影チームがすぐに来てくれ、2日くらいかけ撮影しました。

       満州事変の首謀者である石原が、A級戦犯にならなかったのは不思議です。東京裁判開廷前の検事団によるA級被告選定の席で、経済人の石原広一郎を石原莞爾と勘違いしていたことが判明します。慌てた検事が入院中の石原莞爾に面接しますが、「重態」のため調書が作れず、被告リストから外されたのが実情でした。

       「満蒙問題私見」は、いわば有罪の証拠で、石原はその通り実行したのです。歴史家にとっては超一級の資料で、あのときの感動は今でも忘れられません。

       石原の参謀本部時代の資料もありました。作戦課長や作戦部長の石原が書いているのだから、個人的な文書とは言い難い。それを石原は整然と残してくれていたのです。

       この種の謀略にかかわった人たちは、なかなか文書の証拠を残しません。酒を飲んで自慢話にすることはあっても。石原とコンビを組み、A級戦犯として刑死した板垣征四郎(元陸相)は何も残していません。

       謀略というと、いかがわしい感じがつきまといます。ところが石原は、一中佐にすぎないのに、まるで自らが参謀総長になって天皇の統帥権を代行するような感覚なんですね。

       見つかった資料は『太平洋戦争への道』に使ったのはもちろんでしたし、角田さんの監修で『石原莞爾資料』(67年)として原書房から刊行されました。

       私も、石原莞爾論を『軍ファシズム運動史』(62年)の中で書きました。天才的な軍事思想家ではありましたが、日本を破滅の道へ追いやった責任者と総括しています。辛口になってしまったせいか、遺族は不満だったそうです。

       明治以降の軍人で、伝記や評伝のたぐいが最も多いのは誰か調べたことがあります。やや意外でしたが、1位は石原で、日露戦争の英雄・東郷平八郎や乃木希典を引き離していました。

       しかし、石原の全盛期は長くは続きません。

       《石原は、参謀本部作戦部長当時に突発した日中戦争で不拡大をめざしたが、拡大派に追われて中央を去る。その後、東条英機と対立し、41年に予備役へ編入された》

       資料を提供するほうは、自身や故人のことを良く書いてほしいという期待があるわけですよね。

       だから、左翼の歴史家たちには、借りの気持ちができるのを避けるため、旧軍人やその遺族に会わないという人がいます。

       でも、私はそんなことで石原観を手加減する気にはならなかった。そこは歴史家としてつらいところなんです。

       (編集委員 笹森春樹)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170402-118-OYTPT50147

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    15. [時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<16>米ハーバード大学へ留学
      2017年4月4日5時0分

       1963年、米国に留学しました。1年目はハーバード大学、2年目はコロンビア大学で、いずれも研究員の資格です。留学の話は、コロンビア大のジェームス・モーレー教授から持ち上がったらしい。彼は『太平洋戦争への道』の英訳者代表でもありました。

       人事院が主管する行政官の国費留学制度ができる前で、留学資金は自力で見つける必要がある。私はロックフェラー財団から出してもらいました。友人のアルビン・クックス博士が半ばお膳立てしてくれたのですが、丸山真男先生の推薦が決定的だったようです。

       クックスさんは、ロックフェラーの奨学金だけでは不足するだろうと心配してくれ、アジア財団からも資金をもらえました。二つ足すと、日本でもらっていた給料の5倍。1ドル=360円の時代で、米国の物価は高かったとはいえ、日本の3倍くらいの生活はできましたね。

       留学の途上、20日くらい寄り道し、台湾、フィリピン、ハワイ、米国内のあちこちを回りました。ニューヨークのロックフェラー財団本部で、半年分の資金をもらい、担当者から「何か困ることがあったら、コレクトコールで私を呼んでください」と言われた時は感激しましたね。

       お金の心配はなかったので、ハーバード大に着いた翌日、中古車を買いました。運転免許は持っていません。大学新聞に「免許を取るまで30ドル払う」と広告を出したら、学生が来ましてね。ついでに英会話の先生役もしてもらいました。

       免許は割と簡単に取れました。学生が、試験官から「ターンライト(右に曲がれ)」などと指示されたら、「イエス・サー」で返事しなさいと。それを守ったせいか、5分ほど路上を運転しただけで、その場で免許証がもらえました。

       帰国後、日本の免許証に切り替えて、1年前に返上しています。

       ハーバード大に来てから間もなく、ケネディ大統領の暗殺事件がありました。63年11月22日です。テレビにくぎ付けになりました。

       《ケネディ暗殺のニュースは、日本には初の衛星中継で届いた。もともと、この日は、翌64年の東京オリンピックを控え、中継実験が予定されていた》

       卒業生でもあるケネディの暗殺に、ハーバード大周辺のショックは大きく、自然休校になりました。号泣しながら車を運転している人も見かけましたよ。

       今思うと、ケネディの死は、米国社会の転換点だったようです。米国はその前後からベトナム戦争にのめりこみ、反戦運動や公民権運動が高まります。

       71年に再訪したときは米国社会は騒然とし治安も悪化していました。ボストンの地下鉄でかばんを横に置いて座っていたら、老婦人から「盗まれるから手を放してはだめですよ」と注意されました。「(ハーバード大がある)ケンブリッジの公園に行ってご覧なさい。マリフアナを吸っているヒッピーがごろごろしている」と言うので、見に行ったのを覚えています。

       (編集委員 笹森春樹)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170403-118-OYTPT50311

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    16. [時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<17>書庫に入り浸る日々
      2017年4月5日5時0分

       ハーバード大学では、国際政治学者のヘンリー・キッシンジャーと、経済学者トーマス・シェリングのセミナーに参加しました。

       私がキッシンジャーをつかまえて、セミナーに入りたいというと、彼は「ジャスト・カム(来ればいい)」と一言。人気教授なので、教室は満員で、学生が窓の縁まで腰掛けている。一例ですが、キッシンジャーは、その日のテーマを与えると、フランス人とドイツ人の学生を指名し、2人を議論させた後、短いコメントをして終わり。多忙を極めるキッシンジャー流の工夫なのかなと感じましたね。

       シェリングのセミナーは、モスクワに核攻撃を加える場合、どこを爆心とするか、どの角度、高度何メートルから落としたら効果的か、といった刺激的なテーマを、淡々とした口調で進めていました。彼はその後、ノーベル経済学賞を受賞し、昨年暮れ、亡くなりました。

       私は留学に出かける前、大蔵省に「軍縮の経済学」を勉強する予定だと届けました。その関連の本を集めたし、セミナーや講義にも出ました。ところが、前年のキューバ危機を乗り切った米国は、冷戦のまっただ中で、軍縮どころではない。シェリングもキッシンジャーも、軍拡派に属します。

       その結果、私は軍縮ではなく軍拡や冷戦史を勉強して帰国することになり、帰国途上、ベトナム戦争の現場も見聞しました。

       ハーバード大ではワイドナー図書館をよく利用しました。大学図書館として蔵書数ばかりでなく、利用者へのサービス機能を含め世界一の水準を誇りました。

       その頃の日本の図書館は閉架式で、借り出しを認めていなかったのに対し、米国では開架式で、借り出しも書庫の立ち入りもOKなんです。教授が指定した本は複数そろえるなど、日本との格差の大きさにぼう然としました。

       私は、そのころ香港に留学中だったエズラ・ボーゲル博士の研究室を使っていたのですが、ワイドナー図書館の書庫キャレル(閲覧席)に入り浸りになり、研究室を返上させられてしまいます。

       本を次々に借り出し、返却期限が2週間なので、夜は下宿で読みながら、必要箇所を必死で抜き書きする作業に追われました。

       子供のころ大本営発表を書き写した経験が、借り出した本を抜き書きする手法に役立ったと感じています。書店で新刊本や古書も買いましたが、かえって読まずじまいに終わったのが多いですね。

       それ以来、私は図書館めぐりが趣味の一部になってしまいます。感嘆したのは米海軍大学の図書館です。校長にヒアリングしたついでに、士官クラブに3泊したのですが、書庫と閲覧室は24時間オープン、複写は無制限、食事はボーイがサービスするフルコース。阿川弘之さんの名著『山本五十六』に描かれているような、戦争中の連合艦隊旗艦「大和」のディナー風景を想起しました。

       日米いずれも英国海軍の貴族趣味を継承した名残だったのでしょう。

       (編集委員 笹森春樹)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170404-118-OYTPT50381

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    17. [時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<18>米国社会の学歴主義
      2017年4月6日5時0分

       留学中、米国歴史学の新しい潮流に触れる機会がありました。それは、公文書や重要な私文書などの1次資料を軸にして論文を書く手法です。

       特に若手の研究者は、ワシントンの国立公文書館などに通いつめて、30年原則で秘解除になる新情報を取り込もうと、血眼になっていました。

       外交史の大家だったハーバード大のアーネスト・メイ教授は、第1次大戦の原因論に関する著作を、参戦した5、6か国の1次資料などを駆使して書いたことで有名になります。

       こうした手法は、その頃の日本ではあまりなじみがありません。特に戦争や国際関係がテーマだと、海外の大家が書いたもの、すなわち2次資料を、子引き孫引きしてまとめるのが当然とされていました。

       1964年夏、私は40日間の欧州旅行から帰ると、コロンビア大学に移ります。モーレー教授が所長を務める東アジア研究所のフェロー(研究員)として、1910年代から30年代にかけての日米英中露がからむ国際関係史を書く約束になっていました。

       しかし、1次資料収集のため文書館通いに追われ、60ページの薄い冊子を刊行しただけに終わります。

       この間に気づいたのは、米学界の学歴主義でした。大学院の修士、留学を含む博士課程を終え、論文をパスして学位(Ph・D)を取らないと、大学の教職には就けないのです。

       修士も博士課程も出ていない私は、特例で博士研究員の待遇を受けていたものの、周囲を見回して、いや応なしに学歴不足を意識しました。

       帰国後のことですが、日本で「論文博士」が復活することになりました。論文博士とは、大学院の博士課程を修了していなくても、論文だけで博士号を取得できる制度です。

       《日本の博士制度は、文部省が天下り式に授与する方式で始まり、権威を嫌う夏目漱石が返上したのは有名。大正期に、大学が提出された論文を審査して授与する方式になる。戦後の教育改革で、米国を手本に、大学院の博士課程を修了した人に与える原則ができたが、論文博士の制度も次第に活用されていった》

       そこで私は、コロンビア大で書いた冊子に補筆した『太平洋国際関係史』(72年)を、論文博士取得のため東大に提出しました。

       この本は、米国の公文書館、日本の外交史料館、防衛庁戦史室などの第1次資料を軸に、日米、日中、日ソのそれぞれ中間に立つ等距離観察を心がけて書いたものです。

       しかし、数多い脚注に公文書館の資料番号がずらりと並ぶスタイルは、当時の読者には、ある種の拒絶反応を引き起こしたかもしれません。東大の審査も不合格でした。

       その代わりに旧著の『軍ファシズム運動史』なら合格にすると言われ、不本意ながら差し替えて再提出し、74年に法学博士の学位をもらいました。その後、1次資料で書くスタイルは、我が国でも徐々に定着していきます。

       (編集委員 笹森春樹)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170405-118-OYTPT50337

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    18. [時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<19>模擬空戦体験し、装備開発
      2017年4月8日5時0分

       1965年、米国留学から帰国し、防衛庁勤務になりました。留学中、最新の軍事知識を吸収したらしいと伝え聞いた防衛庁の海原かいはら治官房長が、私の出向を希望したと聞いています。

       海原さんは旧内務省の警察出身で、部内では「海原天皇」と畏怖されていました。私は防衛局第1課で2年間、航空自衛隊(空自)を担当し、その後1年半、防衛研修所の教官をしました。

       私たち少数の内局官僚は背広組と呼ばれ、防衛庁長官のシビリアンコントロール(文民統制)を支えるスタッフです。制服組の要求を査定し、原案をとりまとめて長官に上げるのが私の職分でした。

       現場主義に立っていた私は、T33ジェット練習機に便乗して、こまめに自衛隊基地を回り、制服組と議論を重ね、現場の声を拾い上げることに努めました。

       私が戦闘機F104に2回ほど乗り、マッハ(音速)2の模擬空戦訓練を体験した時のこと。前席のパイロットに、「後方から敵にロックオン(照準)されたときはどうするんだ」と聞くと、「落とされるしかありません」と言うんです。

       千歳基地に降りてから聞いてみると、相手に後方からロックオンされるとブザーが鳴る装置を、個人的に研究している若い幹部がいるという。すぐに呼んで話を聞きました。

       私は直ちに採用すべきだと判断しましたが、年度計画に入れると時間がかかります。末端幹部の個人研究のようなものは、中央の航空幕僚監部(空幕)までなかなか上がってきません。

       私は防衛庁に帰ると、空幕と折衝し、「今からすぐ、予算をつけようじゃないか」と提案しました。早速、警報装置開発の予算がつき、全機に装備されました。

       在任中、F104の後継機種の導入も、重要な検討課題でした。自衛隊は最新の兵器を持つべきだというのが私の持論です。

       ところが海原さんは、海上、航空の自衛隊はどうせ役に立たないから、安上がりの二流装備で構わない、最後の頼みは日本列島守備隊としての陸上自衛隊だという哲学でした。「海原」ではなく「陸原」だとの声もありました。

       私は最新鋭のF4ファントムがいいと思っていましたが、選定するのは上のレベルですから、うかつに機種名を口に出すのは得策ではありません。性能比較表をつくり、それを見ればやはりファントムかなあと、見た人が判断できるようにするのが限度でした。

       《69年、F104の後継にF4ファントムの導入が正式に決まる。機種選定を巡る商戦で政界に賄賂が渡ったとうわさされ、70年代後半のダグラス・グラマン事件で表面化した》

       防衛庁を離れた後も、防衛大学校の非常勤講師として軍事史を4年ほど教えました。当時校長だった猪木正道さんに頼まれたのです。いつの間にか軍事史の専門家みたいになってしまいました。

       (編集委員 笹森春樹)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170407-118-OYTPT50369

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    19. [時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<20>沖縄返還と財政史編纂
      2017年4月11日5時0分

       1969年8月、大蔵省に戻り、理財局の国有財産総括課長補佐として、沖縄返還の事務に忙殺されます。同年11月、72年の沖縄返還が決まり、本土復帰に伴い、米軍が沖縄に投資した施設や設備を日本が買い取ることになったのです。

       その金額を査定するため大蔵、運輸、建設省等の専門家三十数人を連れて、ひそかに沖縄へ出張しました。過激派の妨害を恐れ、夜間の外出は自粛しました。

       日本側には、査定は甘くしようという気分がありました。敗戦で取られた領土が戻ってくるのは、史上希有けうなことですからね。米側の窓口である琉球米民政府(USCARユースカ)との交渉でも、私は、高めとは言わないまでも、米側の意向を尊重しました。その後に起きた外務省機密漏えい事件は、一連の資産査定にからむ話です。

       《71年、沖縄返還協定が締結された。その際、「日本政府が米軍基地の土地原状回復補償費400万ドルを肩代わりする」という密約があった、とする機密文書の漏えいに関与したとして、毎日新聞の西山太吉記者と外務省女性職員が国家公務員法違反で起訴され、有罪になった》

       大蔵省で、占領期(45~52年)の財政史を編纂へんさんすることになり、私は71年1月、戦後財政史編纂主幹の辞令を受けます。執筆者を兼ねた事務局長です。主計局に行くことが内定していたのですが、秘書課長の長岡実さんから「どうする? どっちでもいいよ」と持ちかけられ、一も二もなく財政史を選びました。

       私は「予算は惜しまないでください」と注文をつけましてね。5年間に3億円をつけることを約束してもらいました。以前、「太平洋戦争への道」プロジェクトに参加したとき、お金と手間をかけないといいものはできない、と痛感していたからです。

       財政史の仕事を始めるにあたり、歴代事務次官の会議に呼ばれ、イデオロギー色は薄めてほしいという注文がつきました。私も同感でした。

       大内兵衛さんが監修した昭和初期から終戦までの昭和財政史は、マルクス主義的な色彩が濃かったのです。軍部が悪くて財政当局は被害者の立場だったことを強調しています。臨時軍事費がどんな過程で増大していったかなど、戦争協力の側面が踏み込み不足でした。

       私は、執筆者として大学教授らを約20人選び、鈴木武雄武蔵大学長と安藤良雄東大教授に監修者を委嘱しました。5人の米国人研究者も客員に加えました。

       1次資料の重要性を認識していた私は、米国に3か月出張し、ワシントンの国立公文書館やノーフォークのマッカーサー記念館などで資料を収集しました。

       占領政策にかかわった元占領軍幹部からもヒアリングをしています。チャールズ・ケーディス民政局次長、ジャスティン・ウィリアムズ国会課長、ミスGHQの評があったエコノミストのエレノア・ハドレー女史、それに、国務省のヒュー・ボートン日本課長などです。

       (編集委員 笹森春樹)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170410-118-OYTPT50199

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    20. [時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<21>ニクソン・ショックの余波
      2017年4月12日5時0分

       公文書館を使いこなすのは結構骨が折れます。ただ、有能なアーキビスト(公文書相談係)と親しくなると、「最近、秘解除になった面白い文書があるよ」と教えてくれたりするんです。

       ワシントン郊外の国立公文書館スートランド分館では、米占領軍の文書資料が、日本から船積みで送った箱詰めの状態で、大量に保管されていました。箱の表に部課別の表示があるだけです。私はアーキビストと相談しながら必要な文書を選び出し、7000ページ分のコピーを発注しました。

       米国滞在中、いわゆるニクソン・ショックに出くわします。日本政府の受けた衝撃は大きく、私はワシントンの大使館でその一端に触れました。

       《ニクソン米大統領は1971年7月15日、翌年5月までに訪中すると電撃発表した。対中敵視政策の転換だった。さらに1か月後、金とドルの一時交換停止を発表。これは為替取引が固定相場制から変動相場制に移行する序幕になった》

       私は大使館の財務班に席をもらい、日曜日なんかは1週間分の新聞をまとめて読んでいたんです。その中に、キッシンジャー大統領補佐官がパキスタンに寄った際、体調を崩して休んでいるという米紙の記事が目に留まりましてね。情報担当の岡崎久彦書記官を見かけたので、何げなく記事を伝えたんです。岡崎さんとは東京の研究会で知り合いでした。

       ところが、実際にはキッシンジャーは仮病で、パキスタンからひそかに北京入りし、ニクソンの訪中計画をまとめたわけですね。日本大使館は全然気づかなかった。

       岡崎さんは「あなたが新聞記事でキッシンジャーを話題にした時、ピンと来なければいけなかったのだが」と残念がっていました。

       とにかく、日本の頭越しに米中接近をやられたということで、大使館の無策を責める声が強まりました。当時の駐米大使は牛場信彦さん。牛場さんは、痛手を回復させるアイデアを探していたようです。

       牛場さんと雑談しているとき、私はふと思いつきましてね。「私が留学する頃までは、日本の研究者は、全面的に米国の資金のお世話になった。最近は情勢が変わり、米国の日本研究者は研究費が不足して困っている。この際、日本研究部門を持つ米国の大学に寄付する手もあります」と言うと、「どの大学を対象にするか、誰に聞いたらいいか」と聞かれました。

       私は、ハーバード大のジョン・キング・フェアバンクと、エドウィン・オールドファーザー・ライシャワーの2人の教授の名前をあげ、「学界での声望と人柄は、ミドルネームの通りです」と答えました。

       牛場大使は岡崎さんを呼び、「すぐ、フェアバンクとライシャワーの所へ行ってこい」というのです。即断即決ぶりに驚きました。

       これが間もなく実現しましてね。「王様と老父」が選んだ10大学の日本研究部門に10万ドルずつ寄付する内容です。福田赳夫外相の名前をとり「福田ファンド」と呼ばれました。(編集委員 笹森春樹)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170411-118-OYTPT50386

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    21. [時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<22>財政史発刊 筆禍に直面
      2017年4月13日5時0分

       1973年9月から翌74年4月まで、ミシガン大学に招かれて米国に出張しました。財政史プロジェクトの開始から5年目に出版する予定を考え、滞在中、執筆に集中したいという思いもありました。

       私はほかの執筆者たちに「帰国したとき、皆さんの第1稿が書きあがっていることを期待しています」と言い残し、出かけます。

       滞米中、貴重な資料も手に入れました。例えば、米国が当初、占領軍による日本の直接統治を想定し、軍票使用の方針だったことを示す布告文を、GHQ国会課長だったジャスティン・ウィリアムズ氏から入手しています。この方針は日本政府の要請で中止になり、布告されませんでした。

       私が帰国すると、他の執筆者たちの原稿は遅れていました。そのため上司から、第1回配本は、私が執筆した第3巻とし、分量も増やすよう指示されました。

       私の巻は、米国が戦時中に準備した占領計画に始まり、GHQの制度や機構、財閥解体や農地改革などの初期改革、新憲法の制定を経て、「逆コース」と呼ばれた対日政策の転換、ドッジ改革、独立回復から朝鮮戦争特需を契機とする経済成長まで約7年をカバーしています。

       私が米国の1次資料を軸に、米側の視点からたどったのに対し、他の執筆者たちは、日本側の視点から書き、両者は交差しつつ、合わせ鏡のような構成をめざしました。私の巻は925個の脚注が付き、650ページに上ります。

       ところが、ゲラ刷りが出た段階で、上司の官房審議官から、「個人の著作としては力作で賞をもらえるかもしれないが、国の刊行物としては不適切な部分が多い。国会で野党につつかれるかもしれない」と異議が出ました。そして「お前の文章を直せるのは大蔵省広しといえども、俺くらいだろう」と豪語しながら、大幅な修正作業が始まります。

       しかし、修正したゲラを見ると、赤字を入れた添削は最初の数ページだけ。第1章94ページ中62ページが全文削除です。途中で面倒くさくなったのでしょう。

       たまりかねた私が、「辞めたら無修正にしてくれますか」と切り出すと、「部外の研究者が書くのなら、学問の自由が適用される」との返事です。「では退官する」と、交換条件はすらすらとまとまります。

       妻と母に相談すると、「そんなところに我慢して勤める必要はないでしょう」と賛成してくれました。

       版元の東洋経済新報社が製本を始めたのを見届け、私は20年間勤務した大蔵省を去りました。76年5月のことです。

       《『昭和財政史―終戦から講和まで―』(全20巻)は76年3月、配本が始まり、84年まで続いた。秦氏が執筆した第3巻『アメリカの対日占領政策』は76年7月、発刊された》

       特に悲壮な気持ちはありませんでしたね。歴史家は長い間、時の権力者のお気に召さないと命が危ない職業の一つでしたから。

       しかし、この件を手始めに、私はその後、何回かの筆禍事件に出会います。

      (編集委員 笹森春樹)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170412-118-OYTPT50389

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    22. [時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<23>「天皇退位せず」の特ダネ
      2017年4月15日5時0分

       退職の辞令をもらって大蔵省の玄関を出ると、読売新聞の松崎昭一記者とばったり会いましてね。彼は「外務省が外交文書を公開することになったので、相談役をやってくれませんか」と言うのです。

       「それはいいけど、私は今、大蔵省を辞めてきたところなんですよ」と答えると、「それなら、我が社の専属になってくださいよ」と持ちかけられました。

       読売連載「昭和史の天皇」を担当していた松崎さんとは前からの知り合いでした。

       こうして偶然ながら、私は1976年から5年間、読売新聞社の嘱託となり、生活のメドもつきました。外交文書の公開の時は別ですが、それ以外は気の向いた時だけの出勤という好条件。何かお返しをしたいと思っていたところへ、スクープをものにしたんです。

       《78年8月15日の読売新聞朝刊は「“天皇親書”30年ぶり発見」との1面トップ記事を掲載した。昭和天皇が、東京裁判の判決当日の48年11月12日、マッカーサー元帥へ、退位を否定する親書を出していた、という内容だった》

       それは78年晩春、米バージニア州ノーフォーク市にあるマッカーサー記念館へ資料調べに行ったときのこと。たまたまマッカーサー元帥のジーン夫人が来館したので、館長が「元帥を研究している人です」と私を紹介しました。夫人は「ゼネラル(将軍)が聞いたら喜ぶでしょう」と言いましたよ。亡夫をゼネラルと呼ぶという話は、本当だったんだなと実感しました。

       その直後、マッカーサー宛ての昭和天皇の親書を見つけたんです。

       差出人は田島道治宮内府長官。「陛下のメッセージをお伝えする光栄を有します」との書き出しで始まります。そして、天皇が、吉田首相を通じてマッカーサーから寄せられた厚情に感謝し、「日本の国家再建を速やかならしめるため、国民と力を合わせ、最善を尽くす所存であります」と結んでいました。

       注目すべきは、日付が東京裁判の判決当日だったこと。その日、昭和天皇は終日引きこもり、沈黙の時間を過ごしたそうです。

       当時、判決を控え、天皇の戦争責任とのからみで退位論が活発化し、天皇も退位の意向を持っていると噂うわさされていました。しかし、マッカーサーは、占領政策の観点から、退位に反対です。親書は、天皇が退位しない意向をマッカーサーに伝えたと読み取れました。

       ただ、裏取りが必要です。私はフロリダで隠退生活を送っていた元GHQ外交局長のシーボルトを訪ねました。彼は親書の件を記憶しており、日記帳を見ながら確認してくれました。

       私はこの年1月から、プリンストン大の客員教授をしていました。プリンストン大行きは、日本研究の長老、マリウス・ジャンセン教授の招請でした。ウッドロー・ウィルソン・スクールの大学院生がお相手です。「米国の日本占領」をテーマに、岡義武先生流のセミナーを試みました。

       その後も、イスラエルのヘブライ大、中国の南開大で大学院生向けのセミナーを引き受けます。

       (編集委員 笹森春樹)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170414-118-OYTPT50387

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    23. [時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<24>家永教授と「変節」論争
      2017年4月17日5時0分

       プリンストン大に行く前の1977年、私は、新宿の朝日カルチャーセンターで講師をしたことがあります。占領史をテーマにした講座で、竹前栄治さんを代表に、4人で持ち回りの講義でした。

       講義内容は、同年秋、朝日新聞社から『日本占領秘史』のタイトルで出版されます。ところが、私の講義内容に、歴史家の家永三郎さん(元東京教育大教授)から抗議が来たのです。

       それは受講者との質疑応答の部分でした。日本の知識人の態度について質問された私は、「進歩的文化人には2種類ある」と話したんです。

       一つは、戦争中、自由主義者として沈黙を強いられ、大学を追放されたりして、戦後、大学に復帰した矢内原忠雄氏や大内兵衛氏のような人々。もう一つは、戦時中は軍部に迎合していたが、戦後は米国民主主義の礼賛者や平和主義者に早変わりした変節組で、例として、とっさに清水幾太郎さんと家永さんの名前をあげたのです。

       《家永三郎(1913~2002年)は、戦後、小学生向け国定歴史教科書『くにのあゆみ』を分担執筆。その後、自らが執筆した高校用日本史教科書の検定結果を不服として、計3次32年にわたる教科書裁判を起こした》

       朝日新聞出版局は、手打ちに持ち込みたかったのでしょう。その年の暮れ、私は築地の旅館で家永さんと会談しました。

       私は「表現の緩和や修正には応じるので具体案を出してほしい」と提案しましたが、家永さんは拒否。問題部分の全面削除、再版時に陳謝の意味で断り書きを入れることなどを求め、応じなければ名誉毀損きそんで告訴するというのです。

       私は家永氏の著作を引いて反論しました。例えば、「学界の一兵卒として学問報国の戦列に参加することの出来た吾人は誠に願っても無き幸せ者」など、戦時中の迎合的表現をいくつも取り上げました。

       しかし、家永さんは、「検閲に対する避雷針だ」と釈明します。「我々がどんな苦しい思いで当局に協力せざるを得なかったか若い人には分かるまい」とか「私の知的水準が低かったのであって、節操が変わったのではない」などとも弁明しました。結局、話し合いは物別れに終わりました。

       ところが「自分は我慢してもいいが、教科書裁判の支援勢力が黙っていないだろう」という脅し文句に、朝日新聞は震え上がったらしい。1週間後、私の講義部分が載った『日本占領秘史』下巻を絶版にすると、一方的に連絡してきました。

       10年後の87年、私は家永さんと再び対決します。家永さんの教科書裁判で、国側の証人として出廷したのです。私は、家永氏の天皇観が、右から極端な左へ変遷したことを指摘し、「こういう振幅の大きい方は、教科書の執筆者には不適当」と陳述しました。

       当時の家永さんは、進歩派陣営の大スターでした。私は学界から、まるで右翼反動並みの扱いを受けましたよ。

       (編集委員 笹森春樹)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170416-118-OYTPT50120

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    24. [時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<25>金日成全盛期の北朝鮮へ
      2017年4月18日5時0分

       1982年4月末、日本国際政治学会の北朝鮮訪問団(関寛治団長)の一員として、2週間の予定で訪朝します。

       先方から「後継者問題だけは口にしないでもらいたい」と注文されましてね。当時は金日成キムイルソン主席の全盛期。経済発展は韓国をしのぐと言われていました。息子の金正日キムジョンイルの名前はちらほら出ていましたが、後継者として公表されていたわけではありませんでした。

       《82年、金日成生誕70年を記念し、平壌に主体チュチェ思想塔、凱旋がいせん門、人民大学習堂(図書館)の三つの大建築物が完成。金正日は、80年10月の労働党第6次大会で後継者に内定していた》

       平壌には世界一と称する建造物があちこちにありました。図書館も、蔵書数が世界一だと。

       たしかに建物は立派でしたが、膨大な数の金日成全集が並べられ、これも蔵書数に数えているのかなと思いましたね。

       軍事博物館にも行きました。他の団員は興味がないので私1人。これも豪華な建物で、大佐の館長と女性の中尉が案内してくれました。日本語のできる中尉が、盛んに「アメリカのやつ」と言うのが印象的でした。

       館長は、朝鮮戦争に参加したというので、当時の状況を質問しました。北朝鮮軍は開戦当初、釜山近くまで南下しますが、国連軍の仁川インチョン上陸作戦によって補給ルートを断たれ、主力は姿を消し、北へ戻ります。

       ただ、どうやって退散したのか分かっていなかった。館長に「あなたは、東海岸の山脈を縫って北まで戻ったのですか」と聞くと、「そうだ」と。これは貴重な証言だったと思います。

       朝鮮戦争を再現した展示は、北朝鮮の捕虜になった米軍のディーン師団長が、少年兵に襟髪をつかまれ、竹やぶから引きずり出されるシーンなどがありました。実物の戦車が転がっていて、向こう側の空が燃えている場面も。随分お金をかけて作ったんでしょう。

       なかでも私の関心をひいたのは、北朝鮮空軍の活躍を紹介した案内板。米軍機を撃墜したエースが何人もいたというのです。空戦で相打ちになり、双方のパイロットが落下傘で降下したが、着地後に北朝鮮軍のパイロットが飛びかかり、相手をねじ伏せて捕虜にした、などのエピソードが紹介されていました。

       それまで北朝鮮空軍は紹介されたことがないし、エースがいたという話も聞いたことがない。こんなチャンスは二度とないと思った私は、ハングルの説明文を片っ端から訳させ、メモしていきました。写真も撮りました。館内に9時間もいましたよ。

       ちょうどその頃、飛行機マニアの仲間と、『第2次大戦―世界の戦闘機隊』という本を作っていましてね。帰国後、さっそく北朝鮮空軍の写真と文章を加えました。マニアの世界では、世界的なスクープになったんです。

       この本を2冊、北朝鮮に送りましてね。それを見た金日成主席は、他のメンバーは役立たずだったけれど、ただ一人、秦という男が良いことをしてくれた、と語ったそうです。

       (編集委員 笹森春樹)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170417-118-OYTPT50364

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    25. [時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<26>盧溝橋第一発の犯人は
      2017年4月19日5時0分

       1982年5月、北朝鮮訪問の途中、私は1人だけ抜けて、列車で鴨緑江おうりょくこうを渡り、旧満州の中国東北部・瀋陽へ向かいました。近郊の柳条湖、皇姑屯こうことん(張作霖爆死の地)の現場に立ちたいという宿願からです。

       ついで北京に飛び、永定河えいていが河畔の盧溝橋を訪ねました。10日間のうちに、昭和史の「三大現場」に立った感激は忘れません。

       いわゆる盧溝橋第一発の犯人は誰か? それは学生時代のヒアリング以来、解けぬ謎であり続けました。

       《37年7月7日、盧溝橋で夜間演習中の日本軍・清水中隊に銃弾が飛来した事件が発生。それは45年8月の日本敗戦まで続く日中戦争の発火点となった》

       拙著『日中戦争史』(61年)では、日本軍の私的陰謀説、現場を守っていた中国・第29軍の発砲説、中国共産党の陰謀説など諸説あるものの、いずれも決め手に欠けると書きました。

       事件から半世紀。86年、中国の全国政治協商会議が編さんした『七七事変』に、第29軍の大隊長だった金振中(04~85年)のヒアリング手記が発表されます。そして日本側記録と照合することで、事件の全体像が明らかになってきました。

       事件当日夕方、夜間演習にやってきた清水中隊は、永定河の堤防に約200人の第29軍兵士が壕ごうを掘っている姿を目撃しています。

       演習は、堤防を背にして匍匐ほふく前進する兵に対し、仮想敵が空砲の軽機関銃で応戦する想定でした。その最中、数発の実弾が堤防方向から飛来したので、中隊長が演習を中止し集合ラッパを吹かせると、さらに十数発の射弾しゃだんが飛来しました。

       その際、兵1人が一時行方不明になったこともあり、第29軍司令部と日本軍特務機関との交渉に移ります。しかし、中国側は堤防には配兵していないと主張し、逆に日本軍の陰謀だと宣伝しました。こじれた末に全面戦争へ拡大してしまいます。

       ところが、金振中は、指揮下の中隊を堤防陣地に配兵し、日本軍が100メートル以内に近づいたら射撃してよいと命じていたと回想していたことが明らかになったのです。ヒアリングしたのは、おそらく若い人で、それが中国側に不利な証言だとの認識がなかったのでしょう。金振中も、つい本音をしゃべった……。

       私は、第一発の犯人は第29軍兵士だったのはほぼ確実と見ますが、乱射乱撃に至らなかった点から、故意性は薄く、偶発に近いと判断しています。

       戦後の日本では中国共産党陰謀説に人気があります。私は96年に『盧溝橋事件の研究』(東京大学出版会)を刊行するにあたり、中国共産党関係の文献を当たり直しました。

       その結果、党北方局の劉少奇書記(のち国家主席)ら幹部は、延安の重要会議に呼ばれて不在。事件直後、北京周辺の党員は、エドガー・スノー宅などを中継し安全地帯へ脱出するのに忙しかった事情が分かりました。

       どうやら第一発の“犯人”は、堤防に布陣した耿錫訓こうしゃくくん中隊長らしいと私は推定しました。しかし、彼の消息はつかめませんでした。

       (編集委員 笹森春樹)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170418-118-OYTPT50382

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    26. [時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<27>南京事件 犠牲者4万人か
      2017年4月20日5時0分

       南京事件は、東京裁判で最も世論にアピールした戦争犯罪でしょう。中支那なかしな方面軍司令官だった松井石根いわね・元大将は、その責任を問われて死刑。南京軍事法廷でも、師団長らが死刑になっています。

       《盧溝橋事件から5か月後の1937年12月、日本軍は、中国国民政府の首都・南京を占領した。その際、多数の敗残兵や捕虜、住民を虐殺したとされる。犠牲者数などで諸説が乱立し、日中間の歴史認識をめぐる争点となっている》

       犠牲者数は、東京裁判でも判断がつきかねたんですね。判決は「20万人以上」とする一方、松井への判定では「10万人以上が殺害された」と、数が割れました。

       日本では、十数万人以上の虐殺があったとする「大虐殺派」、虐殺はなかったと主張する「まぼろし派」、そして中間派に分かれ、今も論争が続いています。

       私は中間派で、犠牲者は最大4万人と見ています。算定の根拠は、日本軍の戦闘詳報。これは功績判定の基準にもなる公式文書です。日本軍は終戦時に大量の文書を焼きましたが、防衛庁が戦史室を設け、『戦史叢書そうしょ』を編さんしたとき、散在していた文書を精力的に集めました。参戦した部隊の半分近くで戦闘詳報が残っています。

       例えば、南京陥落の3日後、難民区で掃討作戦をやったのですが、歩兵第7連隊の戦闘詳報に6670名という数字がある。それは虐殺という受け止め方じゃないんです。「敗残兵の刺射殺」。つまり「戦果」なんですね。

       旧陸軍将校OBでつくる偕行かいこう社も南京事件の解明に取り組みました。私とほぼ同じ資料を使ったんです。でも、数字をやや誇張する習慣があったという理由で、犠牲者数を私の半分に査定したという。

       私は査定はしていません。中国側と議論した時に通用しませんから。それが4万人なんです。

       まぼろし派は当初、中国側が言うような大量虐殺はなかったという趣旨で、具体的な数に言及するのを避けていました。虐殺規模に対する観念が当時と今では違うからでしょう。

       ところが、その後、世代交代が起き、今はゼロとか、1人とか言う人が多い。

       南京事件について書かれた本や論文、エッセーの数は一千以上と言われ、「南京産業」と呼ぶ人もいるくらいです。しかし、外国人には読まれない。もっぱら国内消費用です。

       中国の南京大虐殺記念館に、30万人という数字が大きく掲げられています。30万人説は、中国政府が公認した数ですから、切り下げる可能性はまずありません。日本の大虐殺派は、中国側との連帯を崩したくないから、10万または20万以上と含みのある算定をしています。

       興味深いのは、「抗敵報」という中国共産軍の機関紙が、1938年4月に4・2万人という数字を報じていたこと。南京事件の直後です。

       北京郊外・盧溝橋の抗日戦争記念館に行ったとき、「抗敵報」のファイルが並んでいて、それを覗のぞいていて偶然見つけました。拙著『南京事件』(中公新書)の増補版(2007年)に紹介しましたが、説得性のある数字かもしれません。

       (編集委員 笹森春樹)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170419-118-OYTPT50326

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    27. [時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<28>資料集作り 楽しい重労働
      2017年4月22日5時0分

       1980年から拓殖大学、千葉大学、日本大学の三つの大学で教職を歴任しました。授業科目は日本政治外交史と国際政治史です。コマ数は少なく、役職には就きたくない、というのが私の希望でした。調査研究や執筆に時間を取りたかったからです。

       私は資料集をいくつか作りましたが、楽しくはあっても、ひどく時間と手間を取る肉体労働でしたね。『日本陸海軍総合事典』『日本官僚制総合事典』『世界諸国の制度・組織・人事』『日本近現代人物履歴事典』(いずれも東京大学出版会刊)の系列です。

       『日本陸海軍総合事典』は税込み3万6720円と高価ですが、71年の初版以来ペースが落ちずに売れ続けています。顧客になりそうな旧軍人は減っていくばかりなのに、なぜだろうといぶかしく思っています。

       この本は、主要陸海軍人1891人の軍歴を中心とする年譜形式の略歴と、主要職務(参謀総長など1800)の歴任者表、主要学校の卒業生一覧、諸名簿、用語の解説などで構成しています。

       情報源は、海軍の場合だと、厚労省が保管する全士官の履歴原本に、本人や遺族への問い合わせで補充しました。陸軍の場合は終戦時に焼いてしまったので、各県庁が保管する兵籍や、恩給局所蔵の履歴資料などから合成しています。

       人名簿の中で関心が高いのは、エリートコースだった陸軍大学校、海軍大学校(甲種)の卒業生全員のリストでしょう。優等生である恩賜の軍刀(陸大)や長剣(海大)の拝受者名も記しています。

       これに匹敵するのが高等文官試験(高文)合格者です。『日本官僚制総合事典』に、1894年の第1期から終戦直後の1948年まで約1万人の名簿を収録しています。登載者の感想は、「希少価値を実感した」と喜ぶ人と「そんなに多いのか」とがっかりする人に分かれました。

       意外に苦労させられたのは、死没の日付探し。有名人だと新聞の訃報ふほう欄に載りますが、現役引退後すっかり忘れられ、漏れてしまう例も少なくありません。

       『日本近現代人物履歴事典』は、軍人をのぞく各界の著名人約3000人を収録しましたが、没年月日が不明に終わった人が2人います。阿部定さだ(1905年生まれ)と、KDD事件の板野学(1910年生まれ)です。

       阿部には『阿部定正伝』という分厚い伝記もあるのですが、百方手を尽くしても80年以降の消息はつかめなかった、とのことです。私は学生時代に、浅草の居酒屋で仲居をしていた彼女に会った因縁があります。

       この種の資料集を作るには、公的情報の利用が不可欠です。ところが、個人情報保護法(2003年施行)が猛威を振るい、かつて私が利用した公的情報は、ほとんど使えなくなっています。

       どうやら私の仕事は、後続が断たれたことによって存在価値が高まるという、皮肉な結果になりそうです。ただし、改版に備え、新聞の死亡記事に目を光らせる日々は、生きている限り続くでしょう。(編集委員 笹森春樹)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170421-118-OYTPT50372

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    28. [時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<29>「吉田証言」の詐話を追う
      2017年4月24日5時0分

       1991年12月から92年1月にかけて、私が「ビッグバン(大爆発)」と呼ぶ、慰安婦問題の騒動が発生します。12月、旧日本軍に徴用された韓国人と遺族が、日本に謝罪と補償を求め東京地裁に提訴。この中に元慰安婦3人も加わりました。1月11日には朝日新聞が、朝刊1面トップで、慰安婦の募集に日本軍が関与していたと報じます。

       《記事は、旧日本軍が慰安所の設置や従軍慰安婦の募集に関与していたことを示す文書が明らかになったという内容だった。従軍慰安婦について「主として朝鮮人女性を挺身ていしん隊の名で強制連行した。その人数は8万とも20万ともいわれる」との記述もあった》

       記事の根拠となった文書は、吉見義明中央大教授が防衛庁の防衛研究所図書館で発見した、とのこと。私は12月下旬、吉見氏と防衛研究所で偶然会い、近く朝日新聞に出ると聞き、なぜニュースになるのか疑問に思いました。

       1938年に陸軍省が流したこの通達文書は、すでに20年前から公開されていたもので、慰安婦を募集する際、誘拐まがいのことをやっている悪質な業者がいるから、取り締まれという内容です。日本軍の関与には違いないが、良い関与だったからです。

       それを、宮沢首相の訪韓(1月16日)という絶妙のタイミングに合わせて掲載したのでしょう。

       ほかのマスコミも追随し、強制連行の証拠が見つかったかのような大騒ぎになりました。宮沢首相はソウルでデモ隊に迎えられ、何度も陳謝します。

       強制連行説の根拠になったのが、吉田清治著『私の戦争犯罪』(83年)です。戦時中、労務報国会(労報)下関支部の動員部長だったと称する吉田氏は、済州島で慰安婦を調達せよとの西部軍命令を受け、女性を狩り出したと書いています。

       私は一読して怪しいと感じました。済州島は朝鮮総督府と朝鮮軍の管轄。本に載っている命令書も、正規の体裁から外れている。

       私は吉田氏に電話しましたが、話に矛盾が多く、作り話と確信しました。出版社にも電話すると、担当者は「あれは小説ですよ」と言うのです。

       私は彼を典型的な詐話師だと直感し、92年3月、証拠を見つけるため済州島を訪れました。最初に城山浦の貝ボタン工場を訪ねました。本には女子工員を木剣で打ちすえ、かり集めたと書かれています。近くの老人たちに話を聞くと、「そんな話はない。小さな村落だから、何十人も連れて行かれたら大事件だよ」と一様に否定しました。

       さらに公立図書館で、地元の済州新聞が吉田本の韓国語版の紹介記事(89年8月14日)を掲載していたことを知りました。慰安婦狩りを裏付ける証言はなく、島民は「デタラメだ」と否定しているとの内容です。

       書いた女性記者を訪ねると、「日本人はなぜこんな作り話を書くのでしょうか」と責められました。

       帰国後、私の済州島での調査を取材した4月30日の産経新聞は、吉田証言を虚偽と断定しました。

       (編集委員 笹森春樹)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170423-118-OYTPT50145

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    29. [時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<30>慰安婦問題の春夏秋冬
      2017年4月25日5時0分

       図らずも慰安婦問題に私が巻き込まれてから、二十数年の歳月が流れました。

       《1993年8月4日、政府は、慰安婦問題についての河野洋平官房長官談話を発表した。この中で、朝鮮人の慰安婦の「募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」と認定した》

       河野談話は、韓国と事前調整で譲歩した産物なんですね。日本軍が強制連行したとは書いてないが、そう読めなくもない玉虫色の表現です。実際に河野氏は記者会見で、強制連行を認めるのかと聞かれ、そうですと答えている。

       談話発表の前夜、慰安婦問題を担当していた内閣外政審議室の谷野作太郎室長から、私の自宅にファクスが届きました。談話の文案について感想を、とのことでした。一読した後、実害が少しでも減るように、「総じて」を「時として」などに修正されたい、と要望しましたが、採用されませんでした。

       95年7月、元慰安婦たちに「償い金」を給付する半官半民の「アジア女性基金」が設立され、私は事実の究明に当たる資料委員会の委員を引き受けます。

       ところが、慰安婦の総数は約2万人、最多は日本人で、朝鮮人は2割という私の結論は、和田春樹委員(東大教授)ら左派のお気に召さず、「東大には研究の自由はあるが、基金にはない」と宣告され、私の論文はボツにされてしまいます。

       その頃、国連人権委員会の委託を受けたクマラスワミ女史が来日します。私は彼女に会い、戦時中にソウル(京城)の新聞に載った慰安婦募集の広告と、北ビルマで捕らえられた20人の朝鮮人慰安婦に対する米軍の尋問調書を渡しました。

       前者は強制連行を必要としない証拠で、後者は、慰安婦に外出、廃業、社交の自由があり、軍司令官級の高収入を故郷に送金するなど「性奴隷」とはほど遠い境遇だったことを示しています。

       しかし、人権委員会へのクマラスワミ報告(96年2月)には反映されませんでした。吉田清治氏の強制連行体験、「慰安婦をセックス・スレイブ(性奴隷)と呼びかえよう」と説いていた戸塚悦朗弁護士の言い分の方が採用されたからです。

       日本政府の事なかれ主義もあって、強制連行と性奴隷のイメージは、国際社会に広く定着した感があります。韓国ばかりか、世界各地に乱立した慰安婦像は60体を超えるありさまです。

       無力感を味わっていた私は、せめて慰安婦と周辺事情の史的経過を実証的にまとめておきたいと考え、99年に『慰安婦と戦場の性』(新潮社)を刊行します。

       2013年には、内閣官房で対外発信を強化する一環として、拙著の英訳プロジェクトが内定しました。

       ところが、新任の内閣広報官から、もし、日本政府の後押しが露見したらまずいとの理由で、ドイツ、英連邦、米国、韓国など諸外国の例を記述した第5章などを訳出の対象から外したいと言われます。私は削除を拒否し、英訳プロジェクトは流れました。何度目かの筆禍体験でした。(編集委員 笹森春樹)
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170424-118-OYTPT50313

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    30. [時代の証言者]実証史学への道 秦郁彦<31> 最終回 歴史家に冬の時代が来る
      2017年4月26日5時0分

       かつては危険な職業とされてきた歴史家たちは、日本では太平洋戦争における多大の犠牲と引き換えに、安全で居心地の良い境遇を手に入れたかに見えます。

       私もその恩恵に浴した一人に違いありません。しかし、歴史と向き合う姿勢は、各人の自律に委ねられるから、責任も生じます。

       私が自身に課した信条が幾つかあります。特定のイデオロギー活動にコミットしない▽フィクションが無意識のうちに刷り込まれないよう、歴史小説やテレビの歴史ドラマはなるべく見ない▽偽フェイクニュースや詐話師に振り回されない知恵と技法を身につける▽陰謀史観や文明(史)論へ逃げ込まない、などです。そこで、謎解きと並んでトリック破りの眼力も必要になります。

       例えば、松本清張の『日本の黒い霧』。轢死れきしした下山国鉄総裁の着衣から採取された暗緑色の粉末から、作者は米軍戦車の色を連想します。次々に連想を重ね、犯人は米軍の謀略機関と結論するのですが、暗緑色から米軍戦車への不自然な飛躍に読者は気がつきません。ちなみに現在では、正攻法で挑んだ佐藤一『下山事件全研究』の自殺説がほぼ定着しています。

       トリックで連想するのは、トランプ米大統領の言動です。それに触発されたのか、「ポスト真実」の現象に関心が高まっています。客観的事実が軽視され、思いつきや思いこみで形成されたイメージで、国際世論が動く状況を指します。

       和と律義を身上とするわが国が、この「外患」をはね返せる見込みは薄そうです。

       日本の歴史家は、より深刻な「内憂」にも直面しています。それは個人情報保護の名目で、必要な公的情報が利用できない状況が進行していることです。

       大きな事故や事件でも、当事者の氏名、学歴、職業、家庭などの基本情報が伏せられています。映像にはほぼ全員にボカシが入り、捜査員よりもブルーシートを掲げて現場周辺を隠す警察官のほうが多いくらいです。私は現代の日本を「黒塗りとブルーシートの時代」と呼ぶことにしています。

       法的根拠は、情報公開法第5条の「氏名、生年月日その他の記述等により特定の個人を識別」できる情報は不開示という規定です。

       しかも、この規定は歴史的公文書にも適用されるので、伊藤博文や北条政子の名前も黒塗りされてしまいます。数年前に国立公文書館が公開したBC級戦犯(約5000人)の裁判記録は、被告の氏名が黒塗りされています。苦情を言うと、「米国へ見に行きなさい」と突き放されました。

       そのうち、人名辞典は作りにくくなり、私は「生没年不詳。昭和から平成にかけ活動した歴史学者」で片づけられるかもしれません。

       往年のCMになぞらえれば、歴史家は「わたし調べる人(作る人)、あなた解釈する人(食べる人)」に二分されます。どうやら私の歴史家人生は冬の時代を迎え、「調べられない人」で終わる予感がします。

               ◇

       この連載は、編集委員の笹森春樹が担当しました。コピーサービス(有料)は読者センター((電)03・3246・2323)へ。27日から「音楽は愛 湯川れい子」が始まります。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170425-118-OYTPT50361

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  51. 聖徳太子も鎖国も復活…「分かりにくい」と不評
    2017年3月20日19時19分

     文部科学省が2月に公表した中学校の次期学習指導要領の改定案で「聖徳太子」を「厩戸王うまやどのおう(聖徳太子)」に変更するとしていたことについて、元の表記に戻す方針を決めたことが20日、分かった。

     改定案に対する意見を国民から募ったところ、「分かりにくい」と不評だったためだ。「鎖国」の表記も復活させる。修正した次期指導要領は今月末に告示される見通し。

     中学校と同時に公表された小学校の次期指導要領改定案でも、現行の「聖徳太子」を「聖徳太子(厩戸王)」と変更していたが、小中ともに「聖徳太子」に一本化する。

     文科省は改定案で、小学校では一般になじみのある「聖徳太子」を前面に出したが、中学校では「厩戸王」を前面に出した。「聖徳太子」は没後につけられた呼称であり、歴史学の研究を反映したとしていた。

     しかし、2月14日~3月15日、改定案について国民から意見を募ると、「小中学校で表記が違うのは分かりにくい」「1000年以上使われた言葉を変えてほしくない」といった意見が相次ぎ、方針を一転させた。

     また、江戸時代は外交や交易が一部で行われていたとして、改定案では小中とも「鎖国」の表記をやめ、「幕府の対外政策」に変えるとしていた。だが、「幕末に『開国』があるのに、鎖国がないのは分かりにくい」などの意見が寄せられたため、「鎖国」を復活させることにした。

     鎌倉時代の「元寇げんこう」は、モンゴル帝国の拡張をイメージしやすいように、中学校で「モンゴルの襲来(元寇)」に変えることにしていたが、「従来の呼び方がなじみやすい」などの意見があり、「元寇」を前面に出した表記に修正する方針だ。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170320-118-OYT1T50060

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    1. 「聖徳太子」ゆかりの地に安堵…呼称結局変えず
      2017年3月25日15時4分

       2021年度に実施される中学校の次期学習指導要領で、「聖徳太子」の呼称を「厩戸王うまやどのおう(聖徳太子)」に改めるとした文部科学省の方針が撤回される見通しになった。

       2月に改定案を公表したところ、国会や国民から不満の声が相次いだためだ。次期学習指導要領は3月末に告示されるが、聖徳太子ゆかりの地や関連本の出版社には安堵あんどや戸惑いが広がっている。

       ◆「良かった」

       聖徳太子が7世紀に建立したといわれ、世界遺産に登録されている法隆寺(奈良県斑鳩いかるが町)の古谷正覚ふるやしょうかく執事長は「元の表記に戻ることになって良かった」と喜ぶ。同寺によると、聖徳太子は1300年前から続く呼称で、信仰の対象でもあるためだ。古谷執事長は「厩戸王はなじみが薄く、困惑した人が多かったのではないか」と語る。

       大阪府太子町は聖徳太子が葬られたとされる墓があり、1956年の合併時、今の町名になった。町の公式マスコット「たいしくん」は聖徳太子がモチーフ。町の担当者は「やはり聖徳太子の方が親しみやすい」とほっとしていた。

       ◆本の記述

       呼称変更の理由として、文科省は「聖徳太子」が没後100年以上たってついた呼称であると説明。同時に公表された小学校の学習指導要領改定案でも、現行の「聖徳太子」を「聖徳太子(厩戸王)」に変えた。結局、小中とも「聖徳太子」に一本化される見通しだが、学習指導要領で呼称の記載がない高校の教科書では、すでに「厩戸王(聖徳太子)」などが使われている。

       集英社は昨年10月、発行する「学習まんが 日本の歴史」を全面刷新し、主に「厩戸王」を使うよう改めた。同社児童書編集部は「最新の研究成果が反映される高校の教科書は『厩戸王』が使われており、呼称は変えない」と語る。

       岩波書店は4月、中学生~大人向けの歴史読み物「聖徳太子 ほんとうの姿を求めて」を発行する。巻頭に呼称を巡る説明文を掲載する予定で、「厩戸王」に変わることを前提にした説明文を作成していた。同社は「文言を修正しないといけない」と戸惑う。

       ◆国会で論議

       今月8日の衆院文部科学委員会で笠りゅう浩史衆院議員(民進党)が「厩戸王、括弧、聖徳太子にする、これは何ですか。歴史に対する冒涜ぼうとくだ」と松野文科相を問いつめた。松野文科相は「史実をしっかり学ぶことを重視した」と釈明した。

       文科省が3月中旬まで行ったパブリックコメント(意見公募)では、9年前の前回改定時の約2倍にあたる約1万1000件の意見が寄せられ、聖徳太子の呼称を巡って「国民に親しまれており、変えるのは反対」などの意見が相次いだという。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170325-118-OYT1T50056

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    2. 歴史をきちんと学んで史実を知る、というためのよいサンプルとして教材につかう上手な方法を考えればよいだけ。

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  52. 中学武道 銃剣道を追加…次期指導要領 きょう告示 「聖徳太子」「鎖国」変更なし
    2017年3月31日5時0分

     文部科学省は2020年度以降に実施する小中学校の次期学習指導要領を31日付の官報で告示する。2月に公表した改定案に対するパブリックコメント(意見公募)の結果を考慮し、表記を改める予定だった「聖徳太子」や「鎖国」を一転して変えないことにした。中学校の保健体育で必修の武道の例としては、柔道や剣道など8種目に加え、木銃を使って相手を突く「銃剣道」を加えた。

    英語時間確保に「総合的な学習」

     また、小学3~6年で授業時間が増える英語を不安視する声も相次ぎ、文科省は18~19年度を移行期間として各校の「総合的な学習の時間」を英語に充てる措置を検討する。

     パブリックコメントは改定案公表後の2月14日~3月15日に実施され、9年前の前回告示時の約2倍にあたる1万1210件の意見が文科省に寄せられた。

     「聖徳太子」については、没後100年以上たって付いた呼称だとして、中学社会の改定案で「厩戸王うまやどのおう(聖徳太子)」に変更した。これに対し、国民から「国民に親しまれており、変えるべきではない」などの意見が届き、文科省は現行通りに戻した。

     小中社会の改定案で「完全に国を閉ざしていなかった」との理由で消滅させた「鎖国」も今回復活。中学社会の「元寇げんこう」は「世界史の視点を重視」した結果、改定案で「モンゴルの襲来(元寇)」に変更したが、「元寇(モンゴル帝国の襲来)」と元寇を中心にした表現とした。

     また、中学校の保健体育では必修の武道の例として、改定案になかった「銃剣道」を加えた。すでに指導要領の解説書には記載があり、「銃剣道も加えるべきだ」との意見が数百件あった。現在、授業に取り入れている学校は全国で神奈川県内の中学校1校だが、文科省は競技人口が約3万人に上り、国体の競技にもなっている点を評価した。

     元々は旧日本軍の銃剣術だったが、全日本銃剣道連盟の鈴木健副会長は「戦後は戦いの技術の面は払拭ふっしょくし、人間形成を目的とする近代スポーツとして定着している」と話している。

     このほか、昨年12月の中央教育審議会の答申に登場しながら、改定案で掲載を見送った用語「アクティブ・ラーニング」は賛否両論あったが、文科省は告示でも使わず、「主体的・対話的で深い学び」と表記した。

     新指導要領は小学校では20年度、中学校は21年度から実施される。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170331-118-OYTPT50011

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    1. 中学武道に木銃使う「銃剣道」追加
      2017年3月31日7時53分

       文部科学省は2020年度以降に実施する小中学校の次期学習指導要領を31日付の官報で告示する。

       2月に公表した改定案に対するパブリックコメント(意見公募)の結果を考慮し、表記を改める予定だった「聖徳太子」や「鎖国」を一転して変えないことにした。中学校の保健体育で必修の武道の例としては、柔道や剣道など8種目に加え、木銃を使って相手を突く「銃剣道」を加えた。

       また、小学3~6年で授業時間が増える英語を不安視する声も相次ぎ、文科省は18~19年度を移行期間として各校の「総合的な学習の時間」を英語に充てる措置を検討する。

       パブリックコメントは改定案公表後の2月14日~3月15日に実施され、9年前の前回告示時の約2倍にあたる1万1210件の意見が文科省に寄せられた。

       「聖徳太子」については、没後100年以上たって付いた呼称だとして、中学社会の改定案で「厩戸王うまやどのおう(聖徳太子)」に変更した。これに対し、国民から「国民に親しまれており、変えるべきではない」などの意見が届き、文科省は現行通りに戻した。

       小中社会の改定案で「完全に国を閉ざしていなかった」との理由で消滅させた「鎖国」も今回復活。中学社会の「元寇げんこう」は「世界史の視点を重視」した結果、改定案で「モンゴルの襲来(元寇)」に変更したが、「元寇(モンゴル帝国の襲来)」と元寇を中心にした表現とした。

       また、中学校の保健体育では必修の武道の例として、改定案になかった「銃剣道」を加えた。すでに指導要領の解説書には記載があり、「銃剣道も加えるべきだ」との意見が数百件あった。現在、授業に取り入れている学校は全国で神奈川県内の中学校1校だが、文科省は競技人口が約3万人に上り、国体の競技にもなっている点を評価した。元々は旧日本軍の銃剣術だったが、全日本銃剣道連盟の鈴木健副会長は「戦後は戦いの技術の面は払拭ふっしょくし、人間形成を目的とする近代スポーツとして定着している」と話している。

       このほか、昨年12月の中央教育審議会の答申に登場しながら、改定案で掲載を見送った用語「アクティブ・ラーニング」は賛否両論あったが、文科省は告示でも使わず、「主体的・対話的で深い学び」と表記した。

       新指導要領は小学校では20年度、中学校は21年度から実施される。
      http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170330-118-OYT1T50108

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    2. 聖徳太子はこれまでどおり 新学習指導要領が告示
      3月31日 5時09分

      およそ10年ごとに改訂され、小中学校で教える内容や目標を示した学習指導要領が31日に告示されました。文部科学省は当初、中学校では、聖徳太子について日本書紀などを参考に、原則として、厩戸王という名前で教えるよう見直す方針でしたが、反対意見が相次いで、これまでどおり、聖徳太子として教えることになりました。

      31日に告示された新たな学習指導要領は、小学校が平成32年から、中学校が平成33年からそれぞれ実施されます。

      文部科学省は先月、新たな指導要領の改訂案を示しましたが、この中で、中学校の社会科で、聖徳太子について日本書紀などを参考に、原則として厩戸王という名前で教えるよう見直す方針を示していました。

      しかし、これについて意見を募った結果、「聖徳太子という名前を変えるべきではない」とか、「中学校から表記を変えるのはおかしい」といった反対意見が教員だけでなく、一般の人たちからも相次ぎ、文部科学省は従来どおり、聖徳太子を中心とした表記に戻すことにしました。

      また、江戸幕府の施策を示す鎖国という用語についても、先月の時点では、当時、オランダや朝鮮と交易があったという事実に基づき、その使用をやめて「江戸幕府の対外政策」とする方針でした。しかし、「鎖国をなくすと、江戸時代末期の開国との整合性がとれなくなる」といった意見が相次ぎ、結果的に「鎖国などの幕府の対外政策」と表現し、鎖国という用語をそのまま残すことにしました。

      このほか、新たな学習指導要領は、小学校の英語が3年生からに前倒しされ、5年生からは「読む」「書く」を加えた正式な教科となります。

      また、先行して改訂された道徳は、来年4月から小学校で「特別の教科」として実施されます。

      聖徳太子を厩戸王 なぜ変えようとした?

      文部科学省は聖徳太子の表記を、厩戸王に変えようとしたことについて、聖徳太子にはもともと複数の呼び名があったと言われる中、日本書紀に、聖徳太子ではなく、厩戸皇子などの名前が使われていることを理由に挙げています。

      そのうえで「新たな事実の発見があったわけではないが、研究者の意見を聞いて文部科学省として判断した」としています。現在、使われている教科書では、小学校はすべてが聖徳太子で、中学校では8社のうち6社が聖徳太子(厩戸皇子)と表記していて、厩戸王と表記しているのは1社だけです。

      日本古代史が専門の早稲田大学の新川登亀男教授は「厩戸王という表記は、近代になって研究者がつくった表記で、歴史的な資料に出てくるものではない。新たな事実の発見など明確な根拠がないなかで変更して、教科書などに使用するのは不適当だ」と話しています。

      「たいしくん」も自治体も一安心

      聖徳太子の表記がそのまま使われることになり、聖徳太子ゆかりの自治体関係者はほっと胸をなで下ろしています。

      聖徳太子のものとされる御廟がある大阪府太子町は、聖徳太子にちなんだ町のゆるきゃら「たいしくん」が、イベント情報などをフェイスブックで発信しています。
      この中で、「たいしくん」は先月、文部科学省が示した改訂案に対して、「おねがいです。聖徳太子の名前がなくなるとぼくのまちの名前がかわってしまう」と表記を変えないよう訴えていました。
      太子町の横田勝総務政策課長は「新聞を見て、町名や観光施策に影響が出て、えらいことになると思ったが、元の表記に戻ってほっと胸をなで下ろしています」と話していました。

      銃剣道も入れるべきとの要望多く

      現在の中学校の学習指導要領で、武道の授業では、剣道、柔道、相撲の3つの中からどれか1つを必ず行うよう定められています。そのうえで、地域や学校の実態に応じて、「なぎなたなど、そのほかの武道についても履修させることができる」と書かれています。

      この改訂にあたり、武道の関係者からの要望をうけて、「なぎなた」以外にも、「空手道、弓道、合気道、少林寺拳法」などより多くの武道を盛り込みましたが、銃剣道については現在、実施している中学校が1校しかないため明記しなかったということです。

      しかし、文部科学省が改訂案について先月から意見を募ったところ、「銃剣道は国体の種目にもなっていて入れるべきだ」という要望が数多く寄せられたことから、最終的に銃剣道を加えたということです。

      文部科学省は「あくまで表記に加えただけで、授業で必ず銃剣道をやらなくてはいけないものではない」と説明しています。
      http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170331/k10010931531000.html

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  53. [本よみうり堂]多田駿伝 岩井秀一郎著 小学館 1700円
    2017年4月9日5時0分

    日中戦線、不拡大訴え

      評・奈良岡聰智(政治史学者 京都大教授)

     満州事変の首謀者の一人・石原莞爾かんじ。彼はその後、日中戦争勃発ぼっぱつ時に、参謀本部作戦部長として戦線拡大に反対した。参謀本部というと、「統帥権」を振りかざして大陸への侵攻を主導したというイメージが強いが、この時は違った。当時は陸軍省の方が強硬であり、参謀本部内には戦争「不拡大派」が存在したのである。

     「不拡大派」最大のキーパーソンと目されるのが、多田駿はやお参謀次長である。多田は石原の盟友で、戦争勃発の翌月に次長に就任した。当時参謀総長が皇族だったこともあり、次長の役割は大きかった。多田は、和平工作に力を入れ、大本営政府連絡会議で戦争不拡大を主張するなど、奮闘した。しかし、政府の強硬姿勢を止めることはできず、かの「近衛このえ声明」が出され、日中は全面戦争に突入することになった。

     多田の知名度は高くないが、その存在は研究者の間では注目されてきた。筒井清忠氏は、近著の中で、昭和一〇年代の陸軍史はいまだ不十分であり、「多田駿の研究などから地道に始めるべき」と指摘している(『昭和史講義2』ちくま新書)。しかし、まとまった一次史料がなかったため、研究は従来ほとんど皆無であった。このような中で、著者は遺族のもとに残されていた日記、手記などを活用し、多田の初めての本格的評伝となる本書をまとめた。本書により、日中戦争拡大の経緯がより詳しく明らかになった。昭和史研究にとって待望の書である。

     日本人は誤った優越感を捨てるべきだと主張するなど、多田が透徹した中国観を持っていたと指摘されている。阿部信行内閣で陸相候補に挙げられながら、就任が幻に終わった経緯の分析も興味深い。背景には東條英機との対立があったが、皮肉なことに、戦争不拡大を望んでいたはずの昭和天皇の意向も働いていたのだという。戦争の早期終結を望む勢力が一つにまとまれなかった悲劇を象徴するエピソードであり、「歴史のイフ」を考えさせられる。

    ◇いわい・しゅういちろう=1986年長野県生まれ。日大卒業後、在野で昭和史などの研究を続けている。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170408-118-OYTPT50429

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  54. 聖徳太子 外来文化の受容者
    2017年6月21日5時0分

    ◇仏教を政策利用、没後に神格化

    ◇東野治之・奈良大名誉教授 「聖徳」の呼称残すべきだ

     聖徳太子(574~622年)ほど、高い知名度の一方で人物像の変遷が激しい人物は珍しい。近年の研究から見える実像を、古代史家の東野治之とうのはるゆき・奈良大名誉教授に聞いた。

     文部科学省は今春、中学校の学習指導要領改定案で「聖徳太子」の呼称を「厩戸王うまやどのおう(聖徳太子)」に改めようとして不評を買い、撤回した。東野さんによると、「聖徳太子」の呼称は、奈良時代半ばの漢詩集「懐風藻かいふうそう」に初めて現れるが、「聖徳」という呼び方は、没後ほどない頃からされていたという。

     「亡くなって間もなく崇拝が起きていた。だからこそ、『日本書紀』(720年完成)で既に神格化されている」。一度に10人の話を聞いた、という記述もその表れだ。「推古天皇から政治をすべて任されていた」というイメージも大げさで、太子が単独で行ったと考えられる施策は、十七条憲法の立案と仏典の講義・注釈に限られるという。推古天皇や蘇我そがの馬子うまこに政策を進言する「ブレーンのような役割だった」と東野さんは話す。

     「聖徳」と称されるほど優れていたのは、「中国からの先端文化への理解力」だという。「それを生かして仏典に注釈を施し、高度な漢籍の能力が必要な外交文書も作った」。仏教については、必ずしも出家を必要としない形で受け入れ、「社会をまとめる手段として政策的にうまく利用した」とみる。

     日本書紀は「皇太子」になったと記すが、制度として「皇太子」ができるのは、689年の飛鳥あすか浄御原令きよみはらりょうによってとされ、推古朝にはまだない。史料には「王命」「皇子命」と記され、「ミコノミコト」と呼ばれていたようだ。同様に「ミコノミコト」と呼ばれた人物は、後に天智天皇となる中大兄なかのおおえ皇子や天武天皇の後継とされながら早世した草壁くさかべ皇子がいる。「次の天皇になりうる人物という意味の称号だったのだろう」という。

     太子像は時代と共に変わり続けた。平安時代以降、太子を観音の化身として神秘化する太子信仰が盛んになる。江戸時代には、仏教を重視したことから儒学者や国学者に批判され、明治に再評価される。1930年に紙幣のデザインに採用されたのは「皇太子の時に摂政になった昭和天皇とイメージを重ねる狙いだったのだろう」とみる。

     東野さんは4月に刊行した『聖徳太子 ほんとうの姿を求めて』(岩波ジュニア新書)で、太子の人物像を〈行動的ではないが頭は冴さえ、自分のポリシーをもって外来文化を取り入れる、ある意味過激な知識人〉と総括した。「古代から『聖徳』と呼ばれてきたのには、それなりの理由がある。『聖徳太子』の呼称は残すべきだ」と強調する。(文化部 清岡央)
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170620-118-OYTPT50355

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  55. 『日本書紀』は、ほんとうに「史実」のみで構成編纂されているのかな?

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    1. 「日本書紀 創作」
      https://www.google.co.jp/search?q=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80+%E5%89%B5%E4%BD%9C

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  56. [編集委員が迫る]日中戦争 誤認と不信で拡大…歴史家 秦郁彦氏 84
    2017年7月11日5時0分

    はた・いくひこ 日中戦争研究の第一人者。大蔵省勤務を経て、米プリンストン大大学院客員教授、拓殖大、千葉大、日大教授などを歴任。著書に『日中戦争史』『盧溝橋事件の研究』など。山岸直子撮影

     日中戦争の発火点になった盧溝橋ろこうきょう事件(1937年7月7日)から80年。泥沼化した戦況から抜け出せないまま、中国からの撤兵を拒否した日本は、米国との対立を深め、4年後、対米英戦に突入する。そして敗北した。日中戦争とは何だったのか、歴史家の秦郁彦さんに聞いた。(聞き手 笹森春樹)

    盧溝橋80年 「偶発」前提 中国が史観変更

     ――盧溝橋事件をどうとらえていますか。

     「日本側はともあれ、中国側のイメージが変わってきた点に注目したい。50年目にあたる1986年に、盧溝橋の現場で戦った中国軍の大隊長(金振中)の証言が公開されました。それまで中国側は、国民党政権の史観を継承し、日本軍の計画的陰謀と主張してきたのですが、それが否定され、中国軍兵士による偶発的発砲であることが明らかになりました。つまり、局地の小紛争として収拾できたのに、相互の誤認と不信によって、全面戦争へ拡大してしまったのです」

     ――盧溝橋事件の実情が知れると、五分五分の責任論になりかねません。それ故に、中国としては、公定史観を見直す政治的必要性が生じたのでは。

     「そう思います。だから私は、80周年に、新しい公定史観を打ち出すかなと注視していました。すると、一昨年の政治局会議で習近平主席が提議し、今年1月発行の国定教科書の記述で、戦争の呼称をそれまでの『8年抗戦』から『14年抗戦』に改めたのです」

     「つまり、抗日戦争の起点を、37年ではなく、教科書ではほとんど無視してきた31年の満州事変(9・18事変)に変えたわけです。中国共産党が国民党(台湾)史観の継承から脱し、自前の国定史観を確立しようとしていることが読み取れます」

     ――日本でも、満州事変から終戦までを15年戦争と呼ぶ人が少なくありませんね。

     「もう10年以上前になりますが、15年戦争論者の一人が中国の学会で、中国も同調するよう説いたら、賛成者が多かったと、うれしそうに語っていました。ただし、正確には13年11か月なので、中国の研究者は15年ではなく、14年戦争と言い換えたのでしょう」

     「ともあれ、満州事変は、関東軍による自作自演の鉄道爆破から始まったことがよく知られており、弁護の余地がないだけに、中国が日本を責める新たなカードにするかもしれません」

     ――天皇陛下が戦後70年の2015年の年頭に際し、「満州事変に始まる戦争の歴史を十分に学ぶことが大切」と述べられていますね。

     「満州事変への関心が薄れかけていただけに、私も陛下のさりげない感想に接して、はっとしました。関連して想起したのは、昭和天皇の明察です。盧溝橋事件の10日前、一触即発の日中関係を憂慮し、中国国民政府へ思いきった譲歩をするため、前例のない御前会議を開こうとした故事のことです」

     「このときの焦点は、蒋介石を中心とする中国の統一を認め、華北分離工作を停止することにありました。昭和天皇は、衆望を担って首相に就いたばかりの近衛文麿、華北工作の中止を唱えていた外相の広田弘毅、参謀本部作戦部長の石原莞爾かんじらの知略をまとめ上げれば、避戦の見込みがあるかもしれない、と判断したのでしょう」

     「しかし、内大臣の湯浅倉平、元老の西園寺公望まで伝えた段階で、盧溝橋事件が発生し、不発に終わります。日中戦争を回避する最後の機会を逃したのは惜しまれますが、昭和天皇の勘の良さには感銘します」

     ――問題は満州事変の成功体験に味をしめ、華北を第二の満州国にともくろんだ対中強硬派の策動ですね。

     「現場の支那駐屯軍は不拡大方針ですが、関東軍や中央の強硬分子は、事あれかしの一撃論に傾きました。参謀本部作戦課長の武藤章は、事件の第一報に『面白いことが始まったね』と反応し、上司で不拡大論の石原を突き上げ、3個師団の派兵を承知させます。近衛首相も広田外相も優柔不断。石原が『南京に飛んで蒋介石と話し合ってくれ』と要望しても、動きませんでした」

     「蒋介石も、日本政府や軍部への不信感を強め、ドイツの和平仲介を断り、徹底抗戦を決意します」

     「日中ともに全面戦争を望まないままに、ずるずると泥沼の長期戦にはまり込みました。宣戦布告もなかった支那事変は、1941年に対米英の大東亜戦争に吸収され、支戦場ながら、終戦まで100万の日本軍がくぎ付けになります」

     ――図らずも国民政府は、第2次大戦の戦勝国に列しますが、直後から、国民政府と共産党の内戦が再発。49年に中華人民共和国が成立し、共産党が漁夫の利を得た形になりますね。

     「毛沢東主席は、訪中した日本の政治家や元軍人が、謝罪を口にすると、『日本軍が国民政府軍と戦って撃破してくれたお陰です。むしろ、感謝したい』と答えています。共産党にとっては国民政府打倒が最優先でしたから、毛発言は本音でしょう」

     ――これからの日中関係についての展望は。

     「文化大革命後の中国は、混迷と停滞が半永久的に続くのではないかと思わせましたが、その予想は外れました。90年代以降の中国は、高度成長路線をひた走り、今や米国と並ぶ世界のスーパーパワー(超大国)になりました。この奇跡的な現実を、先入観抜きに評価すべきでしょう。体制は違いますが、自己改革による成熟に期待しつつ、つかず離れずのクールな友好関係を維持したいものです」

     ◆盧溝橋事件 1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋で夜間演習中の日本軍に、中国第29軍が射撃を加えたのをきっかけとした武力衝突。11日に現地で停戦が成立したが、近衛内閣は同日、内地3個師団の華北派兵を決定。日本軍は7月末、北京を占領した。翌8月、戦火は上海に飛び火し、日中両軍の全面戦争に拡大した。

     ◆華北分離工作 満州事変の成功体験を経た日本陸軍は、次いで河北省など中国の華北・内蒙古の5省を、蒋介石の国民政府から分離し、親日的な地方政権を樹立しようと画策。1935年、冀東きとう(冀は河北省の別称)防共自治政府を誕生させた。

    拡大中国 旧陸軍を想起

     15年戦争と呼ぶにしろ、14年戦争と呼ぶにしろ、満州事変から昭和の戦争は始まった。満州事変から盧溝橋事件までの間、日本陸軍が進めた華北分離工作は、華北をも奪おうとしている、との中国の警戒心を高めた。盧溝橋事件が偶発的に起きたにせよ、起こるべくして起きたといえよう。

     「弱い支那」は、一撃を加えれば屈服するはずだという一撃論といい、日本は中国をなめていた。それから80年後の中国は、強大な国家に変貌へんぼうし、こわもての相貌すら見せる。強引な海洋進出を見ると、昔の陸軍を見る気がする。(笹森)

    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20170710-118-OYTPT50410

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  57. 「雪印種苗」長年にわたり種の品種偽装 発覚後の隠蔽も
    4月27日 21時54分

    雪印メグミルクの子会社で、作物の種や飼料などを販売している「雪印種苗」は、長年にわたって牧草などの種の品種偽装を重ね、その事実を隠蔽していたことを明らかにしました。問題の責任を取って赤石社長が辞任し、役員が27日夜、記者会見を開き、謝罪しました。

    偽装を行っていたのは、雪印メグミルクの子会社で、札幌市に本社がある「雪印種苗」です。

    雪印種苗と雪印メグミルクは27日夜、札幌市内で記者会見を開き、経緯を説明しました。

    それによりますと、雪印種苗は牧草用の種子などを販売する際に、不足分を補ったり在庫処理をしたりする目的で別の品種に偽装したり、ほかの品種を混ぜたりして販売していました。

    こうした偽装は、平成14年に別のグループ会社で牛肉の偽装が発覚するまで、長年にわたって組織的に行われていたということです。

    さらに平成14年以降も、雪印種苗は偽装を公表せずに隠蔽していたうえ、その後も少なくとも2つの品種で合わせて4件の偽装があり、ほかにも偽装かどうか判断できないケースも多数あったということです。

    雪印種苗はこうした偽装について、平成26年に内部関係者と見られる人からの告発などを受けて社内調査をしましたが、その際、一部の役員らが証拠隠滅や事実と異なる話をするなど、隠蔽も行われていたということです。

    笠松宏一副社長は会見で「多大なるご迷惑とご心配をおかけしました。今回のことを真摯(しんし)に受け止め、再発防止に全員で取り組んでまいります」と謝罪したうえで、一連の偽装や隠蔽について「会社の売り上げや利益につながるような誤った判断や、情報を開示しないという風土が根底にあり、『隠蔽偽装』という形になったのではないかと考えている」と述べました。

    雪印種苗は品種を偽装した以外にも、牧草や飼料、作物の種の品種名を表示しないまま販売するなどの行為も行っていたということです。

    問題の責任を取って、雪印種苗の赤石真人社長が27日に辞任し、親会社の雪印メグミルクの社長など役員も報酬の減額を予定しているということです。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180427/k10011421121000.html

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    1. 「雪印」…

      「雪印 偽装」
      https://www.google.co.jp/search?q=%E9%9B%AA%E5%8D%B0+%E5%81%BD%E8%A3%85

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  58. 警官にうそ発見器、手がかりなし…署内現金盗難
    2018年5月6日9時18分

     広島県警広島中央署(広島市中区)で昨年、金庫に保管していた詐欺事件の証拠品の現金約8500万円が盗まれた事件で、現金を保管中の3か月間、一度も金額を確認していなかったことが県警への取材でわかった。

     事件は発覚から8日で1年。内部犯行とみられるが、ずさんな管理が原因で犯行時期を絞り込めず、警察官をうそ発見器にかける異例の捜査でも有力な手がかりは浮かんでいない。

     県警は昨年2月、詐欺事件の関係先から計約9000万円を押収し、同署1階の会計課にある金庫に、小分けにして保管。同5月8日、会計課長(当時)らが金庫の鍵を入れた机の引き出しにこじ開けたような跡があるのに気づき、金庫を確認したところ、8572万円が盗まれていることが発覚した。

     会計課は、警察官が常時勤務する1階の奥にあり、休日や夜間は施錠されている。会計課長らは同月2日の時点で「引き出しに異常はなかった」と説明しており、県警は当初、内部の人物が同月3~7日の大型連休中に盗んだとみていた。

     しかし、証拠品保管の責任者だった署幹部が昨年3月下旬に異動になった際、後任に現金の場所を教えただけで、金額を確認していなかったことが判明。犯行時期が絞り込めなくなった。内部規定は証拠品の点検や引き継ぎを確実に行うと定めるが、金額の確認までは明記していない。幹部は処分されておらず、捜査員は「紛失もありうるので、金額は当然確認するべきだ。ずさんと言わざるを得ない」とする。

     県警は、警察官やOBら数百人から事情聴取。金融機関などに1万件以上の捜査依頼を行い、口座を確認して借金の有無や不審な出入金を調べた。多額の借金がある複数人が浮上し、うそ発見器にかけたが、有力情報は得られていない。

     県警幹部は「警察の威信にかけて早期解決を目指したが、いつ盗まれたのかもわからない。市民から厳しい批判もあり、粘り強く捜査するしかない」と話す。
    http://premium.yomiuri.co.jp/pc/#!/news_20180506-118-OYT1T50006

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    1. 「嘘発見器は嘘をつくか - J-Stage - 科学技術振興機構」(笑)
      https://www.google.co.jp/search?q=%E5%98%98%E7%99%BA%E8%A6%8B%E5%99%A8+%E4%BF%A1%E6%86%91%E6%80%A7

      ばかばかしい研究ごっこやってんなあ…

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    2. 現実のところ、「ウソ発見器」よりも「ホント発見器」のほうがどんだけ有用か…

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  59. 聖徳太子の一族、焼き打ちされた痕跡…法隆寺の資料倉庫で発見
    2020/10/14 14:05

    約80年ぶりに見つかった斑鳩宮の壁土の破片(12日、奈良県斑鳩町の斑鳩文化財センターで)=前田尚紀撮影

     奈良県斑鳩町で、聖徳太子が造営した斑鳩宮いかるがのみやの壁土の破片が約80年ぶりに見つかった。戦前に発掘されたが、その後所在不明になっていた。破片には、643年に焼き打ちされた際についたとみられる痕跡があり、研究者は「古代史の大事件を裏付ける貴重な資料」としている。

     斑鳩宮は601年から聖徳太子が造営し、暮らした宮殿。聖徳太子の死後の643年、子の山背大兄王やましろのおおえのおうと皇位継承を巡って対立した蘇我入鹿が焼き払い、山背大兄王ら一族は自害したとされる。

     町教委によると、法隆寺の「昭和の大改修」に伴い、1939年に東院伽藍がらんにある伝法堂で発掘調査が行われ、斑鳩宮とみられる柱跡が出土。国が48年にまとめた発掘報告書には、「炭や焼けた壁土片多量を発見」と書かれていたが、戦中の混乱もあって壁土の所在がわからなくなっていた。

     来年が聖徳太子没後1400年目にあたることから、町教委が報告書に書かれた壁土の所在を捜したところ、今年7月、法隆寺の資料倉庫で「伝法堂出土壁土」と書かれた木箱(縦67センチ、横30センチ、深さ15センチ)が見つかった。中には壁土約30片が入っており、最も大きなものは縦30センチ、横16センチ、厚さ10センチ。表面が焼かれて赤褐色などに変色していることから、町教委は焼失した斑鳩宮の壁土の可能性が高いと判断した。

     壁土は、17日から斑鳩文化財センターで開く特別展「聖徳太子の足跡―斑鳩宮と斑鳩寺」で初公開される。

     清水昭博・帝塚山大教授(歴史考古学)の話「日本の宮殿建築の部材として最古のものと考えられ、実物が確認された意義は大きい。今後の調査で壁や建物の構造などの解明が期待される」
    https://www.yomiuri.co.jp/culture/20201014-OYT1T50180/

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  60. [あすへの考]【江戸期の偽文書が「史実」に】耳なじみの良い歴史の誘惑…大阪大谷大准教授・馬部隆弘氏44
    2020/12/06 05:00

     歴史学者の馬部隆弘・大阪大谷大准教授(44)が今年刊行した『椿井文書つばいもんじょ―日本最大級の偽文書ぎもんじょ』(中公新書)は、江戸時代の偽文書が史料として活用され、現代にも影響を与えている実情を世に問うた。「作られた歴史」が「史実」となり、正されない理由は何なのか。フェイクニュースと呼ばれる偽情報がはびこる今、立ち止まって考えたい。(文化部 多可政史)


    「文章に日本書紀など実在の史書の内容も盛り込み、信憑(しんぴょう)性を高めるのが常套(じょうとう)手段。筆跡や紙のサイズにも特徴があります。椿井文書の研究を進めるうち、椿井の意図や主張が手に取るように分かるようになりました」(大阪府富田林市の大阪大谷大で。写真の椿井文書はいずれも同大図書館所蔵)=鈴木竜三撮影

    ばべ・たかひろ 1976年生まれ。熊本大卒。大阪大大学院修了。枚方市教育委員会、京都府長岡京市教育委員会などを経て2018年から現職。専門は日本中世史・近世史。主な著書に『戦国期細川権力の研究』、『由緒・偽文書と地域社会』など。


     偽文書とは「ある目的を持って偽作された古文書」を指します。例えば江戸時代の甲斐(山梨県)では、戦国大名・武田信玄関連の偽文書がたくさん作られました。有力農民が信玄とのつながりを強調し、家格を高めようとする目的があったのです。


     庶民がある程度豊かになって生活に余裕ができ、歴史に関心を持つようになった近世後期、これら偽文書の需要はピークに達しました。「椿井文書」もこうした時代の中、生み出された偽文書です。

        ◇

     一例を挙げます。江戸時代に、現在の大阪府枚方市にある「津田山」という山の支配権を巡り、津田村と穂谷村の2村が争っていました。津田村はゆかりの武士の津田氏の城が中世にあったため、津田山は自分たちのものだと主張。一方、穂谷村は朝廷に氷を供給する「氷室ひむろ」が古代に作られた場所で、より古くから朝廷と結びつきが深い自分たちこそ地域の中心的な存在だと反論したのです。

     この穂谷村の主張に沿った古文書が、椿井政隆による偽文書であると判明しています。椿井は、利権が絡んだ村同士の争いの場にしばしば登場し、地元の寺社や有力者の求めに応じて論争を有利に導く偽文書を手がけていました。

     歴史学では、複数の情報源から正しい事実を見抜くことが重要です。古文書から、史実と、間違った情報を取捨選択することを「史料批判」と言います。どのような古文書であっても、史料批判の姿勢が欠かせないはずなのですが、椿井文書の場合は、それがなおざりにされてきました。

     研究を重ねることで特有のパターンもわかってきました。現在の滋賀県や京都府など、近畿一円で見つかっていますが、山間部の農村に多く、都市部にはあまりみられません。偽作の発覚を防ぐため、知識人層の厚い都市部を避ける狙いがあったと推測されます。一方、実際に存在しない年号が書かれたり、家系図で「俊秋」の父を「俊夏」、その父を「俊春」とするなど、ユーモアあふれる人名を創作したり……。

     椿井は、万が一偽文書とばれた際も「戯れで作った」と言い逃れできるよう、あえて完璧に作らなかった節があります。今では文書偽造にあたる行為ですが、椿井にとってはこんな史料があるといいなという需要に合わせ、足りない部分を埋めてあげたという感覚で、悪いことをしている意識はあまりなかったのでしょう。

    市町村史に掲載。行政のお墨付きがあると、撤回は困難

     人を本気でだまそうとしていたわけではない椿井文書に、現代人がだまされているのです。多くの研究者によって正式な古文書として活用され、自治体が編纂へんさんした市町村史にも掲載されました。

     現在にも影響を与えてきた例として「王仁わに墳廟ふんびょう来朝紀」があります。王仁は4世紀に朝鮮半島の百済から訪れ、「論語」を伝えたとされる知識人。枚方市には王仁のものと伝わる墓がありますが、古墳時代にはありえない自然石を使った簡素な造りで、江戸時代にも本当に王仁の墓か疑う声がありました。そうした中、椿井は「来朝紀」で王仁がこの地に葬られた経緯を解説。同書の記述も根拠の一つとして、大阪府の指定史跡になっている「伝王仁墓」は、韓国の修学旅行生も訪れる、海外交流の象徴となってきました。

     ほかにも、神社の由緒書や地域の歴史を伝える説明板に椿井文書が引用されているケースは枚挙に暇いとまがありません。椿井文書の問題点を指摘することは、自治体や郷土史家が構築してきた地域の歴史を否定することにつながり、反感を買う恐れがあります。

     こうした軋轢あつれきと労力を避けたい研究者は、偽文書の存在に気づいても黙殺する消極的な対応を取らざるを得なかったのです。このため、椿井文書は多方面で活用されました。近年は史跡や文化財を観光に活用することが奨励され、分かりやすいストーリーも求められています。「信じたい」人の声に押され、間違いを正す人の声が通らず、後戻りができなくなります。特に行政のお墨付きがあると、白紙撤回することは困難となるのです。

    歴史学に欠かせぬ「史料批判」。フェイク情報は学びになり得ない

     僕自身、元々は戦国時代の武家権力の研究が専門で、偽史に興味はありませんでした。ただ、行政機関が偽文書にお墨付きを与え、まちおこし、さらには子供たちの教育材料として偽史が使われてしまう現状は、健全と言えるでしょうか。ウソだと分かりつつも、子供たちが関心を持ってくれれば良いという声も耳にしましたが、「フェイク」の情報は決して学びの対象になり得ないと思います。

     偽文書に引っかからないための体制作りについて、歴史学全体で考える必要性も痛感しています。

     具体的にどうすれば良いか。まず、各自治体に古文書が読める専門職員を最低1人、置くことが大事です。僕も枚方市に勤めていた時、自治会報に掲載される歴史の記述のチェックなどをしていましたが、市民が疑問に思った際、正しい知識を聞くことのできる存在がいれば、地域史に関心を持つ人も増えるはずです。

     市民の質問に答えるには古代・中世・近世・近現代と幅広い歴史の素養が必要です。研究が細分化され、椿井文書が対象とする古代・中世の研究者と椿井が活動した近世の研究者の交流が乏しかった点も椿井文書の問題が長年放置された背景にありました。歴史学の成果を社会に還元するには専門分野だけでなく、様々な分野に対応できる“遊撃手”的な研究者の育成も求められるでしょう。

     一方、後世に正しい歴史を残すためにも史料を保存する「公文書館」の設置が急務です。公文書館法には国や自治体が公文書を守る責務について明記していますが、実際に公文書館を設置している地域は限られます。歴史を知る上での共有財産である公文書を守る意識が低いと、貴重な史料がインターネットオークションなどで売られてしまうことにもつながります。市民が正しい歴史に触れ、偽の歴史を見抜くリテラシーを高める場としても、公文書館は重要です。

        ◇

     「歴史に学ぶ」という言葉がありますが、自分たちにとって耳なじみの良い歴史だけを学ぼうとする姿勢は好ましくありません。椿井文書にしても、なぜ見過ごされてきたかという点を掘り下げることは、歴史学の負の側面と向き合わざるを得ない難しい問題です。一方、「かくあってほしい」という人々の願いに沿って作られた文書は、江戸時代の人々の精神世界を知る格好の材料になり得ます。

     椿井文書の問題は、歴史学にまつわる様々な課題を浮き彫りにしています。いわば、歴史学の問題点を映し出す「鏡」です。そこに映し出された、これまでの問題点を踏まえると、たとえ面倒でも、世間に広まっている誤った歴史を放置するのではなく、逐一正していくことも、歴史学者の重要な役割なのではないかと考えています。

    メモ…椿井文書は江戸時代の国学者・椿井政隆(1770~1837年)が作成し、近畿一円に流布した偽文書の総称。馬部さんによると、椿井文書には織田信長の印判状や興福寺(奈良県)の末寺リストなどもあり、その数は数百点にも上るとされる。大阪大谷大(大阪府富田林市)では昨年、椿井文書約60点を購入し、今年報告書を刊行した。
    https://www.yomiuri.co.jp/culture/20201205-OYT1T50274/

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  61. 聖徳太子 没後1400年の「御遠忌」 世界遺産 法隆寺で特別法要
    2021年4月4日 10時45分

    ことしは聖徳太子が亡くなって1400年にあたるとされています。世界遺産の法隆寺では3日から聖徳太子の遺徳をしのぶ特別法要が始まりました。

    ことしは、聖徳太子の没後1400年の「御遠忌」(ごおんき)とされ、奈良県斑鳩町の世界遺産、法隆寺では聖徳太子の遺徳をしのぶ特別法要が、3日から3日間行われます。

    初日の3日は、金堂や五重塔がある西院伽藍(さいいんがらん)で法要が営まれ、県内外の寺社の関係者など450人余りが参列しました。

    法要では鮮やかな衣装をまとった4人の子どもたちが、極楽にいるとされる鳥にふんし、雅楽に合わせて華麗な舞を奉納しました。
    そのあと、法隆寺の古谷正覚住職が、聖徳太子の事績をたたえる「表白」(ひょうびゃく)を読み上げ、遺徳をしのびました。

    最後に、僧侶が経を唱えるなか、参列者は会場の中心に設けられた焼香台で次々に焼香を行いました。

    法要を見学した愛媛県の70代の女性は「勇壮な舞や雅楽が印象に残りました。連綿と続く歴史を感じ記念すべき1日になりました」と話していました。

    法隆寺の特別法要は5日まで行われます。
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210404/k10012955191000.html

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    1. 2歳で「南無仏」と唱えた聖徳太子…没後1400年目で初公開
      2021/04/07 06:37

       世界遺産・平等院(京都府宇治市)で6日、ミュージアム鳳翔館の開館20周年を記念した特別展が始まった。収蔵品が展示され、没後1400年目となる聖徳太子の幼少期の像なども初公開された。7月7日まで。

       「南無仏太子像」は平等院塔頭たっちゅうの最勝院に安置され、普段は非公開。聖徳太子が2歳の春、東を向いて手を合わせ「南無仏」と唱えた説話上の姿を表している。
      https://www.yomiuri.co.jp/culture/20210407-OYT1T50093/

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  62. あなたの知らない研究グレーの世界
    榎木英介 編著 / 田中智之 編著
    http://chugaiigaku.jp/item/detail.php?id=4362

    >健全な研究活動とQRP、不正は地続きである?!
    >研究不正の事件が起きるたびに多くの方がこう思うはずです.「とんでもない極悪人がいた」と.はたしてそれは真実でしょうか? 本書では「研究不正ではないけれども好ましくない行為(研究グレー)」に焦点を当てています.「自分が犯罪なんか起こすはずがない」と思っていても,研究グレーの心配がまったくない方はどのくらいいるでしょうか.研究不正につながっている研究グレーを犯す(または巻き込まれる)可能性は誰にでもあります.本書で紹介されている多くの研究グレーの事例を知ることは,その可能性を大きく減らし,適正な研究行為を見つめ直すきっかけになるはずです.

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    1. 白楽ロックビル
      @haklak
      『あなたの知らない研究グレーの世界 』(榎木英介 編著 / 田中智之 編著)中外医学社
      http://chugaiigaku.jp/item/detail.php?id=4362
      白楽が一部執筆しましたので、宣伝しておきます。
      本日発売。定価3,080円(本体2,800円 + 税)です。
      視点がユニークですね。
      https://twitter.com/haklak/status/1717804227228295521

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